愛されたい。子供の頃からずっと願ってきた、ただ一つの思い。
片翼の出来損ないの自分を、好きになってくれる人が欲しかった。
容姿や
でも、ようやくそんな人が現れた。
ベルトルドの力強い言葉は、今まで心に巣食っていた
愛していると、言ってもらえた。
なんて心地よく、喜びに満ちた響きだろう。
上っ面の薄っぺらい言葉じゃない。キュッリッキを全部知った上で、言ってくれた愛だ。だから、涙が溢れて止まらないほど嬉しい。
嬉しくて嬉しくて、必死に泣いた。こみ上げてくる感情の全てを泣き声に乗せて、言葉で言い表せない想いを込めて泣いた。
「リッキーさん」
アルカネットに優しく呼びかけられ、キュッリッキは顔を上げてアルカネットを見る。
「私もあなたを愛していますよ。ベルトルドに負けないくらい、いえ、上回るほどに。私の愛は、全てあなたのものですからね」
「アルカネットさん……ありがとう」
優しく微笑んでくれるアルカネットに、キュッリッキも泣き顔を微笑ませた。
いつまでも止まらない涙を、アルカネットがハンカチでそっと拭ってくれる。それも嬉しくて余計に涙がこぼれた。
すると突然、ベルトルドがアルカネットと距離を置いて離れた。そして、ジロリとアルカネットを睨みつける。
「リッキーは俺のものだからな! お前には絶対あげないぞ」
キュッリッキを抱きしめたまま、ベルトルドは鼻息荒く言い放った。キュッリッキは「ふぇ?」と目を丸くする。
「リッキーさんを物扱いするような言い方はよして下さい、相変わらず失礼なひとですね。まあ…もっとも、私とリッキーさんはすでに唇を重ね合った仲ですから。アナタがとやかく言う筋合いではないのですよ」
光の粒子が零れるような、勝ち誇った笑みを満面に浮かべるアルカネットを、ベルトルドは歯ぎしりしながら忌々しげに睨みつけた。が、あることに気づいたように、無邪気な笑みを腕の中のキュッリッキに向ける。
(リッキー、キスしてもいいか?)
「えっ」
念話でいきなり素っ頓狂なことを問われて、思わず声に出してしまう。アルカネットがそれに気づいて首をかしげた。
(俺もリッキーとキスしたいんだ! だからいいだろう?)
あまりにも唐突過ぎて、何がいいんだろう!? と思った。
握り拳を高らかに掲げて胸を張る姿が想像できそうな、有無を言わせない迫力に、キュッリッキは顔を真っ赤にして硬直してしまった。
(なんでベルトルドさん、アタシとキスしたいんだろう??)
謎と疑問が鎌首をもたげる。
この時、ベルトルドもアルカネットも、ある一点に気づいていない。
確かにキュッリッキは愛に飢えていた。そして、2人はキュッリッキに惜しみない愛を言葉にした。しかしその愛を、キュッリッキは恋愛感情と結びつけて捉えてはいなかった。
一言”愛”といっても、色々な形がある。
ベルトルドもアルカネットも、キュッリッキを慈しみ、守る大いなる父性愛もあったが、それ以上に男と女の恋愛面も強く滲ませた愛だった。
愛されたいとは願っていた。しかし当のキュッリッキは、どんな形の愛を望んでいたのか、自分ではよく判らないでいた。そもそも愛というものに、様々な種類があるなんて知らないのだ。少なくとも、2人が求める恋愛の形ではないことだけは確かだった。
唇と唇のキスというのは男と女がするもの、というのは知っている。そして、キスをするのは、恋人同士がするものだと。同性愛者だってする、という常識は知らない。
恋人同士ではないのに、何故ベルトルドはこんな執拗にキスを望んでいるのだろう。キュッリッキの頭の中は、目まぐるしく色々な事が走り回っていた。
思えばまだ知り合って日も浅く、傷を負った自分のために遠方から駆けつけてくれた。手配してくれた医者だって、この贅を尽くした部屋だって、何もかも当たり前のようにしてくれる。
