連続での長いオペが終わり、肩をコキコキ鳴らしながらヴィヒトリは手術室を出た。
「ぬっ」
出たところで、軍服に身を包んだ男に物凄い形相で睨まれドン引きする。
「お久しぶりですね、ヴィヒトリ先生」
「あ。アルカネットさん、かぁ…」
ビックリした~~っ、とは胸中で叫ぶ。
温厚な表情のアルカネットしか知らない。こんな威圧的で見ただけでチビりそうな
ヴィヒトリは血まみれの手袋を脱ぎ、専用のゴミ箱に捨て、手術着を脱ぎ始めた。
「その姿は軍に復帰されたんですね~。今日はどうしたんですか? 副宰相閣下の体調が悪いんです?」
「あの方は、相変わらずピンピンしてますよ。今日は別件できました」
「ほむ?」
手術着全てを脱ぎ捨てると、ヴィヒトリは黒縁のメガネをかけ直した。
「あなたが手術を終えるのを待っていました。今すぐ私と一緒にソレル王国へ行ってもらいます」
「へ?」
「これを見て下さい」
アルカネットは魔法を使い、ベルトルドから見せられたキュッリッキの惨憺たる姿の記憶をヴィヒトリに伝える。
「う…、生きて、いるんですかこれ…」
「もちろんですよ。死なせないために、あなたを迎えに来たのですから」
極力感情を抑えるような声で、アルカネットは絞り出すように言った。
「この女の子は、一体誰なんです?」
「最近ライオン傭兵団に入ったキュッリッキと言います。仕事先の事故で、こんな大怪我を負ってしまったのです」
「キュッリッキ…」
ヴィヒトリは少し首をかしげ「ああ」と呟いた。何かを知っているようだったが、それ以上のリアクションはなかった。
「もうひとり、ドグラスという外科医も同行させます」
それには目を丸くする。
「よくドグラス先生を捕まえましたねえ。時間外勤務が大嫌いな人なのに」
「ベルトルド様の命令ですから、嫌とは言わせませんよ」
「なるほど。それじゃあ、あのタヌキ逆らえなかったでしょうね」
あはは~っと呑気に笑い声を上げるヴィヒトリだったが、アルカネットの顔があまりにも涼しいので、すぐに笑いを引っ込めた。
「向かってもらう場所は小さな診療所のようなので、ここにあるような設備は期待できないでしょう。あまり悠長にしている時間もありません。準備をすぐに済ませなさい、急いで向かいますよ」
「判りました」
ヴィヒトリは自分の診察室に向かって駆けていった。その後ろ姿を見送りながらアルカネットは小さく呟く。
「あともう少しの辛抱ですよ、リッキーさん」
手術道具や薬品などを揃えて外来ロビーに行くと、涼しい顔のアルカネットと、緊張で塗り固まった中年の男――ドグラスが待っていた。
「お、お待たせしました」
ヴィヒトリが引き気味に言うと、アルカネットは組んでいた腕を解いた。ドグラスは俯いたままヴィヒトリを見ようともしない。
「お2人とも、荷物はしっかり持っていてください。時短のために飛行魔法で移動します。エグザイル・システムまで行きましょうか」
アルカネットがスッと右腕を上げると、ヴィヒトリとドグラスの身体がふわりと浮いた。2人は慌てて荷物をしっかりと抱きしめる。
「行きます」
一言そう呟くと、アルカネットの身体も浮き上がり、3人は病院からサッと出ると、宙に舞い上がっていった。
アルカネットと医師2人がソレル王国のエグザイル・システムに到着すると、いきなり銃口が多数突きつけられた。エグザイル・システムの周りは、2個小隊ほどのソレル王国兵たちに取り囲まれている。
エグザイル・システムは飛ぶとき台座の上に乗っていくが、飛んだ先では台座の下に到着する。その為台座の下には沢山の人が飛んできてもいいように、広めのスペースが必ず用意されている。そこから辺りを睥睨し、口ぶりだけはいつもと変わらずアルカネットは穏やかに言った。
「なんの真似でしょうか?」
しかしそれに応える者は誰もおらず、ピリピリとした緊張だけがこの場を支配している。誰何する声もなく、銃口と剣先が向けられ、明らかに敵意ある魔力の高まりも感じられた。
