嫌な思い出や恐怖は、できることなら永遠に封じるか、滅ぼしてしまいたいものである。それができないから、人は色々なことで紛らわし、心の、記憶の奥底へと追いやる。そして脆くも危うい蓋で閉じて、一時忘れ去るのだ。
つかの間の安寧を得たあと、ふいに閉じ込めたものが目の前に立ちふさがったとき、人はそれ以上の恐怖をもって直面する。
他人から見たら滑稽にしか映らないものも、当人にしてみれば、あらゆる装飾を伴って怖れを呼び覚ます。
ポスト・ベルトルド――女癖の悪さが――と目されるルーファスにとって、エテラマキ男爵夫人とのことは、筆舌に尽くしがたいほどのトラウマになっている。
暫くは吐き気に目眩、頭痛に悪寒が絶え間なく襲い掛かり、周りからは質の悪い風邪だと思われていたが、全てはエテマラキ男爵夫人との一夜が原因なのだ。立ち直るのにだいぶ時間を要した。
そのエテラマキ男爵夫人にそっくりの巨大な物体が、とくになにをしてくるでもなく、静かに追いかけてくるその様は、ルーファスの精神を激しく消耗させ始めていた。
目に見えて消耗の色を濃くし始めたルーファスの様子に、さすがに危険を感じたギャリーは、フェンリルの背に乗るキュッリッキに促した。
「キューリ、もう遠慮はいらねえ、アレを消しちまってくれ」
「判った!」
様子の変わったルーファスをチラリと見てキュッリッキは頷くと、先ほど蜂の大群を消し去ったスルトの炎レーヴァテインを召喚し、エテマラキ男爵夫人モドキにむけて放った。
エテマラキ男爵夫人モドキは炎に巻かれて足を止めると、声無き声をあげて苦しみもがき、やがて輪郭を徐々に縮めていった。
そのさまをじっくり見つめながら、「手応えがないかも……」とキュッリッキは首をかしげた。
「実体がナイってことですか?」
コロコロと尻尾を揺らしながらシビルが振り向くと、キュッリッキは「うん」と頷いた。
「さっきの蜂もそうなんだけど、物体を燃やした感じじゃないんだよね。焦げた臭いも漂ってこないし」
「実体のないものまで燃やしちゃえるんだ、召喚の力って?」
キュッリッキの背中にへばりついていたハーマンが、横から興味津々の顔をのぞかせる。
「魔法じゃ実体のないものまで干渉できないからさ」
「アルケラから呼び寄せる力とかは、神様の一部だから、こちらの世界に在るものには全て干渉できるの。……あ、あんま難しいことは判んないからねっ」
なんでも難しい方向に話をもって行きがちなハーマンに先手を打って、キュッリッキはエテラマキ男爵夫人モドキが消えたことを確認して、スルトの炎を還した。
「実体がないもの、我々めがけて襲いかかってくる……」
腕を組んでカーティスは考え込んだ。
「さっきの巨大肥満レディは、ルーファスに縁のあるもので、その前の蜂は何でしょうね?」
「おそらくだが」
どこか気まずそうにガエルが口を開く。
「ガキの頃に蜂の巣をつついて、大群に追い掛け回され、全身を刺された経験がある」
これにはタルコットが「ぷっ」と吹き出した。
「どんだけ蜂蜜大好きなんだお前……」
ヴァルトは呆れたように呟いた。
「………それ以来、蜂の群れは苦手でな」
ガエルの意外すぎる苦手なモノ発覚に、ヴァルトは目を丸くした。
「幻術か何かでしょうかね」
ひとつの回答をシビルが示すと、カーティスは同意した。
「そんな感じかもしれません。おそらく全員術にかかっているんでしょう。幸いキューリさんの召喚の力で消し去ることができるので大丈夫そうですが。逃げないわけにもいきませんし、幻術だけとも言い切れないので、みなさん気をつけてください」
全員頷いた。
