僕が足手まといだなんて、僕が一番分かっていたんだ。それなのに、どうしてこうも悲しい気持ちになるんだろう。
パンナコッタの無念を晴らせないこと。純太に足手まといだと突きつけられたこと。たった一人で取り残されたこと。全部が全部混ざり合って、泥のように粘りながら、確かに僕を蝕んでいく。
それでも、挫けている場合じゃない。僕に与えられた仕事は、あの丘を上って、純太を待つことだ。
僕は歩く。闘技場とは反対の方向に向かっている。ファミリアたちの波に飲まれないように、一歩一歩踏みしめる。
孤独な逆走。僕だけが、アムネルから疎外されているみたいだ。もうパンナコッタはいない。純太は闘技場だ。この孤独は、僕一人だけで背負わなければいけない。
「魔導士様」誰かの声。
反射的に振り返った。空耳じゃない。誰かがパンナコッタを呼んだんだ。辺りをしきりに見回して、声の主を捜す。そう遠くにはいないはずだ。ファミリアたちをかき分けて、僕も「パンナコッタ」と叫んでみる。
もう一度、「魔導士様」と聞こえた。路地裏の方だ。僕は声に誘われる。純太はいないけど、またパンナコッタに会うためなら、無謀だとしても構わない。
路地裏に入ると、ルプスたちが両手を合わせていた。子供の姿もある。
「魔導士様、魔導士様。どうかお許しください。我々ルプスは、取り返しのつかない過ちを犯そうとしています」
僕は物陰に隠れながら、そっと様子を窺う。
「魔導士様は、ルプスにすらマテリカを分け与えてくださいました。それなのに、我々の同胞は魔導士様を殺めて、アムネルの転覆を目論んでいます。どうか、どうかお許しを」
改めて気付かされた。パンナコッタはもういないって。でも嫌じゃないか。突然大事なものを失って、受け入れろだなんて。
それが大人になるってことなら、僕は一生子供のままでいい。大人になんかなりたくない。
だけど、純太はこう話していた。大人になるってのは、思いやられた人が、思いやる側に回ることなんじゃないかって。
なんだろう、大人になるって。今の僕には理解できない。理解したくもない。何も考えたくない。僕が僕じゃなくなることが怖い。
路地裏を出て、また歩く。たった一人で。あの丘を目指して。
パンナコッタはもういない。昨日は、僕の手を握ってくれたのに。もういない。もう会えない。突然の別れだなんて、あんまりじゃないか。
そうか、そうだった。僕が取り乱すことを悟って、純太は一人で闘技場に向かったんだ。おかしいと思っていた。あいつには強引なところがあった。仮に僕が万全な状態だったら、引っ張ってでも闘技場に連れて行ったに違いないんだ。だって、僕たちは二人と一匹で秘密基地のメンバーなんだから。
僕には分かっていた。純太が強引じゃなくなっていること。相手の気持ちを悟ろうと努力していること。
僕たちの秘密基地を終わらせてまで、大人になろうとしていること。
僕だけかよ、秘密基地にこだわっていたのは。
馬鹿みたいじゃないか。子供っぽいじゃないか。どうして僕を置いていくんだよ。
行かないでよ。僕を一人にしないでよ。
悔しくて、視界がにじんだ。空を見上げたまま、呻くように声を漏らした。頬が濡れた。拭うこともせずに、僕は歩いた。むしゃくしゃしてきて、地面を蹴った。力強く踏みしめた。顔を下ろした。思うがままに、駆け出した。
ファミリアとぶつかりながら、僕は走り続けた。説明できないぐちゃぐちゃの感情を、どうにかして紛らわそうと必死だった。孤独から目をそむけようとした。誰にも理解されないであろう叫びを、自分自身に投げつけた。意地だった。強がりだった。それで満たされるなら、構わなかった。
子供でいれば、パンナコッタのいない現実を受け入れずに済む。
大人になれば、純太に追いつくことができる。
中途半端な場所に収まっていたかった。子供でも大人でもない存在になって、もうちょっと時間が欲しいとねだりたかった。ねだれやしなかった。僕を取り巻く世界は両極端で、子供なら子供、大人なら大人と区別してくる。中間なんてなかった。
目頭を拭って、前を向いた。すると公園が見えた。昨日、パンナコッタと訪れたあの公園だ。そこでは子供たちが遊んでいた。純粋な笑顔を浮かべていた。決闘のこととか、ルプスのこととか、そういった不安を一切抱え込んでいないように見えた。
パンナコッタのおかげだ。パンナコッタが子供たちを思いやったから、子供たちは思い悩まずに済んでいるんだ。
公園から目を逸らし、走り続ける。走ることには自信があった。息が切れたって、気力の続く限り足を動かした。
ファミリアたちが僕を見ている。「サピエンスだ」と指をさす。
そんなに珍しいかよ、僕のことが。
無茶苦茶な理由で生じた腹立たしさを、走ることで発散する。