ハワドウレ皇国のエグザイル・システムのある建物ほどではないが、ソレル王国首都アルイールのエグザイル・システムの建物も立派である。遺跡観光を看板に掲げる国らしく、遺跡をモチーフとした美術的デザインが美しい。それを物珍しげに眺め渡し、ヴィヒトリは小さく欠伸をした。
「連続オペで、ボク疲れてるんだよね。さっさと行きましょうよアルカネットさん」
「ええ、そうですね」
淡々と言いながらも、僅かにアルカネットの声音には苛立ちが含まれていた。それを敏感に感じ取って、背後に控えていたドグラスは恐々と身を強ばらせた。
アルカネットは一歩前に踏み出すと、いきなり両腕をバッと横に広げる。
「イスベル・ヴリズン」
一言魔法名を言い放つ。すると、アルカネットの両手掌から
「うひゃ…」
ヴィヒトリは首をすくめて小さく悲鳴をあげる。辺は一瞬で騒然とし、氷柱攻撃を免れた兵士たちが発砲し始めた。しかし、
「トイコス・トゥルバ!」
エグザイル・システムの周りに、突如土の壁が床からせり上がり、銃弾を全て防いでしまった。
(凄いなあ…。これが噂に聞く、アルカネットさんしかできないっていう無詠唱魔法ってやつか)
魔法
魔法を作り上げるスピードは個々人で異なるが、アルカネットの場合魔法を作り上げるための呪文が必要ない。一瞬で必要な魔法の属性魔力を引き出して完成させてしまうのだ。俗に言う無詠唱魔法である。
アルカネットもまた、ベルトルドと同じようにOverランクを持つ魔法使いだ。神を引っ張り出さないと、倒すことができないとまで言われている。
ソレル王国内は現在超厳戒態勢が敷かれている。軍施設がライオン傭兵団の襲撃を受けて、ケレヴィルの研究者たちが攫われてしまったからだ。その為、とくにエグザイル・システムは国外脱出手段の一つになるため、犯人たちやその仲間が出入りしないよう兵士たちが配備されている。
誰が飛んでくるか判らないため、現れるたびに兵士たちは銃口を向けて脅していた。アルカネット個人を狙っていたわけではなかった。それが降伏の両手を上げるわけでもなく、いきなり魔法で攻撃してくるので兵士たちは大混乱だ。
アルカネットは素早く3人の周りに防御魔法を張り巡らせる。そしてパチリと指を鳴らすと、3人の身体が浮き上がった。
アルカネットを先頭にゆっくりとエグザイル・システムの階段を滑り降りると、出口に向けて加速した。
不意をつかれたソレル王国兵たちは一瞬出遅れたが、すぐさま発砲し、魔法攻撃が3人目掛けて迫る。しかし攻撃は掠りもせず、建物を抜けた3人はそのまま外に躍り出た。
ヴィヒトリはチラリと隣のドグラスを見る。日焼けした褐色の肌が、色落ちしたように明らかに蒼白になっていた。弱者に対しては尊大だが、強者に対しては卑屈になる。そんなドグラスだが、さすがに不慣れな戦場の空気は精神的に厳しそうだ。
(大事なオペが控えてるんだから、しっかりしてよね…)
胸中でひっそりとため息をつく。性格に難有りだが、外科医としての腕は確かだ。
アルカネットが助けようとしているあの少女は、彼にとってもベルトルドにとってもよほど大切なのだろう。普段の温厚な雰囲気が鳴りを潜めるほど必死になっている。だからどんな状況に置かれようと、ヴィヒトリとドグラスの身はアルカネットが絶対に守る。その点は安心して良かった。
エグザイル・システムの建物の外には、やはりソレル王国の別動隊が詰めていた。
「面倒な方々ですね。こちらは一刻を争う事態だというのに」
イラッと露骨に滲ませた声で吐き捨てる。
「帰りのこともありますし、エグザイル・システムのある場所で魔法は使いたくありませんでしたが…もう使っていますけど。少し足止めをしておきましょうね」
セルフツッコミしつつ、アルカネットはにっこりと微笑み両手を広げて一言呟いた。
「イラアルータ・トニトルス」
まだ早朝の静かなアルイールの街中に、突如空から無数の雷の柱が降り落ち、凄まじい轟音が街を包み込んだ。落雷の影響で、いたるところで爆発や火事が起こり、街は一瞬で騒然となる。
アルカネットたちに銃口を向けていた兵士たちも、その様子を見て大騒ぎになった。指揮官が悲鳴にも似た声を荒らげて、何やら指示を飛ばしている。
「……」
