80話:メルヴィンの心

 キュッリッキが自分に恋をしている――。


(11歳も年が離れているのに? この…オレに…)


 それは、メルヴィンの心に大きな衝撃を与えた。

 嫌な感じではない。ただ、ひどく落ち着かない気分になる。知らないところへ放り出されたような、どうしていいか惑う、そんな感じだ。


(ナルバ山で大怪我を負った彼女を看病するために、ベルトルド様から指名されて、それからずっとそばにいるようになった。

 指名された理由は、一番心を許している存在だからだという。ルーファスさんもそうだけど、そう思われたことは嬉しい。仲間になって日も浅い中で、心許せる相手として認めてもらえているのだから。

 兄を頼る妹のようなもの、そう考えていた。ルーファスさんと接しているリッキーさんは、仲のいい本当の兄妹のように見えていたから。そして自分に対しても、同じようなものだろうと考えていた。まさか恋心を向けられていたなんて、思いもよらなかった。

 ライオン傭兵団にきた彼女を見たとき、随分と子供っぽい感じの娘だと思った。当時まだ18歳だったけど、実年齢よりも言葉も見た目も子供じみていた。本当にやっていけるのかと不安になるほど頼りなげで。もっとも気になったのは、どう仲間たちの中へ溶け込んでいいか、判らない素振りが目に付いた。

 人見知りしやすい子なのだろうと思ったが、ほんの少しばかり違うようにも感じられた。それで何かと気になって世話を焼くようになった。危なっかしいところがあったから、放っておけなくて。

 そうして面倒を見ていると、段々と自分が守っていかなくては、と思うようになっていた。そうなってくると、リッキーさんにベタベタと触り放題の、ベルトルド様やアルカネットさんに不満が積もるようになった。何故そう思ったんだろう…。その頃からだろうか、彼女のことを特別意識することがある。同時に、ベルトルド様やアルカネットさんに微かに嫉妬の感情も沸く。

 どうしてそんな風に思う? 別に、ベルトルド様やアルカネットさんが彼女をかまってもいいじゃないか。それなのに、そうされることが気に入らないんだ…)


 色々思い返していくと、ますます自分の心が判らず、メルヴィンは振り払うように激しく頭を振る。そして気持ちを落ち着かせるために小さく息を吐き出すと、気晴らしのために部屋を出た。




 軽く何かをつまもうと談話室のほうへ足を向けると、ちょうど正面からカーティスが歩いてきた。


「ああ、メルヴィン。まだ頬が腫れていますねえ、痛みませんか?」


 気遣わしげに言われて、メルヴィンは微苦笑を口元に浮かべた。


「まだ痛いです」


 あれだけ感情をあらわにして怒りをぶつけてくるなど、ベルトルドにしてはたいへん珍しいことだとカーティスは思う。

 普段尊大で威張り散らしているし、怒るときは怒るのだが、カッとなった剥き出しの怒りの感情は見せたことがない。少なくともカーティスは知らない。

 いくら別のことに気を取られていたとはいえ、メルヴィンが殴り飛ばされたのである。それほどベルトルドの拳には、怒りの力がこもっていた。そのことにカーティスはとても驚いている。


「どうです、一緒に酒でも飲みませんか」


 メルヴィンは若干考える素振りをしたが、小さく頷いた。




 カーティスの部屋はみんなの部屋より広い。アジトの建物は元宿屋だったので、唯一の特別室が、今はカーティスの私室になっていた。

 小さなテーブルを挟み、向かい合うように置かれたソファに2人は座ると、カーティスはテーブルの上に置いてあったワインの瓶を手にとった。


「白の年代物です。こっそりベルトルド邸から拝借してきました」

「バレたら怖いですよ」

「構うものですか。飲みきれないほど置いてありますから、あのやしきには」


 シレっとカーティスは言うと、慣れた手つきでコルクを抜いた。その言い草から察するに、まだ数本くすねてきているだろう。こういうところは抜け目がない。

 磨き上げられた最高級のグラスに、ワインが注がれていく。

 成金趣味とまではいかないが、こうしたワイングラスや持ち物には、惜しまず金を掛ける主義である。なのでカーティスの部屋の中は、誰の部屋よりも高級感が漂っていた。

 ワインを口に含むと、切れた口の端と頬のあたりにジクジクと染みる。それに顔をしかめて、メルヴィンはグラスをテーブルに戻した。その様子を見て、カーティスは小さくため息をつく。


「飲むこともキツイようですねえ」

「まあ、我慢すれば大丈夫です。アルコールで痛みも多少和らぐと思いますし」


 苦笑いを浮かべて、メルヴィンは目を伏せた。心の中が混乱していて、あまり痛みを痛みらしく感じなかった。ワインを口に含むまで、痛みすら忘れていた。


「明日ヴィヒトリが来る事になってます。度が過ぎるほどのお兄ちゃんっ子ですから、ヴァルトが心配らしい。ついでに我々も診てくれるそうです」


 ハーメンリンナの大病院で医者をしているヴァルトの弟のヴィヒトリは、兄の仕事が終わると必ず往診に来る。ヴァルトが防御を疎かにして、猪突する攻撃タイプなのが判っているので心配なのだ。そのついでのオマケに、ライオンの連中も診てくれるというので、ありがたくお願いしていた。