自分に向けてくれる優しさは本物だし、愛していると言ってくれた。
記念すべきファーストキスは、アルカネットと思わぬ形で完了してしまった。
だから…。
(……一回だけなら)
真っ赤な顔を俯かせながら、心の中でそっと呟いた。ベルトルドへの感謝の気持ちということでなら。
ベルトルドは「よっしゃあ!」と心の中で叫ぶと――念話でキュッリッキに筒抜けていた――キュッリッキをベッドに寝かせ、そのまま強引にキスをしてしまえと屈み込んだ。
「アルカネットに気づかれる前にしてやるぞ!」とベルトルドは燃えていた。顔はロマンスを貼り付けたように平静を装ってはいたが、心の中はこのチャンスを逃してなるものかと必死だった。
お互いの吐息が触れ合う所まで近づいた。しかし、その先へ顔は進まなかった。
「………」
ベルトルドは必死に首を伸ばした。顔を赤らめて驚いたように目を見張るキュッリッキの顔を間近に見ながら、唇を尖らせればあと少しの距離で――
「いい加減にしろや」
ベルトルドの襟首をガッシリと掴んだアルカネットが、憤怒の形相でベルトルドを睥睨している。本気で怒っているらしく、口調もガラリと変わっていた。
その声音にキュッリッキがビクリと身体を引きつらせる。自分の知らないすごい剣幕のアルカネットが、ベルトルドの後ろに見えるのだ。ついでにベルトルドの必死な形相も怖かった。涙を垂れ流し続け、口を尖らせ迫ってくる。ヒポカンパスのような顔だと、ちらりとキュッリッキは思った。
「俺もキスしたいっ!!」
悲痛な叫びと言ってよかった。しかし姿勢的に不利らしく、ベルトルドは必死でもがいたが無駄な努力に終わった。
襟首を掴まれたままキュッリッキから引き剥がされると、アルカネットの面前に今にも泣きそうなベルトルドの顔が向けられた。
「私の前でよくもいけしゃあしゃあと、痴態を晒せますね」
眉間に縦皺を刻んで、殺気立つ視線をベルトルドに向ける。普段の温厚な表情など微塵も感じなかった。
「お前ばっかり狡い!! 俺もリッキーとちゅーしたい!! リッキーの承諾はもらってるんだからいいじゃないか」
「やはり念話で迫ったんですね。イヤラシイったらないですよ、このおっさんは」
「声に出して言ったら、お前阻止するだろう!」
「当たり前です。そんなにキスがしたいなら、適当に女でも見繕ってきますよ。この屋敷のメイドたちなんて如何でしょう。アナタに秘めやかな恋心を向けているのですよ?」
「俺はリッキーとちゅーがしたいんだ! 他の女なぞいらんっ!!」
「私がそれを許すと思いますか? ああ、今日から私がリッキーさんと一緒に寝ることにします。アナタの毒牙から守ってあげなければ」
「俺が一緒に寝る! お前は自分の部屋で寝るがいい!!」
目の前の大人2人の謎の問答に、さっきまでの幸福に包まれた感動は何処へ行ってしまったのか。溢れる涙に視界がけぶるほどの喜びも、今は砂に吸い取られる水の勢いで乾いていっているキュッリッキだった。
自分よりもウンと年上の男性2人が、何故こうもキスをしたい、させないと喧嘩になるのか。そうしみじみ思いながら、2人の舌戦を見上げた。
「唇と唇でのキスは大事な人とするものなんだから、無闇に振りまいちゃダメだからね!」
前にファニーにそう言われている。
確かにベルトルドもアルカネットも、キュッリッキにとって大事な人になった。しかしファニーの言っていた『大事な人』の意味とは、なんとなく違うような気がしている。そう、恋人とは全く違う大事な人、という感じだ。
(おとうさんが、2人も出来たみたいな感じ…)
親というものは子供を捨てるもの、ということ以外知らないキュッリッキでも、ベルトルドとアルカネットは父親のように感じていた。だから、キスをする間柄とは捉えにくい。