ヴィヒトリはあんぐりと口を開けて絶句し、ドグラスは白目をむいて気絶してしまった。
「私にとって、こんな街など関係ないのですよ」
(情け容赦ねえ…。絶対敵に回してはいけない男だな…)
そうヴィヒトリは自らに言い聞かせていた。
「さあ、行きますよ」
何事もなかったかのように、アルカネットは優しい笑みを浮かべた。
* * *
アルカネットがソレル王国で
皇都イララクスのエグザイル・システムがある街だ。
現在ベルトルドの命で、エグザイル・システムは急遽軍が徴集しており、一般人の渡航は禁止されていた。それを知らずに飛んできてしまった一般人は、速やかに建物の外に退去させられた。
建物の前に綺麗に並ぶ軍人たちの前に、ブルーベル将軍が現れた。
「総帥閣下の命により、一時的にダエヴァと魔法部隊の皆さんは、ワシの指揮に入ってもらいます。魔法部隊の皆さんは第二正規部隊に入ってください。アークラ大将が直接指示を出してくれます。ダエヴァの皆さんは、直接ラーシュ=オロフ長官の指示に従っていただきます」
列の先頭に並んで立つアークラ大将とラーシュ=オロフ長官が敬礼で応じた。
「今回の我らの任務は、ソレル王国首都アルイールの制圧です。王宮、行政施設、司法、軍施設を抑え、抵抗してくるであろうソレル王国兵を相手にします。ですが、くれぐれも一般民に危害を加えてはいけません。婦女暴行、窃盗などもキツく禁じます。もしそれらが行われていたら、その場で処刑です。抵抗してくる一般民にも危害を加えないように。応対については、アークラ大将とラーシュ=オロフ長官に仰いでください」
皆一斉に敬礼で応じる。それを見て、ブルーベル将軍は頷いた。
「まず、ダエヴァ第二部隊の
まさか、アルカネットが暴れた後とは知らないブルーベル将軍たちは、入念に準備をしてソレル王国へと向かった。
* * *
晴天に恵まれた湿度の高い朝、天地に鳴り響くほどの獣の咆哮が静かな町全体を飲み込んだ。
何事かと町民は起き出し家屋の外に出ると、そこにありえないものを見て仰天した。
イソラの町の外は、だだっ広い草原と、東に海が見えるだけの静かなところだ。1時間ほど歩けば小さな漁港に出る。それ以外は遠くにナルバ山が見えるくらいで、遮るものは何もない。
そんな長閑な草原に、天に届くほどの巨大な白銀の狼が佇み、町を睥睨しているのだ。
「ありゃよ…、どう見ても行方不明だったフェンリルじゃね」
ギャリーは傍らのブルニタルに視線を向ける。
「確かにそうですね。ちょっと大きすぎますが、フェンリルでしょう」
あそこまで大きくはないが、一度フェンリルが仔犬の姿を解いた姿をみんな見たことがある。それであれがフェンリルだと判った。
フェンリルはその冷たいまでの水色の瞳を、ひたとライオン傭兵団へ向けていた。
ランドンはキュッリッキにつきっきり、ルーファスは死んだように眠っており、3人を残して全員外に出ていた。町民たちと同じく咆哮で起こされたのだ。
「原因は判りませんが、復活してきたんでしょう。しかしキューリさんが臥せっている状態なので、どうしましょうねえ…」
やや寝ぼけ眼でフェンリルを眺め、カーティスは困ったように首を傾げた。足元に座るヴァルトが大あくびをする。
遺跡の中でキュッリッキを見つけたとき、フェンリルの姿はなかった。姿を見えなくしているのかと思っていたが、瀕死の状態のキュッリッキを前にしても現れないので、どうしたのかと気になっていた。まさか今になって姿を現したかと思えば、天にも届く大きさである。
「取り敢えず、オレが話に行ってみましょうか? 言葉、通じますよね?」
メルヴィンが名乗りをあげると、一同揃って首を縦に振った。
「任せましたよ!」
軽く顎を引いてメルヴィンが一歩踏み出すと、巨大なフェンリルの顔の横に人影がひらりと舞い降り空中で止まった。
誰だろうとその人影の姿を凝視して、ライオン傭兵団一同の顔が、血の気がひいていくように恐怖に青冷め始めた。
距離は遠く離れているが、見間違いようがない。
鮮やかな紫色の髪を持つすらりとした長身の男。
ベルトルド邸の執事、アルカネットだ。
――ついに来た!
