玄関ロビーの一角に設えられたソファから、2人の人物が立ち上がって一行を出迎えた。
「皆さんご無事でしたか」
簾のような長めの前髪を鬱陶しそうに手で払いながら、カーティスが安堵した表情を浮かべて歩いてきた。
「カーティス、シビル」
ルーファスが嬉しそうに足早に近寄って、カーティスと握手した。背の低いシビルには、片方の手を上げて挨拶する。
「ダエヴァの皆さまから、ベルトルド卿とアルカネットさんがあなた方と一緒だと聞いていたので、それはもう心配していました」
「コラ、なんで俺と一緒で心配するんだ」
すがさずムスッとした
「いえ、派手に街を破壊したり汽車で大暴れしているんじゃないか、と想像していたもので」
笑顔をひきつらせながらカーティスが言うと、ベルトルドは僅かに眉をヒクつかせて黙り込んだ。
「図星ですか……」
シビルが呆れたように小さな声でツッコむ。
「メルヴィンも大変でしたね。アサシンが相当送り込まれていたそうですから」
「そうでもないですよ」
差し出されたカーティスの手を笑顔で握り返す。もう片方の手は、まだキュッリッキの手をしっかりと握り締めていた。
「キューリさんも色々大変でしたね。式典の見世物になったり、攫われる危険に見舞われたり」
メルヴィンの横に立って、無言で俯いたままのキュッリッキに笑いかける。顔を真っ赤にして小さく頷くだけの反応が返されて、カーティスは不思議そうに首をかしげた。
メルヴィンに手を握られただけで、こんな状態になるなど知らないカーティスとシビルは、念話でルーファスから簡単に説明されて、笑いをこらえて納得した。
「俺は腹が減った!!」
部下たちの再会劇を眺めつつ、両手を腰にあてたベルトルドが子供のように喚いた。
「厨房担当者はどうなっているのですか?」
アルカネットがアルヴァー大佐に問うと、
「それが…申し訳ございません、調理担当者をこちらに派遣するのを忘れておりまして…」
「おやおや…」
やや拍子抜けしたようにアルカネットは目を瞬かせる。
ダエヴァには腕のいい料理
ベルトルドとキュッリッキに出す食事を、素性の知れない町民に調理をさせるのは問題である。何よりも2人の安全が最優先されるからだ。
「ベルトルド様とリッキーさんに、適当な食事をさせるわけにはいきません。私が何か作りましょう。皆さんは食堂で待っていてください」
「おう、早めに頼む」
「アルカネットさんって料理も出来るのか、凄いなあ」
ルーファスが感心したように言うと、ベルトルドが妙に得意げに笑みを浮かべた。
「料理
アルヴァー大佐に案内されて、厨房のほうへ歩いていくアルカネットの後ろ姿を見送りながら、ルーファスたちは思わず尊敬の眼差しをその背に投げかけていた。
カーティスの案内で食堂に行くと、真っ白なクロスのかかったいくつかの丸テーブルに、各々着席して一息ついた。すかさず下官が水の入った瓶と空のグラスを、各自の前に置いていく。それに対して、
「おい、俺にはワインを持ってきてくれ。白の美味しいやつ」
「ハッ!」
ベルトルドに命じられて、下官は急ぎ足で食堂を出て行った。
ベルトルドとキュッリッキが共についているテーブルへ、カーティスもつく。あとでアルカネットもくるだろうこのテーブルにつくのは不本意だったが、情報交換をするために仕方なく、といった表情を露骨に浮かべたまま座った。
「お前は皮肉と嫌味だけは無遠慮に露骨だな全く。で、いつここへ着いたんだ?」
「意思表示は判りやすくがモットーです。――到着は昨日の日中に。私とシビルは第ニ正規部隊と共に行動していたので、ヘリクリサムへ早い時点で飛んでました。その直後に小競り合いが始まってしまい、抜け出すのに苦労しましたよ」
溜息とともに肩をすくめるカーティスをちらりと見やり、ベルトルドはテーブルに両肘をついて、顎の下で手を組んだ。
「カルロッテのババアが奮戦してるんだったな。男遊びが酷すぎて、嫁にも出せないから婿候補をと、皇国の社交界に密かに打診があったんだが。陣頭指揮などとやらかしている様子から、誰にも相手にされなかったと見える。鬱憤晴らしに巻き込まれた軍隊が憐れだ」
