軍での勤めを終えてきたライオン傭兵団は、夕食の準備ができるまでスモーキングルームに集まるのが、ベルトルド邸にきてからの日課となっていた。
いつもならガヤガヤと適当な雑談が飛び交うが、今日はみんな黙ってキュッリッキの朗読を拝聴中である。
家庭教師グンヒルドに毎日一時間字を教わっている。グンヒルドが用意する本を朗読し、言葉の意味を教わり、キュッリッキの国語力も少しずつ上達していた。
19歳にもなるキュッリッキが、7~8歳の子供が読むような本を一生懸命になって読んでいる。しかしそのことを誰もバカになどしない。
家庭や金銭的な事情で、基礎学校へ満足に行けず働きに出る子供達が普通にいる。傭兵をしている子供は、そういった背景が多いのだ。
キュッリッキの詳しい生い立ちは知らないまでも、勉強することを喜び、真摯に取り組む姿勢は応援に値するのだった。
しかめっ面になったり、得意そうな顔をしたり、百面相も披露しながらの朗読会が終わると、キュッリッキは恥ずかしそうに笑った。みんなから励ましの拍手が贈られる。
「だいぶ読める単語が増えてきましたね」
シビルがニッコリ言うと、
「その調子で好きな路線の本を読むと、覚えるのも、もーっと早くなるかも」
尻尾をフサフサ振りながら、ハーマンが分厚い本を一冊差し出す。
「『初心者でもわかる魔法辞典』?」
受け取ったキュッリッキが表題を読むと、ハーマンはえっへんと胸を張る。
「
「ふみゅ~」
言われて適当なページを開くが、すぐにパタンと閉じる。
「謎いミミズ語がいっぱい並んでるかも…。ベルトルドさんの書く字みたい」
「えー…あんなのと一緒にしないでよー」
ハーマンは飛び跳ねながら抗議した。
「俺がなんだ??」
スモーキングルームのドアを開けながら、ベルトルドが不思議そうな顔で入ってきた。ハーマンは慌てて口を塞ぐ。
「おかえりなさい」
部屋のあちこちから、棒読みのような挨拶がチラホラ投げかけられる。
「おかえりなさい、ベルトルドさん」
ベルトルドに笑顔を向けると共に、キュッリッキは心配そうな視線を股間に注ぐ。
「ただいまリッキー、もうナマコは退治したぞ」
笑顔をひきつらせながら、ベルトルドはキュッリッキを抱きしめる。
「俺のフランクフルトは、ナマコごときに殺られたりはしないぞ」
「ほむ…」
キュッリッキは一人意味不明な表情を浮かべていたが、ライオンのみんなは俯いて身体を小刻みに震わせながら、必死に笑いを堪えていた。
夕食を終えると、ベルトルドは自分の部屋で使っている一人用のお気に入りソファをキュッリッキの部屋へ持ってきてだらりと座った。デスクワークと会議詰めで、肩もこってるし背中も痛い。
背をグーッと伸ばして唸っていると、後ろで手を組んだキュッリッキが、不安そうに前に立った。
「ベルトルドさん大丈夫? すごく疲れてるみたい」
「仕事が忙しくてね。でも大丈夫だぞ、リッキーの顔を見たら疲れも吹っ飛んだ」
ベルトルドの柔らかな笑みに、キュッリッキもホッとしたように笑顔を見せた。
先月過労で倒れて入院している。そのためリュリュが、一日置きに残業させずに定時で帰らせていた。戦争を控えた大事な時期だけに、ベルトルドの体調のほうが最優先なのだ。
「そういえばさっき、あいつらに本を読んでいたようだね」
「うん。新しい本が読めるようになったから、みんなに聞いてもらってたの」
「そうかそうか。――おいで、リッキー」
ベルトルドは膝にキュッリッキを座らせると、テーブルに置いてあった本を
「俺にも読んで聞かせてほしいな」
「うわっ。はいなのっ」
キュッリッキはちょっと緊張した面持ちで本を開く。スウッと息を吸い込み、肩を強ばらせて読み始めた。
創作の冒険物語を、小さな子供向けに判りやすく書かれたもののようだ。
流暢に読む箇所、たどたどしくつっかえながら読む箇所があるなど、まだまだ不慣れな口調で読む姿が微笑ましい。時々読めていない単語を教えながら、ベルトルドは優しい笑みを浮かべていた。
元から全く字が読めないわけではなく、これまでの生活で必要な字は読んで理解している。ただ、偏った覚え方や意味をしっかり把握出来ていない部分も多いので、今のうちに正しく覚えたほうがいいだろう。幸いグンヒルドの教え方が良いのか、キュッリッキの飲み込みは早かった。
