第三話 一

 未來と同じ制服の、外跳ね茶髪の少女が一人。

 視線の先には、並び歩く男女の姿。

 少女が、走り出す。

 舗装路を蹴るスニーカー。

 滑ったのは、駅へ向かう階段途中。

 踏み外し、倒れた体は。

 そのまま――。


 また新しい予知夢だ。

 だけど、あれは……。


 ※


 月曜の朝。快晴と曇天の間の青空の下。

 車が行き交う十字路近くの舗道を、未來と煌綺は歩いていた。


「死なない予知夢?」

「うん……。いつもは、ハッキリ見えてなくても、死んじゃったってわかるんだけど」


 未來は、不安と不思議が入り交じった表情で、煌綺を見上げた。


「死なないならいいじゃねーか」

「そう、なんだけど」


 未來はうつむいた。

 でも、あれは。あの姿は――と、夢の中の少女を思い出す。


 一見、いつもと同じ足だった。

 変に曲がってもいない。擦り傷もない。

 でも、多分、二段目か三段目。

 かなり上の方から階段を転がり落ちた少女は、両手で足首を押さえていた。



 教室に着くと、驚いたことに、いつも遅刻ギリギリの瑞葉が登校していた。

 しかも入口扉の前に立った彼女は、未來を待っていたようだ。

 未來を見るなり、嬉しそうに両の拳を握った。


「ミライ! 聞いて!! 昨日のタイム、自己ベスト更新!!!」


 満面の笑みを浮かべる瑞葉を、未來と煌綺はポカンと見つめた。

 言葉の意味よりも、なんでこんな時間にみっちゃんが? である。

 なにせ、未來と煌綺は一緒に通学するようになってから、登校時間を早めている。

 それはクラスメイトにいろいろ言われたくないという煌綺の希望によるものだった。


 しかし瑞葉は、呆けた二人の様は、全く気にしていないようで、


「テスト明けで体なまってたらどうしようかと思ったけど、一安心だよ~!」


 と明るく話し続けている。


「自己ベスト……!!」


 頭の中で反芻し、未來はやっと状況が理解できた。


「おめでとう! すごーい!」

「あはは! ありがとう!」


 向かいあい、手のひらを重ね合わせて、きゃっきゃと喜びあう瑞葉と未來。


「関東大会決定したからね!! 頑張っていかないと!!」


 瑞葉は力強い声で言った。

 陸上部の彼女は、中学のときには関東大会ベスト四まで行ったこともあるという有力選手なのだ。


「今度は別の大会があるんでしょ?」


 未來が聞くと瑞葉は「うん!」とうなずいた。


「でもあたしの当面の目標はインターハイだから!!」


 そう明言する瑞葉の笑顔は、とても眩しい。


 ――だからこそ。

 今朝の夢が、未來の脳裏にちらついた。


 だって、あれは。

 あの外跳ねの茶髪は――。


 ※


 いつも通り十七時半頃に帰宅した未來を、一番に出迎えてくれたのは愛犬だった。


「ミカンー! ただいまー!! かわいいねー!!」

「ワン!」

「かわいい~~!!!!」


 未來は思わず、制服のまま愛犬に抱き着いた。

 この三歳のラブラドールレトリバーを、未來は溺愛しているのだ。

 しかし、その後ろに立つ母親は、冷めた視線で未來を見ている。

 きっと、制服に毛がつくとか思っているのだろう。

 未來はごまかすように「ただいま」と言って、急いで自室に向かった。


 その後未來は、部屋着に着替え、リビングでミカンとボール遊びをした。

 しかしそのうちにも、頭の中では、今朝の夢のラストシーンが繰り返し再生されている。


 未來と同じ制服を着た少女の顔は見えなかった。

 でもあの髪型は、あの後ろ姿は、瑞葉だと思うのだ。

 相変わらず、夢の中のことは、いつ起きるかわからない。

 ただもし時期と怪我の具合が悪ければ、瑞葉が大会に参加できなくなる可能性は十分にある。


『当面の目標は、インターハイだから!!』


 瑞葉はそう言って、今日の太陽より鮮やかに笑っていたのに。

 あの笑顔が、消えるようなことになったら――。


 考えごとをしていた未來の顔を、ミカンが舐めた。


「ミカン……心配してくれてるの?」


 思わず聞けば、ミカンが「ワン!」と鳴く。


「ふふ、ありがとう」