バカにするように鼻で笑い飛ばす。カルロッテ王女とは、以前何度か社交界で面識を得ていた。
「それでアークラの奴が、引っ張り出されたわけか」
「はい。ベルトルド卿と同じようなことを言って、憮然となさっていました。アルイールでブルーベル将軍と、任務にあたっておられたようなので」
「そりゃそうだろう。ババアの子守で引っ張り出されたとか、いい面の皮だからな。ああ見えてアークラは、皮肉屋だから」
口を挟むことなく黙って聞いていたキュッリッキは、酷い言われようなカルロッテ王女に、今度は妙な同情心が芽生えてしまった。
メルヴィンが庇うような発言をしたときは嫉妬が沸き起こったが、こうして別人が話す中で言われ放題だと、可哀想に思えてしまうから現金だ。
自分に都合のいい気持ちに嫌気がさして、こっそりため息をつく。
ベルトルドとカーティスは簡単な打ち合わせなどで話し込み、1時間ほど経過した。
「腹減った…」
テーブルに片頬をついてベルトルドがぼやいたとき、食堂に良い匂いが漂ってきた。
「お待たせしました」
マントと上着を脱いでエプロンをつけたアルカネットが、大きなワゴンを押しながら食堂へ入ってきた。
「きたきた」
ベルトルドは顔を上げて、嬉しそうに微笑む。
アルカネットは慣れた手つきで、皿を皆の前に置いていく。
少し大きめのハンバーグをトマトソースで煮込んで、チーズがかけられている料理と、こんがり焼けたマフィンの上に、ポーチドエッグとスモークサーモンを乗せた料理の皿二つが並べられ、香る湯気が皆の食欲中枢を刺激する。
「どうぞ、温かいうちに召し上がってください」
アルカネットがすすめると、皆料理にかぶりつき始めた。しかしキュッリッキだけは、じっと皿を見つめて手を膝に置いたままだ。それに気づいたアルカネットが、心配そうに
「あまりお好きではありませんでしたか? 何か違うものを作ってきましょうか?」
アルカネットとは目を合わせようともせず、硬い表情のまま黙って首を横に振った。ハンバーグも大好きだし、何よりエッグベネディクトはキュッリッキの好物の一つだ。それを知っているアルカネットが、わざわざキュッリッキの好みの料理を用意してくれたのだ。
「食欲がありませんか? また体調が悪いのでは……」
「薬が入ってるかもしれないから、食べないんだもん」
むすっとした表情でキュッリッキが言うと、ベルトルドは「ふふん」と嫌味ったらしく笑う。
「自業自得だな」
空になったワイングラスをカーティスの前にちらつかせ、おかわりを催促しながら、ベルトルドがここぞとばかりにアルカネットへ嫌味を吐いた。汽車の中でキュッリッキにキスしたことを、根に持っているのだ。
「やれやれ」といった表情で、カーティスがワインを注ぐ。
「昼間のことは、本当にすみませんでした。この料理に薬は入っていませんから、安心して食べてください」
心底申し訳なさそうに見上げてくるアルカネットの顔を、極力視界に入れないように、キュッリッキは頑なに意地を張り続けた。
そんなキュッリッキの様子を見て、腰を浮かせようとしたメルヴィンを、ルーファスが素早く手振りで止めた。そしてそのまま席を立つと、アルカネットの反対側に膝をつく。
「キューリちゃん、確かに薬で眠らせるのはオレも良くないことだと思う。けどね、アルカネットさんは悪気があったわけじゃないし、むしろキューリちゃんを心配して、心配のあまりにでちゃった行動だから。それは、キューリちゃんも判ってるだろう?」
キュッリッキは表情はそのままに、小さく頷く。
そんなことは判っているが、それでもやはり意地が勝ってしまう。
「沢山謝っているし、こうしてキューリちゃんの好きなものを急いで作ってくれたんだから、ちゃんと食べなきゃ」
「でも……」
「オレたちもアルカネットさんも、そしてキューリちゃんも仲間なんだよ。仲間でも時には意に沿わないことをしたり、されてしまうことだってあるし、失敗だってある。仲間だからって、なんでも判り合っているわけじゃない。でも仲間だから、そういうのもひっくるめて、許す心も持たないと」
「仲間…」
「うん、仲間。これからずっと一緒にやっていく仲間なんだから。ね、だから、許してあげよう?」