 舐めるようにちびちびとワインを飲んでいた2人は、やがて雑談の話題もきれて黙り込んだ。

 カーティスは簾のように垂れ下がる前髪の隙間から、向かい側のメルヴィンの顔を見つめた。

 傭兵団のリーダーと部下なかまという関係だが、もう数年来の親友付き合いである。メルヴィンは悩みが素直に表情に出やすいので、何に悩んでいるかカーティスにはお見通しだった。


「健気でしたね、なりふりかまわずといったところでしょうか。――アイオン族だったことにも驚きましたが、片側の翼が無惨でした」


 唐突に遺跡でのことを話しだしたカーティスに、メルヴィンはハッとなって顔を向けた。


「随分と容姿の綺麗な子なので、マーゴットが嫌がってましたよ」


 ヤレヤレといった表情で、カーティスは肩をすくめた。

 これまでライオン傭兵団のマスコット的アイドルの立場に収まっていたのはマーゴットである。飛び抜けて容姿に優れているわけでもなく、愛想がないし好かれるような性格でもない。リーダーであるカーティスの恋人おんなだから、そういうふうに扱われていただけで。

 マーゴット本人は「わたしが可愛いから」と断言して憚っていなかった。ところが、メンバーのなかでは一番若く、そして美しく愛らしいキュッリッキが傭兵団に入ってきてからは立場が一転してしまった。キュッリッキ自身は仲間たちのアイドルになったつもりは毛頭なく、周りが勝手に担いでいるだけだ。

 まさかの真打ち登場となってしまい、マーゴット的には面白くないのだ。

 カーティスからしてみたら、そんな些細なことはどうでもいいことである。


「女というのは、容姿にもライバル意識を燃やすものなんですかねえ。一方的に」


 メルヴィンは小さな笑みを浮かべただけで黙っていた。


「キューリさんはとくに容姿にこだわることもないですし、他人と比べることもなさそうな子です。見た目にはたいして関心も払わないように思えますが、あの片方の翼をどうしても見られたくなかったのでしょう。それなのに、我々の目の前でひろげてしまいました」


 ソファに深々と座り直すと、カーティスは柔らかな笑みをメルヴィンへ向けた。


「よほど、あなたを失いたくなかったんですねえ。隠し通しておきたかったあの翼をひろげてまで、救いたかったくらいに」


 メルヴィンの顔は、縋るような表情を滲ませていた。


「ルーファスが言うには、初恋なんだそうな。傍目から見ていて、とても不器用そうに、でも、可愛らしくて面白いですよ。あなたにドギマギしたり、好きだ好きだと無意識にアピールしているところなんて。ただ、初恋相手のほうが、昔から恋愛方面には疎すぎる度し難い性格の持ち主なのが、彼女が可哀想ですね」


 ククッと可笑しそうにカーティスは笑う。

 ベルトルド邸で見たキュッリッキの変わりように驚きもしたが、どこか嬉しさを感じるほど微笑ましくも思えた。初めて会った時からさほど時間も経っていないのに、ひと目で判るほど見違えたのだ。

 恋をしている女性特有の、柔らかな華やぎのようなものが感じられた。とくにキュッリッキは子供っぽいところが目立っていたので、メルヴィンに向ける表情に”女”がはっきりと判る雰囲気がにじみ出ていた。そして。


「キューリさんに向けるあなたの目も、慈しみと愛情を込めた、一人の”女”を見る目をしていました。ベルトルド卿やアルカネットさんがキューリさんにベタベタしていると、嫉妬の色が露骨と浮かんでいましたし」

「カーティスさん……」

「好きなんでしょう? 仲間なのは当然として、それ以上に恋愛対象者として。最初は年下の少女の世話を焼いているだけのことだったかもしれませんが、惹かれていったんでしょう、守りたい、だいじにしたいと」


 咄嗟にメルヴィンは顔を伏せた。

 今回のことで、薄々そうではないかと思う自分が心の隅にいた。ザカリーやカーティスに指摘されて、やはりそうなのだと頷く自分がいる。

 自分もキュッリッキに対して、想いを寄せ始めていたことに。

 心をモヤモヤ包み込んでいたものが、ゆっくりと薄れていく。惑っていたことも晴れていった。


「そう、ですね……。オレはいつの間にか、彼女のことが好きになっていました。はじめからじゃない、看病のためにそばにいることになってから、段々と…」


 大怪我をして弱々しくベッドに横たわる彼女を励ましていくうちに、恋しさと愛おしさが芽生えて心の中で膨らんでいた。しかしその心は、彼女を守らなければという使命感と、仲間として世話をする義務感に覆い隠されて気づいていなかった。それで無意識に嫉妬心が顔をのぞかせるようなことがあった。


「何がきっかけになって、恋愛感情が芽生えるかは誰にも判らないことですよ。キューリさんも似たような時期だったんじゃないですか? あなたの顔を見て真っ赤になったり、ひっくり返ったりしていたそうですし」