もしかして2人は、自分を娘のようには思っていないのだろうか? 違う意味での愛なのだろうか。恋愛経験が一切ないキュッリッキには、恋愛というものは理解の範疇外だった。
やがて考えることに疲れてキュッリッキが大きな溜息をつくと、それに気づいて2人はきゅっと黙り込んだ。
室内が異様に静まり返り、時計が時を刻む音だけが、カチリ、カチリと鳴り響く。
「――着替えて食事を済ませてきましょうか」
「風呂にも入らないとな」
2人は恐る恐るキュッリッキを見ると、複雑な色を浮かべた瞳とぶつかり、気まずそうに視線をあらぬ方向へ彷徨わせた。
「じゃ、じゃあ、後でなリッキー」
「先に休んでいて構いませんからね」
そう言いおいて、2人はそそくさと部屋を出て行った。
ベルトルドとアルカネットが部屋を出ていくと、室内は驚く程静かになった。
キュッリッキは軽くしゃくりあげた。そして、目が熱を帯びて腫れぼったくなっていることに気づく。
憚ることなく声を上げて沢山泣いた。嬉しいという感情で、あんなに泣いたのは初めてである。
ずっと欲しかった愛をもらった。18年抱え続けていた凍えるような傷を、少しずつ癒していってくれるだろう。
修道院で暮らした7年間は、キュッリッキの心に深すぎる傷をつけ、辛い思い出しか与えてくれなかった。そこを飛び出してからの11年間は、世間の冷たさと、生きていくことに必死で、過去の思い出や心の傷は、心の奥底に必死に押しやっていた。
そんな中で、他人から与えられる愛が、全くなかったわけではない。
キュッリッキの数少ない友達の、ハドリーとファニー。2人からは友愛をもらっている。そしてハーツイーズのアパートの住人のおばちゃんずたちからも、優しい愛情はもらっていた。
しかしそれだけでは、キュッリッキの抱える大きな傷を、完全には癒せなかった。ほんの一時、忘れさせてくれただけだ。
深く傷つき、救いを求めるその心には、自分にだけ向けられる大きな愛が必要だったのだ。
2人から「愛している」と言われたことを、心の中で反芻する。その度に心が温かく、幸せだと震えた。傷口に滲みるのではなく、痛みが柔らかく去っていくように。
「嬉しいの」
にっこりと笑ったその時、いつのまにか顔のそばにフェンリルがきていて、焦れたように顔を押し付けてくる。
「ふふ、ヤキモチ焼いたの?」
そうだ、と言わんばかりにフェンリルは「フンッ」と盛大に鼻を鳴らす。文句があるとフェンリルは、決まってそうするのだ。
その様子に苦笑すると、フェンリルの小さな身体を左手で顎の下に抱き寄せる。
神々の世界アルケラから、キュッリッキを守るためにやってきた神狼フェンリル。普段は小さな仔犬の姿になって、片時もそばを離れずにいる。物心付いた時から、ずっと一緒の大事な相棒。
フェンリル、そしてアルケラの住人たちからも愛情はもらっていた。身体が激しく傷つけられると、神々が奇跡を施し癒してくれた。辛くてアルケラに意識を飛ばすと、住人たちがこぞって慰めてくれた。
人外からの愛も、キュッリッキの心は癒しきれなかった。それでも、ないよりは遥かにマシだっただろう。
「ありがとうフェンリル。フェンリルがいなかったら、アタシ生きてこられなかったし、ずっと寂しいままだったもん。大切で、大事な大事な相棒だよ」
優しく言うその言葉に満足して、フェンリルは嬉しそうに喉を鳴らした。
この時初めて、自分は幸せだとキュッリッキは思った。
泣きつかれていたのもあり、ウトウトしていると、賑やかな言い合いをしながら、ベルトルドとアルカネットが寝間着に着替えて戻ってきた。
2人は張り合うようにしてベッドまでくると、いきなりジャンケンを始めた。真剣、かつ睨み合いながら、赤いオーラのようなものが見えて、キュッリッキは目を見張る。