ルーファスは辛抱強く、努めて優しく諭す。
今までは、すぐに解散してしまう程度の仲間付き合いはあった。でもその時は、とくに『仲間意識』などもたずとも良かった。所詮一時手を組んだだけの相手だったから。
もしかしたらそういう一時でも、相手を思いやる心は必要だったかもしれないが、キュッリッキはそういうことには疎かった。
これからずっと一緒にやっていく仲間。――この言葉は、キュッリッキの心に強く響いて染み込んでいく。
何かにつけて甘やかしてくれたり、良くしてくれたりもしていたが、でもいつかは別れる人たちだと、心のどこかでそう思う自分がいた。いつまでも一緒にいられるわけじゃないんだ、短い間だけなんだからと。だから仲間意識なんて必要ない、イラナイものだったはずなのに。
キュッリッキはルーファスを見る。いつもの優しい”おにいちゃん”のような笑顔が向けられていた。
そしてアルカネットを見ると、自分の行いを後悔するような、申し訳なさを満面にたたえた、寂しげな笑みを浮かべている。
再び膝に視線を落とし、キュッリッキは小さく頷いた。
「……もうしないって、約束してくれたら、許してもいいよ」
どこか拗ねたように言うキュッリッキに苦笑して、ルーファスはヨシヨシと頭を撫でてやった。アルカネットもホッとしたように破顔すると、
「ありがとうございます。さあ、冷めないうちに」
そう言って、嬉しそうに笑んで立ち上がった。
お腹も膨れて食欲は満足したが、ベルトルドは不機嫌だった。
キュッリッキが意地を張り続けているのを見かねたメルヴィンを、阻止してルーファスが出しゃばったのも、キュッリッキに想いを寄せられているメルヴィンに対して、アルカネットが嫉妬しているのが判っていたからだ。
メルヴィンがアルカネットを庇えば、アルカネットのメルヴィンに対する不快感はいっそう増すばかり。それはこの先マイナスにしかならないことが、ルーファスには判っている。だから止めたのだ。
もちろんベルトルドも嫉妬しているのだが、愛するキュッリッキがそれで幸せなら仕方がないとも思っているので、より胸中は複雑だ。
そんなわけで、ちょっとした修羅場でも起きてくれるとせいせいする、とか子供じみたことを考えていたので、丸くおさまり面白くないのだ。そしてアルイールからずっと、キュッリッキとベタベタ出来ない状況にも我慢の限界突破して、さらに不機嫌度数は上がりまくっていた。
食事もすんで紅茶が出されたところで、アルヴァー大佐が部屋割りとカギを持参して食堂にやってきた。
宿の特別室は2部屋しかなく、そこをベルトルドとアルカネットが指定される。一般の部屋には、ライオン傭兵団の各自にあてて整えたと説明された。そしていきなりベルトルドが、テーブルをバンッと叩く。
「その部屋割り気に入らん!!」
「……はあ?」
特別室の何が気に入らないのか見当もつかないアルヴァー大佐は、目を白黒させて四角い顔に困惑を浮かべた。
「リッキーと俺は一緒に特別室だ」
「えっ!?」
意表をつかれたアルヴァー大佐は、慌ててキュッリッキとベルトルドを交互に見て、更に困惑を深める。
「いや、その……しかし妙齢のご婦人と一緒のお部屋は……」
「妙齢でも高齢でも関係ない! 俺はリッキーと一緒じゃなきゃ寝ない!」
「寝なきゃいいんですよ」
ティーカップを口に運びながら、すかさず冷たい口調でアルカネットが言う。
「喧しい!!」
噛み付きそうな顔でアルカネットを睨みつけたあと、ベルトルドは椅子ごとキュッリッキのそばまで寄ると、いきなりキュッリッキを抱きしめた。
「俺は絶対にリッキーと一緒に寝るんだっ! 誰にも邪魔はさせないぞ!! もし邪魔をするなら全員この世から抹殺してくれるわ!」
アルカネットは額を抑えてため息をつき、ライオン傭兵団の皆は各自思い思いの表情を浮かべて呆気にとられている。
アルヴァー大佐は事情がさっぱり飲み込めないようで、どう答えていいか返事に詰まって大汗を浮かべていた。
当のキュッリッキは、
(まぁた始まった……)
ベルトルド邸ではほぼ毎日の恒例行事なので、別段驚いても呆れてもいない。「全くもー」という表情で、おとなしくされるがままでいた。そしてチラリとアルカネットを見る。