 もちろんルーファスからの情報であり、それは仲間たちに共有されていることは内緒である。


「そうだったんですか……。オレに…その、照れたりしてああなっていたんですね」


 手を握ったり顔を覗き込んだり、動けないキュッリッキを抱き上げたりした。その都度、キュッリッキが赤い顔を伏せたり焦ったりしていたではないか。それは単に、異性に対する羞恥心からくるものだと思っていた。それで緊張のあまり顔を赤らめたりしていたのかと。

 それは全て、自分がそうしたから、照れて恥ずかしがっていたのだ。

 ようやくそのことに気づいて、メルヴィンはクラクラする頭を抱えて背中で汗をかいた。挙動不審とまで思っていたことにも冷や汗をかく。


「本当にあなたは、恋愛方面だけは、鈍いですねえ」


 メルヴィンの様子を見て、カーティスは愉快そうに笑い声を上げた。

 恋愛ごとに第三者が出しゃばることは、あまり望ましくないとカーティスは思っている。しかし、こうもメルヴィンが恋愛方面に鈍感すぎると、差し出口もお節介も遠慮している場合ではない。気づいてもらえないキュッリッキも可哀想だし、何よりメルヴィンも憐れである。相手の気持ちどころか、自分自身の気持ちにさえ気づいていなかったのだから。

 そして、失恋確定と判りながらも、一肌脱いだザカリーも可哀想だ。

 メルヴィンが自分の気持ちに気付いたから、あとは2人の恋が成就するのは時間の問題だろう。ザカリーもキュッリッキへの気持ちが本気だから、見かねてメルヴィンに指摘したのだ。それに他のメンバー達も、キュッリッキとメルヴィンが恋人同士になることは応援している。

 うまくいけば、何も問題はない。

 のだが。


「メルヴィン、さっきも言いましたが、キューリさんは片側の、あの翼のことを隠しておきたかったようですし、ベルトルド卿とアルカネットさんがキューリさんをやしきに連れ帰ってしまいました。あの様子からすると、とても奥が深い、何かがあるようです」

「ええ……」


 キュッリッキの、あの途方に暮れた表情かおが忘れられない。そして心の苦しみをあらわしたかのような悲鳴。

 ワイングラスを見つめながら、ふと、メルヴィンはあることを思い出していた。


 ――アタシね、昔、イヤなことがいっぱいあったの。それをずっと、思い出さないようにしていたのね。でも最近、毎日夢に見て、思い出しちゃって…。

 ――でね、もうちょっとだけ時間くれる? メルヴィンにもルーさんにも、傭兵団のみんなにも、ちゃんと話すから。話せる勇気が持てたら、絶対に話すから。


 まだ身体も満足に動かせず、ベッドに横たわる彼女から、そう言われていたことを。

 きっと、あの翼のことも含まれていたに違いない。

 だとしたら、自ら話す前に、最悪の形でさらけ出させてしまったということではないのか。


「なんてことだ…」


 メルヴィンは額に手をあて俯いた。


「どうしました?」


 急に俯いたメルヴィンに、カーティスが怪訝そうに問う。

 偶然が重なったことだったとはいえ、キュッリッキに翼をさらけ出させてしまった原因は、自分にあるということだ。


「オレ、最低ですね」


 気持ちに気付いてやれないどころか、心を傷つけてしまっていた。

 今頃深く傷ついて、苦しんでいるのだろう。泣いている姿が想像できて、自分自身に腹が立った。

 そして、全ての事情を知っていたからこそ、ベルトルドが怒りにまかせて殴りつけてきた。そのこともようやく理解出来た。


(殴られて当然だ…)


 あれだけキュッリッキを可愛がっているのだから、殴らずにはいられなかったのだろう。


「我々のもとへ帰してくれるか、微妙ですね…」


 もう傷つかないようにと、手元に閉じ込めてしまうのではないか。傭兵として外に出さないんじゃないかと思ってしまう。それはライオン傭兵団のリーダーとして、納得できないことだとカーティスは考えている。キュッリッキが自らの意思で傭兵団を抜けるというのなら、仕方のないこと。ベルトルドといえど勝手をされるのは心外だ。


「メルヴィン、頑張って下さいよ」

「えっ」

「キューリさんが、ここへ帰ってくるように、あなたがしっかりと迎えに行ってください」


 有無を言わさない笑顔で発破をかけられ、メルヴィンは言葉に詰まった。


(そうなんだ。彼女を迎えに行くのはオレでなくてはならない。そして今も変わらずオレを想ってくれていると信じ、自分の気持ちも伝え、彼女の心の傷を癒してやりたい。

 ベルトルド様やアルカネットさんの好きにはさせたくない)


「はい、必ずオレが連れ戻します」


 真摯な表情で言われ、カーティスは安堵したように微笑んだ。


「あ、それと」

「はい?」

「せめてその頬の腫れがひいてからにしましょうか。せっかくの色男が台無しですし、腫れ上がっているのを見たら、キューリさんが吃驚しますよ」


 そう指摘され、暫く痛みのことを忘れていたのに、急に頬がじくじく痛み出して、メルヴィンは苦笑を浮かべた。