「こんな近未来的な遺跡探検は初めてのことですが、遺跡には侵入者撃退トラップなどがつきものです。そうした類の何かで合ってると思います」
「巨大な丸い岩が転がってきたり、大量の水が洪水のごとくとか火攻めとか、そういう永遠のワンパターンよりも質の悪い……」
タルコットが肩をすくめ、苦笑があちこちから漏れる。
「キューリさんはまた幻めいたものが追いかけてきたら、躊躇せず撃退してください」
「はい」
「それから、ルーファスはちょっと辛そうなのでマリオン、ベルトルド卿に連絡を」
「もおやってるんだけどぉ、なんか繋がらないの~」
「?」
「取り込み中なのかなぁ……ウンともすんとも言わなくってぇ」
「ソレル国王などを討伐に行っているから、遮断しているんですかねえ。まあ、タイミングを計らいながら続けてください」
「ふぁい」
「この場から離れましょうか」
多少落ち着きを取り戻したルーファスは、ギャリーに手を借りながら歩き出した。
カーティスはもう勘レベルで歩き進んだ。そのうち首謀者やベルトルドたちがいる場所へ出て合流できればと、シビルとランドンに索敵はさせている。そしていつ幻が襲ってきてもいいように、キュッリッキも意識を集中させていた。
自分たちは傭兵だから、普段から鍛錬は怠っていないし体力も蓄えている。長丁場になることもあるし、数日は緊張しっぱなしでも耐えられるように精神面も鍛えていた。だが、先ほどのように明らかに悪意ある幻覚などに追い掛け回されては、体力的にも精神的にも多大な負担を強いられる。
延々白い通路が続くその先に、白く装飾のない巨大な扉が現れた。
「なぁに、これぇ~?」
高さは3メートルほどもある。押して開くのか謎だが、マリオンはヴァルトとガエルに向き直ると、ニヤッと意味ありげに笑った。
「この如何にもってぇ扉、すんごぉ~っく重そうだけどぉ、ヴァルトとガエルのどっちが力持ちなんだろ~?」
ヴァルトの眉とガエルの鼻が、ぴくっと反応した。
「こんなクマヤローに俺様が負けるわけがねえ!!」
拳同士を叩き合わせてヴァルトが吠える。瞬時に闘気が立ち上った。
「口先だけのひょろいヴァルトには荷が重い」
不敵な笑みを浮かべ、ガエルが挑発しながら腕を組んだ。
ヴァルトとガエルは扉の前に仁王立ちすると、顔を見合わせ火花を散らした。
「たきつけ完了」と表情に書いて、マリオンがみんなにブイサインをする。やれやれと疲れた笑いが静かに漂った。
「さすが女狐……」
とてもか細い声でランドンが呟く。
「まずは俺様からだ!!」
ジャンケンで勝ったヴァルトが扉に両手をつき、両腕に盛りっと力をこめて力強く押した。
「うっわわっ」
その瞬間、扉はカーテンのような軽やかさでするっと開き、勢い余ったヴァルトは顔面から盛大にすっ転んだ。
「………」
腕を組んだままガエルは内心、
(俺じゃなくてよかった…)
と安堵し、胸をなでおろした。
「いってぇ……」
「大丈夫? ヴァルト」
ランドンに助け起こされ、ヴァルトは鼻をさすりながら立ち上がった。
そんな2人の横をみんな通りながら、中の様子に目を見開いた。
とても奇妙な空間だった。
辺は漆黒のように塗りつぶしたほど黒い。暗いんじゃなく、黒いのだ。その黒い空間の中に、真っ白で柔らかい光を発する正方形の床が浮いている。そして足元はその正方形な床へ続く、真っ白な階段が続いていた。
闇のような真っ黒な空間のはずなのに、全員の姿はくっきりと明るく見えている。
「ヘンな場所……」
キュッリッキはフェンリルの背からするりと降りると、階段を駆け下りた。
「あ、リッキーさん危ないですよ!」
メルヴィンが慌ててキュッリッキを追い掛け階段を下りる。皆もそれにつられるように、次々と階段を下りていく。
