紙飛行機で空を飛びたかった。
こんな夢を掲げたのは、いつだっただろうか。少なくとも、漢字や足し算を覚えるよりも前だ。物心がついたときには、既に思い描いていた夢のような気もする。
小学校で、あらゆることを学んだ。知識を蓄えた。現実を知った。そのたびに、僕の夢は音を立てて砕けた。粉々になって、二度と戻らなくなった。
それでも、紙飛行機で空を飛びたかった。無理だと分かっていても、受け入れたくなかった。夢を諦めることで、現実に近付くのが怖かった。現実を知ることで、夢を忘れたくなかった。
大人になりたくなかった。子供のままでいたかった。
ようやく気付いた。僕は、とてつもない思い違いをしていたんだって。
大人になるってことは、夢を諦めることじゃない。夢を与える側に回ることなんだって。
僕の番がやっと来た。ここからは、最高に子供じみた方法で、大人への階段を駆け上ってみせよう。
パンナコッタから受け取った最後のマテリカを、パンナコッタに分け与える最初のマテリカとして。
ポケットに潜んでいた紙飛行機。これを巨大化させて、操縦できるようにした。もちろんマテリカの力だ。だけど誰のためかは定かじゃない。闘技場に潜入した純太を助けるためかもしれない。今は亡きパンナコッタの夢を、僕が代わりに叶えるためかもしれない。
確かなことはただ一つ。
僕を乗せた紙飛行機が、たった今、闘技場のフィールドに着陸したってことだ。
「なんだ、あの飛行物体っ」観客が怒鳴り散らす。「見たことねえ、あんなの」
「おれたちの敵に違いない。ぶっ壊せ!」
「落ち着け落ち着け、まずは装甲を確認するんだ」
慌てふためくルプスたちを余所目に、僕はフィールドに降り立った。すぐにマロンが走り寄ってくる。
「大丈夫です」マロンは一度振り返り、チロルたちに声をかけた。「これは紙飛行機。私たちの味方ですよ」
ゆっくりと近付くチロルとムギ。僕は二匹を安心させるために、笑みを浮かべてみせた。それでチロルも理解したのか、「助かったあ」と呟き、勢いよくムギを抱きしめた。
同時に、フィールドの外から、勇ましい雄叫びが聞こえてくる。なんだろう。観客のものじゃないみたいだ。僕たちが目を向けたとき、丁度雄叫びの主が現れた。
「自警団です!」ムギが声を弾ませた。
団長が先頭に立ち、スパーダを持って突入する。しかも自警団だけじゃない。有志のファミリアも含めたら、その数はルプスたちと同じくらい。希望の光が見えてきた。
紙飛行機、そして自警団の乱入。統率の取れていないルプスたちは、絶叫しながら逃げ惑った。フィールドは大乱闘。体育館の鬼ごっこみたいに、至る所に必ず誰かがいるような混沌状態だ。
「凛空、みんなを紙飛行機に乗せてやってくれ」純太がスパーダを構えた。「俺は最後に乗る。まだ油断はできない」
純太の意向に従い、まずは僕が紙飛行機に乗り込んだ。翼の部分に立ち、マロン、チロル、ムギの順番に手を取る。三匹には、中心のくぼみに収まるように指示した。その部分なら落ちにくいはずだ。
最後は純太だ。だけど純太がいない。急に消えたんだ。こんなときに、どこに行ったんだろう。辺りをキョロキョロして捜すけど、自警団とルプスでごった返して、一向に見当たらない。
「あっちです」チロルが身を乗り出して、遠くを指さした。
純太のやつ、ルプスとの戦いに巻き込まれていたんだ。
「世話が焼けますよ」マロンが紙飛行機を飛び出した。
彼女は脇目もふらずに走る。手にはスパーダ。助けるつもりだろう。マロンに任せておけば大丈夫という保証が、なんとなく僕の中にはあった。
純太とルプスの鍔迫り合い。均衡状態。瞬きすら許されない。
一瞬、純太の手が緩んだように見えた。ルプスが一気に押す。スパーダが、純太の首すぐそこまで迫る。刃物じゃないから死にはしないけど、かなり痛いはずだ。前に足を叩かれた経験がある僕には、その苦痛が十二分に理解できる。
マロンが飛び込んだ。ルプスの首に一撃。打撃音が僕の元にも届く。ルプスは悶え、前方に倒れ込んだ。
僕の呼吸が安定した。マロンに任せておけば大丈夫とはいえ、結構心配だったんだ。
そのとき、次なるルプスが純太に走り込んできた。でも純太は気付いていない。後ろからの突撃だったからだ。僕が「後ろを見ろ」と声を張り上げたって、乱闘の喧騒に紛れてしまう。
一早く反応したのはマロンだった。純太の手を引き、僕たちの方向に駆け出した。ルプスの攻撃は空を切る。勢い余って、自警団の団員と衝突していた。
間もなくして、マロンたちが紙飛行機の元に到達した。これで大丈夫だ。最初にマロンの手を取って、次に純太を誘導する。
「悪い。俺が一番油断してた」純太が苦笑した。
「まあ、今回はマロンのおかげってことで」
全員がくぼみに収まったのを確認して、僕は一番前のくぼみに入る。まだマテリカは使えるはずだ。だって、パンナコッタが沢山与えてくれたんだから。
目を閉じて、願う。
このマテリカを、みんなを救うために使わせてほしい。
強い風が吹いた。紙飛行機が、ふわっと浮いた。闘技場をぐるりと回転して、段々と高度と速度を上げていく。僕は紙飛行機を掴み、振り落とされまいと必死になった。