朗読が終わると、ベルトルドはキュッリッキを抱き寄せ、ご褒美に頭や頬にキスの雨を降らせた。
「教わったことを、ちゃんと覚えているようだね。授業は楽しいかな?」
「うん、とっても。一時間じゃ物足りないの。もっともっと色んな事教わりたい」
目をキラキラさせながら、キュッリッキはウキウキ感を笑顔に漂わせた。
「戦争が終わったら、授業時間を増やしてもらうといい。ヴィヒトリも文句はなかろう」
「そうだといいなあ~」
そう言って、急にキュッリッキの表情から笑みが薄れていく。
「どうしたのかな?」
様子に気づいたベルトルドが頭をそっと撫でると、キュッリッキは俯き、少し考えるように視線を床に落とす。
「アタシね、ずっと、生きていくことだけを考えてたの。働いて、ご飯食べて、寝て、たまにハドリーやファニーと遊んで、それだけ」
背表紙に掌を這わせ、自嘲するような笑みが口元を掠めた。
「ライオンのみんなとお喋りしたり、グンヒルド先生とお勉強したりしてるとね、アタシってつまんない子って気づいちゃったの」
「リッキー?」
「えへ」
どこか寂しそうな苦笑をベルトルドに向けて、キュッリッキは小さく舌を出した。
「将来何になりたいとか、生きる意味とか、目標とか、趣味とか、そんなの何にもないの。それに気がついちゃったのね。そしたら急に恥ずかしくなって、アタシってつまんない子だな~って思って…」
ベルトルドは首を横に振ると、キュッリッキを優しく抱きしめる。
「これから見つけていけばいいだけのことだぞ? リッキーはまだ19歳だ。これから色んなことにチャレンジして、可能性を広げられる」
「でも、みんな幼い頃には、将来は何になりたいか決めてたって言ってたよ」
一旦身体を離し、ベルトルドはキュッリッキの顔を真正面に向けると、コツンと額を突きつけた。
「この世界には
「うん」
「しかし手持ちの
「そうだね」
「リッキーはこれまで傭兵の世界しか知らなかった。だが、これからは違う世界も沢山知ればいい。リッキーが望んだ勉強は、新しい世界を沢山見せて広げてくれる。その中から興味を持ったものにチャレンジしてみればいい。リッキーにはそうするだけの時間が沢山あるから、焦らなくて大丈夫だよ」
優しい光を宿すベルトルドの瞳をジッと見つめ、キュッリッキは嬉しそうに目を細めた。
(親に捨てられず、たとえ捨てられていても、誰かが手を差し伸べてくれていたら…)
それは、思わないようにしてきた。でも時々、ふとそう思ってしまうことがある。ごく普通に育ってきた人たちと話をしていると、自分は異質だと感じてしまうのだ。
しかし今はベルトルドがいて、アルカネットがいて、ライオン傭兵団がいる。何もなかった自分の将来に、可能性を見つけることが出来るのだ。
すぐには見つからなくても、探していけばいい。選択するという道が、目の前に敷かれたのだ。
とても嬉しかった。
額を離すと、キュッリッキは「そだ」と首を傾げた。
「ベルトルドさんは、どうして副宰相になったの?」
「うん?」
「ルーさんが、ベルトルドさんはヒモか詐欺師で一生食っていけるって言ってたの」
詐欺師は判るが、ヒモの意味がキュッリッキには判らない。
「リッキー、ルーから教わったことは何でも、逐一俺にも教えてくれ」
光が零れるような爽やかな笑顔をするベルトルドを、キュッリッキはドン引きして見つめる。背後に怒りのオーラが見えるのだ。
「…はいなの」
「俺が副宰相になったのは、能無しボケジジイに押し付けられたからだったんだが…。俺にはどうしても、やり遂げなければならないことがある」
「やり遂げなきゃいけないこと?」
「うん。それは俺の生涯をかけても、絶対にしなきゃいけないんだ」
ベルトルドは前方に視線を向ける。
宝石のようなブルーグレーの瞳は、部屋ではない別のところを見据えている。
温和な表情が消え、鋭い目つきと、不敵な笑みが口元を覆った。その表情を見て、キュッリッキは身をすくませる。普段キュッリッキには見せない怖い顔だ。
手に伝わる小さな震えに気づき、ベルトルドは表情を和ませた。
「――俺の目的のためには、副宰相くらいの地位がないと遂行しにくいんだ。それでこんなに忙しくて面倒な役回りを引き受けている」
そう言って、キュッリッキに優しく微笑みかけた。
「ベルトルドさんも、頑張ってるんだね」
「ああ、そうだな」