キュッリッキは床の端まで駆け寄ると、そっと下を覗き込んだ。
「底が全然見えない……。落ちたらどうなっちゃうんだろう」
「危ないですよ」
追いついたメルヴィンはキュッリッキの両腕を掴むと、そっと自分のほうへ引き寄せた。その突然の行為に、キュッリッキはドキンと心臓が跳ね上がって顔を赤らめる。
「う、うん、ごめん…」
まともに顔を見上げることができないので、視線をあさっての方向へ泳がせながら謝った。鼓動はどんどん早まり、顔から蒸気でも噴出しそうだ。
「2人の世界に浸るなら、もうちょっと真ん中でしろ!」
ギャリーが真顔で怒鳴ると、メルヴィンが困ったように頷いた。
10組ほどが踊れるダンスフロアくらいの広さで、フェンスも壁もなく、通路のような材質の真っ平らな床だ。他には何もなく、奇妙な空間と白い床と階段、ということが確認できただけだった。
「見て回るモンもないようだし、次いこーぜ、次」
キュッリッキとメルヴィンの、睦まじい様子が面白くないザカリーが、突っ慳貪に言い放つ。
「んだな。ほらキューリ、フェンリルの上に戻れ」
ギャリーに促されて、まだ赤面のキュッリッキが頷いた時だった。
「きゃっ」
突然鼻先を凄いスピードで掠めていったものがいて、キュッリッキは思わず尻餅をついてしまった。
「大丈夫ですか!?」
メルヴィンに助け起こされながら、キュッリッキは「ハテ?」と不可解そうに首をかしげた。
「うきゃっ」
「ひゃっ」
今度はシビルとハーマンが小さな悲鳴をあげて、フェンリルの背から転がり落ちた。
「痛いっ! なんなんだよもー!!」
ハーマンが両手を挙げて怒り出し、シビルも帽子をかぶり直しながら眉間を寄せる。
「何かスピードのあるものが、身体を掠めていって落ちたんですが。今度は何の幻覚でしょうか」
「ツっ……」
ザカリーが歯を食いしばって右手の甲をおさえた。ギュッと握り締め、じんわりと痛みが引いていって手を離すと、右手の甲には擦り傷が出来ていた。
「ちっ、今度は幻覚なんかじゃねーぞ、実体がある」
右手の甲を示すと、皆軽く目を見開き身構えた。
ランドンはすぐさまザカリーに駆け寄ると、回復魔法をかける。
「毒の類はないみたいだね。摩擦による擦り傷みたいだ」
「実体はあるが、オレの目で追いきれない何かか」
動体視力もずば抜けているザカリーだが、さっきから一向に姿を捉えられない。
「目で追うより気配を感じろってか?」
うんざりしたようにギャリーは頭を掻いた。
「ザカリーさんが見つけられないなら、そうするしかないようですね」
同意するようにメルヴィンは頷くと、胸のペンダントヘッドを握って目を閉じ、意識を凝らした。
アサシンの気配すら見抜ける爪竜刀の持つ力を借りて、見えない気配を探る。
(気配は……二つ、だけ)
悪意や敵意といったものはない。けれど、明確な目的をもって自分たちを攻撃する、強い意思のようなものは感じられた。
「床の外に投げ出されると大変ですから、この部屋を出たほうがいいですね」
「けどよ、階段を登ってる最中に襲われたら、やっぱ危ねえぞ」
「全員で登ったら危険ですから、手間だけど、一人一人行きましょう。オレが護衛します」
「そうしてもらったほうがよさそう。目で捉えられないほど早い物体なら、
ルーファスは情けなさそうに眉を寄せた。魔法の防御も同様かとカーティスも肩をすくめた。
「お願いしますメルヴィン」
「任せてください。まずはカーティスさんから」
2人が階段へ向かおうとしたその瞬間、
「リッキーさん!」
「えっ」