こういうことをベルトルドが喚きたてると、一緒になって同じことを言い出すはずなのに、今日に限って黙っている。しかしその紫色の瞳には、大いに不満が滲み出していた。
まさか今日のことを反省して、遠慮でもしているのかしら? とキュッリッキは思っていたが、アルカネットの考えは全然違っていた。
実はベルトルドがこういう子供じみた態度を前面に押し出しているときは、望みを叶えてやらないと、本当に殺人行動に出ることを知っているからだ。
過去3回ほどそういう場面があり、リュリュと2人がかりで押さえ込むのに苦労したのだ。そうした前科があるので、まかり間違ってキュッリッキに手をかけられたら目も当てられない。空間転移で暴れられたら助けようがないからだ。
ただの癇癪ならいいが、ベルトルドの癇癪は悪い意味でレベルが違う。
キュッリッキに対しては一線を実に良く守っているので、嫌がるであろう彼女を無理やり押し倒すことはしないと判断し、アルカネットは忍耐を総動員して我慢していた。本当なら、ベルトルドを永遠に黙らせてでも、キュッリッキと一緒に寝たいのが本心だ。
頑として譲らないベルトルドの態度についていけないアルヴァー大佐が、可哀想にも縮こまって黙り込んだ。それを哀れに思い、キュッリッキは深々とため息をついた。
「アタシ一緒でも構わないよ。いつも一緒に寝てるし」
「よし決まりだ! リッキーの枕とタオルなども俺の部屋にちゃんと用意しておけアルヴァー」
意気揚々としたベルトルドは胸を張る。
「は、はい」
掠れたような声で返事をして、アルヴァー大佐はフラフラと食堂を退室していった。
「四角い顔は融通がきかなくて困る」
フフンッと鼻で笑うと、ベルトルドは愛おしむように、キュッリッキにすりすりと頬ずりした。
「お腹いっぱいになったし、アタシお風呂入ってくる」
しっかり抱きしめているベルトルドの手の甲をペチッと叩いて解放させると、キュッリッキは椅子から立ち上がって伸びをした。
「フェンリル、フローズヴィトニル、おいで」
別のテーブルの上でくつろいでいた2匹を呼ぶと、キュッリッキはスタスタと食堂を出て行った。
「よし、俺も一緒に入ってくるぞ」
そう言って立ち上がったご機嫌のベルトルドの肩を、素早く掴む者がいた。
背後から冷気が漂ってくる。
「あなたはここで、おとなしく座っていなさい」
「………」
昏い底冷えのするようなアルカネットの声に、今度はベルトルドが黙り込む番になった。
キレたときの態度は実に対照的で、ベルトルドは激しく暴れるが、アルカネットは静かに刃を振り下ろす。
あまり見られない上司たちのどうしようもない様子を遠巻きに見て、どっと疲れに襲われるライオン傭兵団だった。
ベルトルドにもアルカネットにも覗かれることなく入浴を満喫したキュッリッキは、髪の毛を乾かしたあと、ふかふかのベッドにコロンと寝転がった。
清潔なシーツの匂いと、柔らかな枕の感触が肌に気持ち良かった。
「さあ、寝るぞー!!」
ノックもなくいきなり扉が開いて、入浴を済ませてローブに着替えたベルトルドが元気に入ってきた。
大股でベッドまで歩いてくると、素早くキュッリッキの横に寝転がって、目を丸くしているキュッリッキを抱き寄せた。
「やっと2人っきりになれた」
嬉しくて嬉しくて仕方がない、といった口調で言われて、キュッリッキは苦笑を浮かべた。
自らの腕の中にキュッリッキを抱きしめることができて、ベルトルドは大いに満足した。そしてすぐに、こてっと寝付いてしまった。
「あれ? もう寝ちゃったの!?」
何か話でもするのかと思っていたが、頭の上から「スー、スー」と寝息が聞こえて、キュッリッキは若干拍子抜けした。
ベルトルドの胸に押し付けられるようにして抱きしめられているので、あまり身動きがとれない。とても窮屈だったが、そのうち腕の力も弱まるだろうと思い、暫く我慢することにした。
アルカネットに薬で眠らされ、起きても泣き疲れて寝てしまい、キュッリッキは実に目が冴え渡っていた。なので少しはベルトルドと話でもしたかったのだが、ベルトルドのほうが速攻眠りに落ちてしまったのでどうしようもない。
