9.箱入り令嬢、自覚する


 (ああ。お嬢様は、一体どうされてしまったんだ)



 深い溜め息ばかりつくヒカリに付き従いながら、不安で心臓がはち切れそうな護衛・鈴木さんである。



 (ご病気なのでは……!?)



 寝不足である。



 ヒカリのこととなると何かと過剰になるのが胡桃沢くるみざわ家。使用人も例外ではない。



 「泥棒さん」



 トイレから戻った新入りの護衛に、鈴木さんは声を潜めて話しかける。



 「お嬢様のご様子、おかしいと思いませんか? ご病気では」



 ポケットに手を突っ込んで歩いていたカゲは、「んあ?」と眠たげな声を上げた。



 「まあ、病気っていえば病気かもな。こういうのは」



 耳を掻きながら呑気に答えるカゲに反して、鈴木さんは蒼くなる。



 「早退して主治医に診せましょう!」


 「医者にどうこうできるもんじゃねえって」



 笑いながら肩を叩かれるも、気が遠くなっていく鈴木さんである。ヒカリの後ろ姿が霞む。もう手の施しようがないだと!? お嬢様……!



 「じゃな」



 放心する鈴木さんに手を振って、カゲは当たり前のように姿を消した。何日も一緒に仕事をしていると、鈴木さんにもカゲの行き先は予測できる。



 (またトイレか! いい加減、医者行けよ!)



 ───



 「午後、音楽の授業があるでしょ?」



 昼休みの音楽室。出し抜けに声をかけられて、ヒカリは顔を上げた。



 「考えてみたんだよ、胡桃沢さんに言われたこと」



 奏人先生が何気なく押した鍵盤から、ポーンと抜けるような高音が響く。



 「楽しめる授業。やってみようと思ってさ」



 奏人先生と目が合うと、ヒカリは反射的に目を逸らしてしまう。



 「そ、そんなのできるの? 今朝出席とった時だって、返事したの私だけよ?」



 ああ。こんなこと言いたいんじゃないのに。ヒカリはギュッと目を閉じる。



 しかし、ヒカリが指摘したことは事実だ。他のお嬢様たちは、奏人先生を完全に見下している。



 「アハハ、まあね」



 ヒカリがそろそろと顔を上げると、奏人先生はあの日みたいにクシャッと笑っていた。



 「ふーん。やりたいなら、やれば?」



 奏人先生は、やっぱり子犬みたいだ。先生は笑みを湛えたまま鍵盤に指を置く。心で、上手くいくことを願った。目が合うと素っ気なくしちゃうのに、ピアノを弾く先生からは目が離せない。



 先生は覚えててくれた。私が言ったこと。

 だったら私、見守りたいな。



 (あ、この気持ち)



 恋、だな。カゲの声がこだまする。



 (これが本当の恋なのね……!)



 ピアノの音色が盛り上がるにつれ、ヒカリの鼓動も昂っていく。



 秘密めいた場所で二人きり、立場的には先生と生徒という魅惑的な状況から、コロッと恋に落ちるヒカリお嬢様である。



 (本当の王子様は、すぐ近くにいた──)



 ───



 キィっと扉が軋む音がした。両開きの真っ白な扉から、奏人先生が入ってくる。音楽の授業が始まるのだ。お嬢様たちは、お喋りを止めない。



 「今日……は、音楽……で行いま……」



 奏人先生の声は、またも掻き消される。ヒカリはギュッと両手を握りしめて俯いた。



 (ああ、ハラハラするわ)



 頑張って!



 祈るような思いで顔を上げると、奏人先生と視線がぶつかった。いつもみたいにオドオドしていない。



 奏人先生は、キュッと唇を引き結ぶと、意を決したように言った。



 「今日の授業は音楽室で行います」



 お喋りに興じていたお嬢様たちが呆気に取られる。実習が始まって以来、奏人先生がこんなにハッキリ物を言うのは初めてなのだ。



 「い、行きましょう!」



 お嬢様の圧を正面から受けつつも、奏人先生は引かずに頑張る。しばしの沈黙の後、割れんばかりの不満の声が噴出した。甘やかされて育ったお嬢様軍団は、指示を受けるのが大嫌いなのである。



 「突然内容を変えるのはどうかと思います。先生、許可は出したのですか?」



 腕組みをしたまま、姫華が担任の方へ声をかける。取り巻きが「そうよ、そうよ」と同調すると、姫華は意地悪そうに目を光らせた。



 「この授業の担当は彼です」



 担任は、銀縁眼鏡のブリッジを押さえながら素っ気なく答える。学園の中でも厳しいので有名な彼女が「移動しろ」と言えば、お嬢様たちは渋々でも従うはずであった。が、今回は敢えてそれはせず、実習生に任せる姿勢のようだ。



 「分かりました。参りましょう」



 ヒカリがスッと腰を上げる。すかさず姫華が噛みついてきた。



 「やけに肩を持つじゃない」



 取り巻きがクスクスと笑い出す。ヒカリがゆっくり振り返ると、姫華は嘲るように言った。



 「私が何も知らないとでも? あなたがお昼休みの度に音楽室で何をしているか。笑っちゃうわ。あなたにはお似合いだけど」



 奏人先生が驚いたような顔をし、何か言いかけたところをヒカリが遮った。



 「だったら何だっていうの?」



 ヒカリは、強い目でソファ席に座ったままの面々を見渡す。妄想モードに入っちゃってる彼女に怖いものはない。むしろ、外野から野次が飛んでくる方が盛り上がるのだ!



 「ご不満なら、あなたは一人でここにいらっしゃればいいわ。さ、皆さん参りましょう」



 姫華がギリリと歯を食いしばった。





 (何だ、あいつら?)



 カゲは、ゾロゾロと移動するお嬢様たちを遠巻きに見ながらコインを弾き、器用に手の中に納めた。トイレのついでに金目の物を探しながら校内をうろついていたのである。収穫は、職員・護衛用トイレの前に落ちていた十円玉一枚であった。