血相を変えたメルヴィンが、フェンリルに乗るキュッリッキの傍らに駆け寄った瞬間、メルヴィンの身体がくの字に曲がり、勢いよく後方へ吹っ飛んだ。そして宙に浮いたまま身体が床を離れ、外に投げ出された。
「メルヴィン!!」
その時、ライオン傭兵団の皆は、信じられないものを見た。
メルヴィンを追いかけるようにフェンリルの背から飛び降り、そのまま宙に身体を踊らせたキュッリッキの、その背に大きく広がったものを。
「バカっ!!」
舌打ちしながらヴァルトは翼を広げると、落下していく2人を追って、床を蹴ってダイブした。
みぞおちに喰い込むようにして激突してきた見えない敵。あまりの衝撃にメルヴィンは目の前が暗転し、一瞬意識が飛んだ。
鈍い重みがゆっくりと去って、詰まっていた息が吐き出されると、ようやく意識を取り戻してメルヴィンはハッとなった。
足が床から離れ、宙に身体が浮いている。そして背中から落下していることに気づいた。
(このままじゃ…)
底に吸い込まれるように落ちる恐怖と焦りに、全身に冷たい感触が駆け抜けていった。
これまで何度か死に直面する場面に見舞われたことはあるが、諦めることは絶対にしなかった。諦めなければ、切り抜け打開できるという自信と希望が、そこには必ず見えていたからだ。しかしこの状況では、さすがに希望を抱く気がおきそうもない。
似合わぬ覚悟を決め、目を閉じかけたその時。
「えっ?」
宙に投げ出すように力の抜けた手をしっかりと握られて、再び目を見開いた。
「リッキーさん!?」
泣きそうな、それでいて必死な面持ちのキュッリッキが、小さな両手で右手をしっかりと握り締めているのだ。
(まさか彼女まで落とされたのか?)
見えない敵の気配二つ、自分が身体で受け止めたはずだった。それなのに何故。
メルヴィンはもう片方の手でキュッリッキの腕を掴み、自分に抱き寄せ、ほっそりとした背中に手を回して抱きしめた。そしてこの時ようやく、それが目に飛び込んできて驚愕した。
少し落下スピードが緩まったように感じられたが。
「翼……?」
「おいメルヴィン、手を伸ばせ!!」
突如怒鳴り声がして上に視線を向けると、手を伸ばしたヴァルトが落ちてきていた。
「ヴァルトさん!」
「俺様の手を掴め、早く!!」
宙をもがくようにするヴァルトの手を、必死に伸ばしたメルヴィンの手が捕まえた。
「俺様を引っ張れ!」
「はいっ!」
メルヴィンは出来る限りの力を振り絞って、ヴァルトを引っ張り寄せた。そしてヴァルトはメルヴィンの身体に手を回すと、ぎゅっと抱きしめて持ち上げるようにした。
しかし落下スピードで加速している3人の身体は、思った以上に立て直しが難しく、ヴァルトは翼を羽ばたかせてスピードを殺そうと試みるがうまくいかない。辺りに白い羽が粉雪のように舞った。
「くっそ、勢いつきすぎて立て直しがきかねえっ」
こんのぉおおっと怒鳴りながら、ヴァルトは懸命に翼を羽ばたかせるが、落下スピードが多少緩まっただけだった。
「おいきゅーり! なんでもいーからショーカンしろ!!」
ウンともスンともせず、微動だにしないキュッリッキの耳元で喚く。
メルヴィンに抱きしめられて、また赤面祭りになっているのかと思った。しかし生憎その顔は蒼白になっていて、小刻みに震えている。
「きゅーり! おまえはショーカンシだろ!! キュッリッキ!!!」
「あっ」
ビクッと身体を震わせて我に返ると、キュッリッキは大声で叫んだ。
「フェンリル!!」
次の瞬間、メルヴィンの身体は柔らかなクッションの上で、跳ねたような感触に包まれ落下が止まった。
「ふぅ…、アブナカッタ」
2人の上に覆いかぶさるようになっていたヴァルトは、気が抜けたようにグデーっとそのまま動こうとしなかった。