 未來は愛犬を、ぎゅっと抱きしめた。

 その脳裏には、煌綺の顔が浮かんでいる。


『お前がまた突っ込んでいくだろ。一人で』


 ため息まじり。でも、煌綺は真顔だった。

 もしこのまま一人で考えていたら、また煌綺に心配をかけてしまうだろうか。


 ――それよりも、コウくんが気づくほうが早いかな。私がなんかやってるって。


 そうなったら、煌綺は未來が何かしでかさないように、また見張ろうと――気を遣ってくれようとするかもしれない。


 ――だったら、何も言わずに、心配や迷惑をかけるよりは……。


 未來はスマホを取り出し、煌綺に送るメッセージを入力した。

 再稼働し始めた連絡先を使って、業務連絡ではない普通のやり取りをするのは、久しぶりな気がする。


『今通話できる?』


 打ち終え、少し緊張ながら、送信をタップする。

 すると、すぐにスマホが鳴り出した。


「わっ! わあ!!」


 まさか煌綺からかけてくれるとは思わなかった。

 危うくスマホを落としそうになりながら、未來は通話ボタン押した。


「何だよ」

「あ、ありがとう。かけてくれて」


 そっけない声に、動揺の残る声で言う。


「別に」


 返事はいつもの煌綺だ。

 未來は、勇気を出して話を切り出した。


「あの、相談、したいことがあるんだけど」

「あ?」

「今朝の夢のことなんだけど……」


 そう言うと、「いつもの公園」と返ってきた。


「え?」

「来るなら聞く」


 直後、効果音が鳴り……。


「切れた……」


 あまりに端的な約束に、未來の口から出た言葉はそれだけだった。


 ※


 未來は、クリーム色のトップスとベージュのハーフパンツに着替え、水色のブラウスを羽織り、ショルダーバッグを持って家を出た。

 もちろんミカンに「また後でね」と挨拶をすることも忘れない。

 特別急がなかったせいで、公園に着いたのは、十八時半頃だった。


 煌綺はスマホを片手にベンチに座っており、未來を見るなり「遅え」と言った。

 白いVネックシャツに、黒いパーカーとスリムパンツを合わせた格好。


「君が早いんだと思う……」


 未來はポカンとした顔で言った。

 自宅から公園までの道のりは、未來の方が近い。

 それなのに先を歩く姿が見えなかったのだから、絶対に煌綺が早すぎる。

 とはいえ、未來を待ったはずの煌綺が、未來を責めることはなかった。


「で?」


 短く促した彼に、未來は立ったままで説明を始めた。


「あのね……多分、夢に出てきたの、みっちゃんなの」


 煌綺は特に驚いたりはしなかった。

 黙ったまま聞いてくれるらしい彼に、未來は夢の詳細を伝える。


「みっちゃんの家の近くの大通りで、大人の男の人と女の人が二人で歩いててね、それ見たみっちゃんが、急に走り出すの。それで、駅の階段で、足を滑らせて」


 煌綺は何も言わない。

 いつもどおりの、感情の起伏の少ない彼だ。

 一方で、未來の心はだんだん暗くなっている。

 でも次が一番大事なことだと、話を続けた。


「死んではいないけど、きっと、骨折してる」


 それは未來にとって、話すことすら悲しい結末だった。

 走るのが大好きな瑞葉が、走れなくなるなんて、あってはいけない。

 そう思うからこそ、未來ははっきり、自分の望みを口にする。


「大会の前なのか後なのかわかんないけど、もし大会の前だったら出場できなくなっちゃうから、何とか、したくて」


 煌綺は、黙ったままだ。

 でもちゃんと、未來の顔を見て聞いてくれている。


「朝だと思うんだけど、毎日泊まるわけにいかないし」


 未來は、左手を右ひじに添え、右手の人差し指を立て、顎の下で回しながら言った。

 一応、自分なりに考えた解決方法のつもりだ。

 と、今まで無反応だった煌綺が、ため息をついた。

 未來を見ていた目が逸らされる。


「……お前、たまには本質を見るとかしろ」

「え?」

「豊守はただ走り出したわけじゃねえだろ」


 目を伏せ言った煌綺を、未來は驚きの顔で見つめた。


「怪我だけ止められりゃ、それで解決かよ、その夢は」


 怪我だけ?

 それが一番、大事じゃないの?