幸いなことに、弓や銃を持ったスパーダはいないようだった。そもそも、アムネルにそういった武器が存在するかも分からないけど。なんせ、飛行機もヘリもないんだから。
ルプスたちは、空中の敵を迎撃するような方法を持ち合わせていないようだった。僕たちの紙飛行機は、難なく闘技場から脱出した。
これでひとまずは安心だ。チロルもマロンも僕のそばにいる。気がかりなのは、自警団がルプスたちを鎮圧できるかどうかだ。もうちょっと応援を要請した方がいいだろうか。それとなくチロルに相談してみる。
「ぼくが真っ先にすべきことは、みなさんを送り届けることです。あとのことは、我々ファミリアがどうにかします」
ムギも同じ意見のようだ。どうやら、僕たちはこのまま日本に帰ることができるらしい。騒ぎを起こしたまま帰るのは忍びないけど、変に関わって、また純太やマロンとはぐれてしまうのはごめんだ。素直に従うことにしよう。
紙飛行機は、風を切るほどの快速で市街地を抜けた。住宅街を通り越したところから、次第に速度を落とし始める。心なしか、機体が小さくなっているようにも思える。
丘を上ったところで、紙飛行機が着陸した。いつの間にか機体の大きさは戻っていて、僕の股の下に収まっていた。それを右手で拾い上げる。こんな小さなものに、僕たちは乗っていたらしい。ポケットにしまいながら、ちっぽけだなと感じた。
丘の上には、秘密基地にそっくりな木がある。中心には、僕たちが通ってきた空洞がある。もう一度通れば、きっと日本に帰れる。
純太が頭を掻いた。「色々騒がせたな。ごめん」
「本当に激動の三日間でした」チロルが苦笑いを浮かべる。「ですけど、なんとか丸く収まりそうでよかったです。その分、犠牲もありましたが……」
チロルは、ログハウスを一瞥した。
「これからは、ファミリアが一丸となって、アムネルの平和を守っていきます」
「あなたに言われても、信用できないですよ」マロンが軽口を叩いた。
「そりゃあ、決闘は専門外ですから。ぼくの仕事はお菓子作りです」
ふうん、とマロンは興味なさげに相槌を打った。
市街地の方から、煙が上がってきた。闘技場だろう。どちらが優勢かなんて、丘の上からじゃ分からないけど、きっと自警団の方なんじゃないかと思っている。
僕たちは帰った方がいいだろう。ただでさえ部外者なんだから、できることは限られている。きっと親も学校も心配しているだろう。日本とアムネルでは時間の流れが違うらしいけど。
「マロン、そろそろ帰ろうか」純太が呼びかける。
「どうなのでしょう。このまま帰るのも、責任を放棄するみたいで恐れ多いですが」
「任せてください」ムギが言った。「アムネルのことは、アムネルのファミリアが解決します。マロン様、どうかお気を付けて」
マロンは微笑んで、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「じゃあ、帰るか」純太が木の空洞に足を踏み入れる。
そのとき、僕の目にログハウスが映った。しまった。大事なことを忘れていたみたいだ。あんな大乱闘に身を投じていたから、ついうっかりしていた。
僕は「待って」と声をかけてから、ログハウスに歩み寄った。
家の横には、パンナコッタが埋められている。土の中から、白い髪が飛び出ている。
パンナコッタの髪の毛は、まだ埋められていない。
ちゃんとお別れを言わないと。
土を両手ですくった。パンナコッタの前に立ち、じっと見下ろした。
蘇ってきてほしいと思う。そんな奇跡が起こらないのは分かっている。僕は現実を知っている。
パンナコッタの葬式から、丸一日。どういう言葉を投げかければいいか、ずっと考えていた。
ありがとうとか、大好きだとか、元気でねとか。
お前の分まで生きるからなとか。絶対に復讐してやるからなとか。
色々言葉を並べては、全部とっ散らかして、今に至るまで何も残りやしなかった。パンナコッタに相応しい言葉が、どこにも見つからなかった。皮肉だよな。どれだけ学校や塾で漢字を習っても、いざ伝えようとすると、何も出てこないんだ。
勉強なんて何のためにやっているんだろう。大人に褒められるためか、承認欲求を満たすためか。どちらもか、どちらでもないか。
今の僕には分からない。歳を取ったって、理解できないかもしれない。
だけど、勉強をしたくないとは思わない。知識を蓄えて、現実を知って、夢は夢なんだと悟ることに、意味がないとは思わない。
大人になるってことに、意味がないとは思わない。
僕が持っている土は、それを示すためのものに過ぎない。言うならば、これは思いやりなんだろう。死者に向ける愛情、もしくは忘却。
パンナコッタ。今から僕がすることに、どうか腹を立てないでほしい。君にとっては屈辱かもしれない。だけど、僕が大人になるための一歩なんだ。許してくれ。
僕は屈んだ。手に持っていた土を、どこでもない場所に乗せた。
髪の毛は、埋められていない。埋めなくたっていい。
その代わりに、僕は紙飛行機を取り出した。それを、髪の毛の上に置いた。
パンナコッタ。お別れは言わないよ。
もう絶対に忘れない。忘れてなんかやらないからな。