来るのは判っていたが、実際来ると恐ろしい。何故なら、ベルトルドとアルカネットが溺愛しているだろうことが丸判りのキュッリッキを、瀕死の重症状態にしてしまったのである。怪我をさせたのは自分たちではないが、責任の重さは感じていた。
恐怖の説教が飛んでくることを想像して、みんな情けないほど縮こまった。
「ん? おい、ありゃ…」
ザカリーが驚いて説明すると、カーティスとシビルはギョッと目を剥いた。
人間を唆した黄金の蛇と、人間が知恵を授かる黄金の林檎が刺繍されたケープ、黒衣の軍服。ハワドウレ皇国特殊部隊の一つである
ケープの裏地は深紅、部隊の長官をあらわす色である。遠目からでも黒と赤のコントラストは、はっきりと見えていた。
「な…なんであの方が、
カーティスの呟きに、答えられる者はいなかった。
* * *
フェンリルの目線を辿り、そこにライオン傭兵団の姿を確認する。あの町がイソラだということが判り、アルカネットは小さく頷いた。
「迷わず着けて良かった」
あそこにキュッリッキがいる。今頃助けを待っているのだと思うと、急いでいきたいところだったが、巨大な狼の姿を見つけて寄り道をした。この世界でこんな巨大な狼など、キュッリッキが相棒だと呼ぶフェンリルしか思いつかないからだ。
傍らの巨大なフェンリルに顔を向けると、微かに首をかしげる。
「フェンリルですね。このような場所で何故大きくなっているかは判りませんが、こんな姿では町に入れませんよ。これからリッキーさんのところへ参りますから、仔犬の姿になってくださいませんか?」
フェンリルはちらりとアルカネットを見る。そして唸るように喉を鳴らしたあと、銀色の光に包まれ、徐々に縮小して仔犬の姿になった。
アルカネットは小さな仔犬姿になったフェンリルのそばに降り立ち、そっと抱き上げる。フェンリルはおとなしくアルカネットの腕に抱かれた。
フェンリルの足元で待機していたヴィヒトリと、また意識を手放しそうなドグラスを連れて、再びアルカネットは宙を飛んだ。
* * *
――巨大狼をてなずけるとか、あのひとスゲー!
一部始終を見ていた一同は、驚きながらも妙に感服してしまった。しかしこちらに飛んでくるアルカネットに気づき、皆背筋を伸ばして一列に並ぶ。
ライオン傭兵団の列の前に舞い降りると、遠巻きにライオン傭兵団と自分を見つめる町民を一顧だにせず、アルカネットは彼らに柔和な顔を向けた。
「リッキーさんはどこですか? お医者様を連れてきました。案内しなさい」
「は、はいっ」
アルカネットの背後にヴィヒトリを見つけ、カーティスは僅かに目を見張る。それに対し、ヴィヒトリはニッコリと笑った。
「こちらです」
カーティスが先頭に立ち、院内へ入っていく。その後に、アルカネットと医師2人が続いた。
案内される間、アルカネットは一言も発せず医師を従えて歩いた。表情は穏やかで威圧する雰囲気もなにもなかったが、黙っていること、それだけで十分威圧的なのだ。無言の圧力を背中越しに受けながら、カーティスは心の中で大量の汗を流し続けた。
処置室に入ると、ひとり黙々と魔法をかけ続けるランドンに、アルカネットは労いの言葉をかけた。
「ご苦労様でしたランドン。あとは私が引き継ぎます。ゆっくり休みなさい」
「アルカネットさん…」
目の下に隈を浮かべたランドンは、振り向いて小さく頷いた。
長時間かざしていた手を引っ込めると、ふらつきながらベッドの傍らを離れた。その身体をカーティスが抱き止め支える。
アルカネットは抱いていたフェンリルを、キュッリッキの枕元に放してやった。
フェンリルは小さく悲しげに鳴くと、意識を失っているキュッリッキの頬に、何度も何度も顔を擦り付けた。
愛しい少女の目を背けたくなるほどの
右の肩から胸のあたりまでの肉が、ごっそり抉りとられ骨が見えている。膨らみこそ小さいその乳房も、上半分が無残に削り取られていた。
これだけの深い傷を負って事切れなかったのは、奇跡であり幸運といってよかった。それに、ランドンが長い時間回復魔法をかけ続けていたのが幸いしているようだ。傷口は綺麗なままに保たれている。
「どれほど怖い思いをしたのでしょう…。さぞ痛かったでしょうに」
透視することはできないが、これだけの傷を見ればある程度想像はつく。
血の気がひいて真っ白なほどに白くなったキュッリッキの頬にそっと触れ、次いで傷口に触れる。すると痛むのか、意識のないキュッリッキが小さく呻いた。
その様を見て、アルカネットは身震いした。そして何かを堪えるように手を握ると、背後に控える医師を振り返る。
「早急に治療を始めてください。けっして、死なせてはいけませんよ」