 一瞬思う。

 でも、煌綺の上がった目線に、それは違うのだと思った。

 うつむき考え、見逃していた事実に気づく。

 大事なのは、怪我をしたことじゃない。

 その前に、瑞葉は二人を見て走り出したということだ。


「でも……なんでだろう」


 あるはずなのだ。瑞葉が走りだした理由が。

 しかしいくら熟考しても、未來には何も思いつかなかった。

 無言の時間が流れる。

 それでも考えて続けていると、長く深いため息が煌綺から聞こえた。


「お前、本当にガキだな」


 苦虫を噛み潰したような表情で言われ、未來は思わず固まった。

 驚きすぎて言葉にならないまま、なんでどうして? と考える。

 煌綺はまた嘆息し、呆れた口調で言った。


「大方、浮気、失恋、不倫のどれかだろ」

「え!? ……え!?」


 未來は耳を疑った。

 どのワードも縁がなさすぎて、頭が全然ついていかない。

 そんな未來に、煌綺は説明する。


「付き合ってた男が浮気してた、好きな男に彼女がいた、付き合ってた奴が既婚者だった」


 噛み砕いてくれた内容は、さすがの未來でもわかりやすかった。

 だがわかってしまったからこそ、またも大きな衝撃が未來を襲う。

 だって煌綺が言っているのは、未來と大の仲良しの瑞葉のことなのだ。


「そ、そんな」


 浮気も失恋も不倫も、瑞葉に似合いの言葉とは思えない。

 どう受け止めたらいいかわからないまま呟けば、煌綺ははっきりと言い切った。


「なくはねーだろ」


 未來は呆然とした。

 あの、みっちゃんが、と思う。


「でも、それじゃあ、尚更どうしたらいいのか……」

「ああ?」


 眉尻を下げた未來に、煌綺は渋面を見せた。

 でも未來には、煌綺の反応を気にする余裕はない。


「その男の人に会うのは無理だろうし……そもそも誰かもわかんないし……」


 ただでさえ、未來は恋愛に疎いのだ。

 相手の男性に会ったところで、何ができるかもわからない。

 それ以前に、相手が誰かもわからないし、会うことが可能なのかもわからない。

 瑞葉を助けるために、自分は何ができるのか。

 未來は左手を右肘に添え、右の人差し指を立てて、手首ごとくるくる回して考えた。


 悩む未來を、煌綺は目線だけで見る。

 未來以外の人間からしたら、睨んでいると思われても仕方がない真剣な表情で、彼は言った。


「……そもそも、甘いんだよテメェは」

「え?」

「他人の人間関係なんざ、何も知らねえテメェが直接首突っ込んでどうにかなる問題でもねえだろ」


 煌綺の表情も、声のトーンも喋り方も、いつもと同じだった。

 でも、なにかが違う。

 あのときと同じだ、と未來は思った。

 煌綺を助けようとした、あのとき。

 未來には、言葉の意味がわからないまま、煌綺の周りの空気がピリついている。


「お前、あいつを、自分のことも一人で解決できない人間とでも思ってんのか?」

「そんなこと、思ってない……」


 聞かれた瞬間、未來の口から言葉が飛び出た。

 だって瑞葉は、何でも一人でできてしまいそうなくらい、しっかり者なのだ。


 煌綺は一体何を言おうとしているのだろう。

 悩む未來の体から、力が抜けていく。

 考えるポーズで持ち上げていた手が、だらりと垂れ落ちた。

 未來が落ち込んでいることは、煌綺にははっきりわかっているはずだ。

 だが彼は、さらに言葉を重ねて言った。


「なら、何でテメェは自分だけが行動して解決すると思ってんだよ」


 だって、と未來は思った。

 予知夢は、未來にしか見えないのだ。

 だったら、たとえ自分に力がないとわかっていても、動くしかないではないか。

 それを駄目だと言うのなら。


「じゃあ、どうしたらいいの……?」


 うつむき、絞り出すように未來は言った。


「そんなもん、当人に聞け」


 煌綺が、睨むような視線で未來を見上げる。

 はっとし、未來は目を見開いた。

 本人に聞くという発想がなかったのだ。


「どんな理由だろうと好きに動くのはテメェの勝手だけどな。それで責任取れんのかよ」

「責任……」


 立ち尽くしたまま、言葉の意味を考え、咀嚼し、飲み込もうとする未來に、煌綺は告げた。


「当事者無視して行動して、お前は何が守れるってんだ? あ?」


 未來は固まったまま動けない。

 瑞葉を無視しているなんて。

 そんなこと、絶対絶対考えてなかったのに。


 未來の脳裏に、予知夢が蘇る。

 そこで、未來は気づいた。

 今、たった今、未來は初めて、夢の中に瑞葉を見たのだ。

 髪や足の一部ではない。

 そこから瑞葉だと察するのではない。

 ちゃんと全部の、"瑞葉の姿"を、今、初めて。


 ――そっか、私。


 未來はやっとわかった。

 自分が、結末ばかり追いかけて、瑞葉の意思を考えていなかったことに。


「お前は何を優先してえんだよ。テメェか。豊守か」


 煌綺の問いに、未來の口は自然と動く。


「みっちゃん……」

「で?」


 考える。

 未來は、自分の意思をしっかり持っている瑞葉を、尊敬していた。憧れていた。

 それほどの瑞葉の行動を、未來がどうにかできるはずはない。


 ――つまり。

 あの事故を防げるのは、みっちゃん自身なんだ。


 未來の脳裏に、階段を転がり落ちた瑞葉の映像が思い出された。

 左の足首を押さえて、階段下で丸まった瑞葉の姿が。

 あれは、あの未来は、覆さなくてはいけない。


「みっちゃんに、言わなきゃ。どう言えばいいか、わかんないけど……それでも」


 淡々と、でも確実に、未來の言葉は続く。


「ちゃんと、伝えなきゃ。みっちゃんが、選べない」


 未來は、下ろしたままの手をぎゅっと握った。

 座っていた煌綺が立ち上がる。


「じゃあ、とっととテメェで決めた行動しろ」


 未來は握った拳を、胸の前に持ち上げた。

 伝えるためには。


「みっちゃんに、会う……!」


 力強く言った未來に、公園を出ようとしていた煌綺の声が飛ぶ。


「わーったから早く行動しろよ!!!」

「は、はい!!」


 未來は慌てて煌綺を追いかけた。


 絶対大丈夫だなんて、思えない。

 信じてくれるかも、わからない。

 それでも、私は。

 私は、みっちゃんに、心から笑っていてほしいから――。


 顔を上げて、未來は歩く。

 煌綺の隣を、自分の足で。