「さ…さすがに重いですヴァルトさん……」
キュッリッキだけなら重さのうちに入らないが、そこへヴァルトも加わるとさすがに息苦しい。
ヴァルトはゴロンと身体を仰向けにしてメルヴィンたちから離れ、両手足をぐーっと伸ばす。
「イヌの上はジュータンみたいで、ふかふかしてキモチーな!」
キュッリッキの背に手を回したまま、メルヴィンは上体を起こした。そして周囲を見回すと、黒い中に白銀色の毛並みが大地のように広がっているのが見えた。
「これ、フェンリルですか…」
驚いたように呟き、そして微動だにしないキュッリッキに再び目を向け、メルヴィンは息を飲んだ。
キュッリッキの背に広がる一枚の翼。
右側はヴァルトと同じく大きく美麗な白い翼で、虹の光彩がその翼の表面を覆っていて不思議な色合いに満ちている。
そして左側には、むしり取られたような、無残な翼の残骸のようなものが生えていた。
その対極過ぎる翼に、なんと言えばいいのだろうか。
メルヴィンは言葉を発することができなかった。
目を見開き瞬きもせず、どこか虚ろを見つめるようなキュッリッキに、どんな言葉をかければいいのか判らない。
2人の様子をチラッと見て、ヴァルトは内心で激しく舌打ちした。
まさかこんな形で、キュッリッキが隠し通したがっていた翼を、よりにもよってメルヴィンに晒すことになろうとは。
あの片翼のせいで、どれほど辛い過去を送ってきたか。その一端を知るヴァルトは、今のキュッリッキの心が痛いほど理解出来ていた。
「おいフェンリル」
ヴァルトは寝転んだ格好のまま、掌をフェンリルの背にぱふぱふ叩きつけた。
「上にあがってくれ。だいぶ落ちたから、ザカリーでも見えないだろうし」
すると、地の底を震わせるようなくぐもった唸り声が響き、フェンリルはゆっくりと上昇を始めた。
* * *
ベルトルドはアルカネットに手伝わせて急いで身支度を整えると、アルカネットとリュリュを連れてドールグスラシルに転移した。
3人が戻ると、シ・アティウスがシートから立ち上がって出迎えた。
「おかえりなさい」
さっきの珍場面が頭をよぎり、シ・アティウスは思わず吹き出しそうになって気合で堪える。
「ライオンの連中を補足して、Encounter Gullveig Systemが起動したらしいな」
「はい。ロックオンしてすでに攻撃が始まっているようです。ですがキュッリッキ嬢の反撃を受けて、システムが混乱しつつあります」
「なんだと?」
「Encounter Gullveig Systemの繰り出す立体映像に、攻撃を仕掛けることは本来できません。物理攻撃も魔法攻撃も効かないはずですが、キュッリッキ嬢の召喚による攻撃が通っているようなのです。アルケラの力はEncounter Gullveig Systemにはプログラムされていなかったようで、混乱しながらも対抗するため、反撃用プログラムを自動生成し始めています」
驚いてベルトルドは目を見張った。そして嘲笑がじんわりと口元を覆う。
「超古代文明の遺産は、召喚士の力を計算に加えていなかったのか。――レディトゥス・システムを設置できていないことが原因か」
「おそらくは」
「フンッ、どいつもこいつも手を焼かせる」
ベルトルドはメインパネルの前に立つと、パネルを操作しEncounter Gullveig Systemのコンソールを浮かび上がらせ、承認ディスプレイを呼び出した。
「”たぶらかす女神に遭遇する”という意味だが、その名の通り本当に厄介なシステムなんだ。人間の深層心理を暴いて、本人も気づいていない恐怖を取り出して具現化するんだからな。――人は意外と本当に何が怖いのか、表面上は判っていないものだ。意識しないように、深く閉じ込めるから。だが、本能は真に怖いものを理解している」
