14.衝撃の事実、の連続


 振り向いた先生が目を丸くした。



 「胡桃沢くるみざわさん。どうしたの?」



 ヒカリは眩しさに息を止める。



 エントランス。開け放された大きな扉の前で微笑む奏人先生は、本当の王子様に見えた。



 「胡桃沢さん?」


 「あの、えっと」



 ヒカリは懸命に言葉を搾り出す。



 「ありがとう! 二週間、本当にありがとう。ピアノも……」


 「こちらこそ。僕に勇気をくれて、ありがとう」



 奏人先生がクシャッと笑った。



 「それだけじゃなくて。えっと」


 「ん?」



 言わなくちゃ。勇気を出さなきゃ。



 分かっているのに言葉が出ない。せっかくここまで追ってきたのに。ヒカリはギュッと目を閉じた。




 「かなくん!」




 庭園の方から女性の声がした。奏人先生が首を巡らせる。やがて声の主を探し当てると、先生は子犬のように人懐こい笑みを浮かべた。





 「ママぁ!」





 (マ……?)



 何が起こっているのか。ヒカリは、庭園で繰り広げられる出来事をただ目に映すに任せていた。



 「ママ、迎えに来てくれたの?」


 「かなくん、よく頑張ったわね」



 奏人かなと先生を“かなくん”呼びするのは、化粧の厚い猪のような女性だ。



 「立派よ、かなくん。ママがナデナデしてあげる!」


 「ううん! お家まで我慢するよ!」


 「んまぁ~っ! なんて良い子なの、かなくんはっ!」



 そう言って、母親は結局“かなくん”の頭をナデナデしてあげている。“かなくん”、満面の笑み……。



 ここで、ようやく母親がヒカリに気づいた。



 「あら、生徒さん?」


 「そうだよ。彼女にはとってもお世話になったんだ」


 「まあ。それはどうもありがとう」



 猪が頭を下げた、ように見えた。ヒカリは、辛うじて口の片端を上げて応える。



 親子は、手を繋いで蓮乃宮女学院を後にした──。




 (何なの……)



 急に意識が遠のいた。ヒカリの身体が後ろに倒れていく。



 「おっと!」



 広い胸がヒカリを支えた。間に合わなければ大理石の床に頭をぶつけるところであった。



 「おーい。息しろ、息」



 ヒカリの危機に現れたのはカゲである。



 「お嬢様! 焦らずゆっくり息を吐いてください」



 執事・橋倉まで顔を出した。



 「お前、何でこんなとこにいんだよ?」


 「嫌な予感がしたのでお迎えにあがった」


 「マジかよ、万能か」



 使用人たちの話を聞きながら、ヒカリは少しずつ正気を取り戻していく。



 「マ……」


 「どうされました、お嬢様!?」


 「あ、あれはマ……マザ」


 「その四文字を口に出すのはやめとけ。母親思いの良い奴じゃねえか、ハハハハ」



 カゲが慌ててヒカリの言葉を遮った。



 「そうです、お嬢様。男というのは多少……そのはあるものでございます」


 「お前もそうなのか?」


 「恥ずかしながら」



 執事・橋倉、ヒカリを励まそうと必死である。



 「うわ……」


 「何だ、その顔は! 話を合わせろ泥棒!」


 「もういいよ、二人とも」



 ヒカリが、先ほどよりはしっかりした声で言った。カゲの胸から身を起こし、壁際に置かれたソファに腰を下ろす。



 「慰めてくれるのは有難いんだけどね。母思いにも限度があるって思わない?」



 それぞれ違う場所に身を潜め、あの親子の様子を窺っていたカゲと橋倉は返す言葉が見つからない。



 「気にすんなって。人よりちょっとばかりママンへの思いが強いだけだろうが」


 「それを短く言うとあの四文字になるんでしょ! ……うわーん!」



 ヒカリは、ついに泣き出した。橋倉がカゲに強烈なゲンコツをお見舞いする。



 「痛ってぇな!」


 「言い方を考えろ、この大馬鹿者が!」



 不貞腐れてそっぽを向くも、カゲは少しだけ罪悪感に駆られた。彼は、奏人かなと先生がママンに対してデカすぎる愛を抱いていることを、初めから知っていたのだ。



 あれは実習初日のこと。護衛の仕事をサボッてトイレへ向かったカゲは、廊下で電話をする奏人先生を目撃している(※)。実習がよほど不安だったらしく、「ママ、ママ」と泣きじゃくっていた。


 (※【3.ライバルお嬢、満を持して登場】【4.教育実習生、担当教科は】参照)



 ヒカリが彼のピアノにハマり始めた頃は、半分面白がっていた。いつか秘密をバラしたら、ヒカリはどんな顔をするだろう、と。しかし、ヒカリが予想外に奏人先生にのめり込んじゃったのである。



 「とりあえず帰ろうぜ」



 カゲは耳を掘りながら言った。鈴木さんがヒカリの荷物持って駆けてくるのが見える。車寄せには胡桃沢くるみざわ家のリムジンも到着した。




 ───



 胡桃沢邸のリビングは、重苦しい空気で覆われていた。ヒカリの元気がないからだ。この家は、十七歳の令嬢を中心に回っている。



 「おいおい、辛気臭ぇなあ」



 落ち込んでいないのは泥棒一人である。



 「お前ら、このガキが先生とどうにかなる方が困るんだろ? ちょうど良かったじゃねえかよ」



 彼の言う通りだ。この家の当主をはじめとする面々は、ヒカリを溺愛するあまり、彼女が異性と関わることを極度に嫌う。



 奏人かなと先生を危険人物と見なしていた彼らは、実習が終わる今日を心待ちにしていた。



 しかも、先生は『その辺の女性よりもママンがめっちゃ好き』なのだ。家中の者にとっては好都合な事実だった。しかし。



 「それでも……お嬢様が悲しまれていると我々も悲しいんです」



 鈴木さんがポツリと漏らす。それを合図にしたように春平がスンと鼻を鳴らし、橋倉は項垂れて目頭を押さえた。



 「面倒臭ぇ家だな」



 カゲは、付き合ってられんとばかりにゴロリ床に寝転がる。



 「……ごめんなさい」



 ソファに泣き伏していたヒカリが、蚊の鳴くような細い声を上げた。



 「良いんじゃよ。ゆっくり休んで一日も早く元気になっておくれ」


 「我々にまで気を遣われて。なんと健気な」


 「けっ、茶番が好きな奴らめ」


 「泥棒は黙っていろ」


 「ああ、ごめんなさい。奏様!」



 何かを思い出したように、ヒカリはガバッと顔を上げた。



 「むぉ? ヒカリ、どうしたのじゃ?」


 「浮気してごめんなさい! 私がバカだったわ。ああ奏斗かなと様、奏斗様……」



 どうやら、憧れのピアノ王子を思い出したようである。ヒカリはテレビのリモコンに飛びついた。先日のリサイタルの録画を観ようとしているらしい。震える指で電源ボタンを押すと。




 【ピアノ王子・奏斗 七股疑惑!!】




 85インチの大型テレビに、衝撃的な文字が踊っていた。



 「……」