眠れない時に無理に寝ようとしても逆効果なので、キュッリッキはローブの襟元からのぞくベルトルドの胸を、ぼんやりと見つめていた。
筋肉ムキムキでもなく、ぷよぷよやわでもない。ちょうどいいくらいの、引き締まった胸をしている。
いつも抱きしめられているので、ベルトルドの胸の感触は慣れっこになっていた。そしてこうして抱きしめられる都度、どこかホッとするような安心感がある。
ベルトルドの胸におでこをくっつけて、小さなため息をもらし、ふと、父親の胸はこんなかんじなのかな、という考えが頭をよぎった。
キュッリッキは昔、たった一度だけ自分の両親を探しに行ったことがある。
召喚
顔を見せに行ったところで、歓迎されることはまずありえない。それでもキュッリッキは遠目に、両親を見てみたかった。
惑星ペッコは浮遊している大陸や島が無数にあり、そうした浮遊している土地に、街や村が在る。有翼人であるアイオン族にとって、住処が空にあろうが大地にあろうが関係ない。飛べばいい、ただそれだけだ。
両親の家はバルトル地方にある浮遊島の一つ、ベルカ島にあった。かつてキュッリッキがいた修道院の在る、ヴィフレア地方と近い。
島の南端に家は建っていた。赤や黄色のバラに囲まれた、白くて大きな家。そのバラ咲き乱れる花壇のそばに、2人の男女が寄り添いながら談笑していた。
(あれが、アタシのお父さんとお母さん……)
同じ金色の髪をしている。
片方の翼が奇形だったからという理由だけで、自分を捨てた両親。
可哀想に思ってくれたわけでもなく、いたわってくれたわけでもない。無慈悲に捨てた酷い大人達。
ふいに憎しみが足元から這い上がるようにして脳天を突き抜けた。
修道院での残酷な仕打ちの数々を思い出す。自分をあんな境遇に陥れた張本人たちだ。それなのに…。
捨てた娘のことなどとうに忘れ去ったような、仲睦まじさが漂う2人の幸せそうな笑顔。キュッリッキは2人の笑みに誘われそうになり、ふらりと足を踏み出した。しかし突如我に返って、物陰に身を潜めた。
自分よりも少し年下の少女が、両親のもとに笑顔で駆け寄る姿が見えたからだ。
その少女を両親は嬉しそうに抱き寄せているのが見えて、その少女が妹なのだとキュッリッキは直感した。
(絵に描いたような、あれが幸せそうな家族ってものなんだ…)
キュッリッキは心のどこかで、ほんの少し期待をしていた。
自分を捨てたことを後悔し、多少は哀しみに満ちているだろう両親を。
しかしそんなものは存在しないのだ。何故なら自分の代わりは、ああして新しく生まれているから。
両親の愛情をたっぷり受けて、幸せを形にしたような笑顔の妹がいるのだから。
本来は、自分もあそこにいたはずだ。
片方の翼が奇形じゃなければ、ああして幸せそうに笑って、家族みんなで一緒に暮らせていたはず。
帰ることが許されないあの場所、けして得られない両親の愛情。自分には与えられなかった全てが、あそこにある。
結局それを再確認しただけだった。
思い出すだけで胸が引き裂かれるように痛い。思い出さなくてもいいことなのに、思い出して自ら心を傷つけている。
いつかはこの痛みから、解放される日はくるのだろうか。
「泣いても構わないんだぞ」
突然囁くような声がして、キュッリッキはハッと顔をあげた。
「我慢しなくていい」
重ねて言われる。キュッリッキは小さく頷くと、ベルトルドの胸にすがるようにして嗚咽を漏らした。
キュッリッキの心が流れ込んできて、夢としてキュッリッキの記憶を見ることになったベルトルドは、同調しかかって慌てて目を覚ました。
故意に記憶を覗き見ることはしなくても、勝手に流れ込んでくることがあるので厄介だった。
こうして想いが強ければ強いほど、感じ取りやすくなる。かつてキュッリッキが大怪我を負って、
(楽しい思い出で、いっぱいにしてやりたい)
思い出すことが楽しくて、笑顔でいっぱいになるような、そんな思い出を沢山作ってやりたい。そうベルトルドは何度も思った。
キュッリッキの心の傷がまだまだ深いことを再認識して、声を殺して泣くキュッリッキを、そっと抱きしめた。