「絶対に負けんぞ!」
「ふんっ。せいぜい
「お前ごときに
せーのっ! と元気よく2人は掛け声を合わすと、あいこを5回繰り返して、勝負はアルカネットの勝ち。悔しそうにベルトルドが地団駄を踏んだ。
「きいいいいいいいいいいいっ」
「これも愛の差というもの」
目を瞬かせながら、一体何事だと2人を見上げていると、
「リッキーさんの左右どちら側で寝るか、決めていたのですよ」
にっこりとアルカネットが説明する。
「……」
つまり、2人とも一緒に寝るのか。
(こ…これも、愛なの、かな…)
ここに愛について講義する人がいれば、これも一種の愛だと言うだろう。しかし愛を知った初日に、この2人の行動を理解するのは、まだまだ難しかった。キュッリッキからしてみたら、単に張り合っているだけにしか見えないのだ。
キュッリッキを真ん中に挟んで、左側にアルカネット、右側にベルトルドが寝た。そしてこの争奪戦に参戦したフェンリルは、キュッリッキの腹の上に丸くなった。まさか2人が腹の上で寝るという暴挙に出るわけにもいかないので、勝負はフェンリルの勝ちだろう。フェンリルは勝ち誇って、尻尾をパタリと振った。それを見て、ベルトルドとアルカネットはこめかみをヒクつかせる。
「おのれ犬…」
「生意気ですね…」
キュッリッキの右上半身は、怪物に切り裂かれて大怪我を負っている。そのため包帯でキツく縛られ、身動きがとれない。更に、触れると痛がるから、少し距離を置かないといけない。
ピッタリとくっついて寝たい2人は、それで左右どちらで寝るかを決めていたのだ。
「おいアルカネット、お前くっつきすぎだろ!」
「別にいいじゃありませんか。ね、リッキーさん」
「……えっと」
今はまだ身体が動かせないからあまり関係なかったが、実はこの無駄に広いベッドが気に入っている。怪我が治って身体が自由に動かせたら、寝相を気にせず思う存分寝転がりたいと思っていた。
(怪我が治っても、このまま一緒に寝るのかなあ…)
ベルトルドもアルカネットも、横になりながら頭を上げて、何やら言い合いを続けている。先程までの感動は、もはや時間とともに過去に消え去っていた。
「アタシ、眠いからもう寝るの。おやすみなさい」
呆れたような声で言われて、ベルトルドとアルカネットは黙り込むと、泣きそうな顔をキュッリッキに向けた。しかしキュッリッキは、呆れ顔のまま目を閉じて取り合ってくれない。
お互い顔を見合わせ溜息をつくと、同時にキュッリッキの頬にキスをして、おとなしく眠りに就いた。
翌朝目が覚めると、ベルトルドとアルカネットは部屋にいなかった。時計を見ると7時を少し過ぎている。6時には目を覚ますキュッリッキにしてみたら、ちょっと寝坊だった。
何度か目を瞬かせていると、頭もスッキリしてきて、昨夜のことを色々と思い出していた。
こんな自分を愛してると言ってくれたベルトルドとアルカネット。これからは、もう寂しい思いをしなくていい。そして、ベルトルドとアルカネットの2人には、何も隠し事をしなくても大丈夫。辛いことも悲しかったことも、全部打ち明けられる。それにライオン傭兵団にもずっと居られるし、居場所を失うこともない。
「アタシ、もう独りじゃない。ベルトルドさんと、アルカネットさんと、ライオン傭兵団のみんなと一緒なんだ」
エヘッとキュッリッキは弾んだ声を出して笑った。
急に世界が開けたような気がして、怪我などしていなければ、飛び上がって踊りだしそうな気分である。
それは他人から見れば、ささやかで小さな幸せなのかもしれない。でもキュッリッキには何ものにも代え難い、大きな幸せを掴んだ気持ちで心がいっぱいに満たされていた。