「そうねえ。そんなものが襲いかかってきて、振り払おうにも攻撃ができないんじゃあ、軽くパニックよね。それが延々追いかけてくるんだから、タマンナイわ」
「触れることのできないモノは、理解の適用外だ。
「陰湿ねン」
パネルの宙に浮かび上がるディスプレイに手を触れると、新たなコンソールが立ち上がる。その横に別のディスプレイが浮かび上がり、数字の羅列が忙しく流れていった。それを見つめ、ベルトルドは眉間を寄せた。
「必死に計算中か……。解明し、構築するのは時間がかかりそうだ。レディトゥス・システムの補佐もないし。だが対抗策を新たに算出されると、俺の大事なリッキーに何があるか判らんからな。Encounter Gullveig Systemの機能を止める」
「ソレル王国兵の残党は、もういませんか?」
「アタシが調べたから大丈夫よ」
アルカネットの指摘にリュリュが答えると、ベルトルドも頷いた。
「”ガンダールヴの名をもって、リジルの楔を打ち込む”」
ベルトルドの音声でパスワードが打ち込まれ、かざした手でシステムの機能停止が承認された。
Encounter Gullveig Systemは即座に計算を止め、機能を凍結させた。
「カーティスには動力部へ向かうよう指示を出していたが、Encounter Gullveig Systemに補足されたからには、余計な場所に迷い込んだんだろう。しょうのないやつだ。あいつらの現在地を出してくれ、シ・アティウス」
シ・アティウスは頷くと、すぐにパネルを操作し始めた。
「得意げに迷子になっていたあなたに言われたのでは、カーティスも苦労が耐えませんね」
さらっとアルカネットに指摘され、ベルトルドは真っ赤になって睨みつけた。
「俺は地図を持ってなかったが、アイツには地図を持たせてある!」
ハイハイ、とアルカネットとリュリュは揃って肩をすくめた。
「見当違いもいいところに迷い込んでいるようです」
メインモニター全面に映し出されたライオン傭兵団を見て、シ・アティウスが首をかしげた。
「どこだそこ?」
「闘技場です」
「やーね、なんだってそんなところに」
「あっ」
アルカネットは小さく声をあげると身を乗り出した。そしてベルトルドも大きく目を見開くと、愕然としたように声を振り絞った。
「リッキー………!」
* * *
フェンリルがゆっくり登るつかの間、3人は言葉を発さなかった。フェンリルもまた、唸り声一つ上げなかった。そしてようやく暗闇に浮かぶ床が見えたとき、寝転んだままのヴァルトは両手を振った。
床から下を覗き込むようにしていたシビルとハーマンが、小さな手をぶんぶん振り返している。
やがて床にフェンリルの身体が接岸すると、ヴァルトは起き上がった。キュッリッキの両脇を掴んで浮き上がり、そして床の上にそっとおろす。
力なく、ふにゃりとした足は立たず、キュッリッキはぺたりと床に座り込んでしまった。
メルヴィンもフェンリルの背を滑るようにして床に降り立つと、その場でキュッリッキを見つめた。
キュッリッキは途方に暮れた顔で身動き一つせず、瞬きすらしない。目の前にあるものをただ呆然と見つめているだけだった。
そしてライオン傭兵団の皆も、言葉を発することができなかった。
キュッリッキがアイオン族であったことも驚きだったが、その背の翼に、なんと言葉をかければいいのか。左側の痛々しすぎる翼が、言葉を奪っていた。
フェンリルは身体を仔犬の姿に戻すと、フローズヴィトニルとともにキュッリッキのそばに寄って、どうしていいか判らない様子で、落ち着きなくうろうろしている。
沈黙の漂う空間には、さきほどの見えない敵の襲来はなかった。そんなことも忘れたように黙り込む中に、それを打ち破るような叫びが響き渡った。
「リッキー!!」
「リッキーさん!」
空間がぐにゃりと歪み、ベルトルドとアルカネットが現れた。
アルカネットは床に足がつくやいなや、蹴るようにして飛び出すと、へたりこんだままのキュッリッキの傍らに駆け寄って膝をついた。
「リッキーさん、リッキーさん!」
肩を掴んで少々荒く揺さぶるが、キュッリッキは途方に暮れたまま顔を動かそうともしない。アルカネットの声など、まるで耳に入っていないように。
「一体何があったか説明しろ!」
アルカネットに先を越されて軽く舌打ちすると、黙り込んだまま動こうともしないライオン傭兵団にベルトルドは怒鳴る。
「えと」
カーティスは説明をするため口を開いたが、何をどう説明すれば判らないといった表情でベルトルドを見た。
これほど動揺しているカーティスなど、初めて見るベルトルドは逆に鼻白んだ。皆の顔を見回すと似たりよったりの様子だ。その中でも多少はマトモそうに見えるヴァルトのそばに行き、金髪頭をガッシリと鷲掴みにする。
「ぬっ?」
「口で説明できないなら、直接記憶で見せろ」
問答無用の口調で言われて、ヴァルトは渋面を作って口をへの字に曲げた。
ベルトルドはアルカネットの意識にリンクすると、ヴァルトの記憶からこの事態の様子を読み取り共有した。
「Encounter Gullveig Systemが物理攻撃にプログラム変更したのか…」
立体映像をぶつけて心理的に追い込んで、脳死させるはずのシステムは、キュッリッキの繰り出す召喚の力の攻撃に遭い、対抗策を計算していた。
「あなたが風呂で眠りこけている間に、構築していたようですね」
冷ややかにアルカネットに指摘され、ベルトルドはグッと詰まったような顔で汗をたらした。
「き、気のせいだ」
「その件はあとでたっぷり絞りましょう」
ベルトルドに軽蔑の眼差しを向けていたアルカネットは、切り替えるように一息吐き出すと、キュッリッキの顔を覗き込んだ。
「リッキーさん、翼をしまってください」
優しく語りかけるが、キュッリッキは無反応だった。
アルカネットはそれでも辛抱強く言い続けた。このまま無残な翼を面前に広げさせておくのは可哀想でならない。
そっと揺さぶり、語りかけ続け、ようやくキュッリッキはのろのろと顔を上げた。
途方に暮れた
「………アルカネット……さん?」
「はい。大丈夫ですか? さあ、翼をしまいましょうね」
キュッリッキにのみ向けられる、どこまでも優しい表情で労わるように言われ、キュッリッキは「え?」と小さく首をかしげた。そしてようやく状況が見えてきたのか、その顔がみるみる恐怖に歪み始めた。
(ライオン傭兵団のみんながいる。
そして、誰にも見られたくないはずの翼を広げているアタシが居る。
みんなが、アタシの翼を見ている。
忌まわしい左側の翼の残骸を、見られている――!)
「いやあああああっ!!」
突然キュッリッキは絞り出すように大きく絶叫を上げた。
「見ないでえ!!」
「リッキーさんっ」
「落ち着いてください! 身体に障る」
誰よりも落ち着いていない声でアルカネットがなだめるが、キュッリッキは喉が枯れるまで叫び続けた。爪が腕の肉に食い込んで、赤赤とした血が滴り落ちる。
「アルカネット、お前はこのままリッキーを連れてイララクスに戻れ」
ベルトルドは2人の傍らに片膝をついて、アルカネットの耳元で何事かを言うと、2人を飛ばした。