市街地を抜けて、住宅街。サピエンスの数が減って、さっきよりも走りやすい。僕は大きく息を吸って、加速した。走ることが楽しかった。追いかけるものがあれば、なお良かった。隣で走ってくれる誰かがいれば、最高だったに違いなかった。
丘を上る。都合の良い乗り物なんかない。自分の足だけを頼りに、僕は上を目指す。体力はとうに限界だ。速度を落とす。だけど足を止めない。負けた気がするんだ。誰に負けたかは知らないけど、その感情が僕を突き動かしているのは事実だった。
そして上り切った。僕は丘の上に辿り着いた。草むらに倒れ込み、肩で息をした。体を動かすのは好きだ。こうやって疲れ果てても、その気持ちは変わりやしなかった。
丘の上にはログハウスがあった。パンナコッタの家だ。家の横には、そのパンナコッタが埋められている。土の中から、白い髪が飛び出ていた。
パンナコッタが丘の上に住んでいるのは、魔導士という身分のせいだと思っていた。もちろんそれもあるだろうけど、たった今、別の理由があったんだと気付いた。
簡単なことだ。僕の家も丘の上にあったからだ。
アムネルの市街地に行くには、丘を下りる必要がある。家に帰ってくるには上らなきゃいけない。散歩と同じだ。パンナコッタは、この坂道を気に入っていたんだ。
込み上がる感情を抑えながら、僕はログハウスに入った。誰もいないのに「ただいま」と声を出す。当然、返事は戻ってこない。
家主だけがいない部屋。そのまま暮らせそうな内装。妙な寂しさを覚えながら、僕は、そっとソファに寝転んだ。頭の高さが足りなかった。
目を閉じてみた。眠れるかもしれないと思ったからだ。次に目が覚めたら、きっと毛布がかけられている。誰かが「おはよう」と声をかけてくれる。一緒にデザートを食べて、目的のない散歩をする。疲れたら、一緒にソファで眠るんだ。
僕は目を開けた。誰もいなかった。とっくに分かっていたはずなのに。
体を持ち上げて、ソファから立ち上がる。静かだった。一人ってこんなに無音なのか。初めて知った。パンナコッタや純太はよく喋るタイプだったから。
せわしなく部屋を歩き回る。静かだとどうも落ち着かない。足音で気を紛らわせようとする。だけど上手くいかない。またソファに座ってみる。
何か考え事でもしてみようか。今だからこそ、考えられることを。
記憶をさかのぼってみる。ふと、パンナコッタの言葉を思い出した。
「それにしても、マテリカ自体のことか」
雨宿りの最中、パンナコッタが僕に提案したこと。
「良かったら、凛空も一緒に考えてくれるかい」
マテリカについて、今なら分かるかもしれない。時間はたくさんある。
顎に手を当てる。ソファに深く腰掛ける。ここなら、誰にも邪魔されない。
「自分のためには使えないし、誰かの怪我を治すこともできない。それに、使い続ければ、いつか私の中から消える」
パンナコッタの言ったことを、必死に思い返す。
「自力では回復できないよ。MPがなんだか分からないけど、多分それとは使い勝手が違うんじゃないかな」
パンナコッタの優しそうな笑顔も、同時に浮かんでくる。
「マテリカも、雨と同じように循環するんだよ」
枯れていたはずの瞳が、また潤い始める。
「私のマテリカだって、元々は誰かから貰ったマテリカなんだ。それを、今度は私が分け与える。マテリカを受け取った誰かは、また別のファミリアに分け与える。巡り巡って、いつか私の元に帰ってくるんだよ」
目頭を拭う。今だけは、感情なんかいらない。
「私のマテリカは、元々、君のものだったんだね」
それでも、溢れ出してくる。抑えきれない。
「マテリカをたっくさん持っていた私は、アムネルの魔導士になった。マテリカを使って、みんなを楽しい気持ちにさせた。凛空が私に、そうしてくれたように」
咳き込んで、しゃくり上げる。
「思いやられた人が、思いやる側に回ることなんじゃないか」
そのとき、今朝の純太との会話が、自然と思い出された。
最後のピースが埋まった気がした。
そうか、そういうことか。
僕は顎に当てていた手を下ろし、ゆっくりと立ち上がった。ようやく考えがまとまった。マテリカの正体も、大人になるということも。
パンナコッタ。僕の考えを話してもいいだろうか。ごちゃごちゃだけど、許してほしい。
君が僕との思い出を封じ込めたのは、僕を思いやろうとしたからだ。君には分かっていたんだろう。パンナコッタを失った僕が、自分を責めるということも、思い悩むということも、ずっと引きずるということさえも。
だから待った。僕が歳を取って、アムネルを訪れるまで。
これは推測に過ぎないけど、伝えておこう。秘密基地からアムネルへの空洞を作ったのも、実は君なんじゃないかと考えている。
これでも、僕たちは秘密基地のことを知り尽くしていたつもりだ。何年も経って、突然空洞を見つけたなんて、そんな都合の良い話があるだろうか。もっとも、証拠なんてない。だから推測に過ぎないんだ。
あと、歳を取ってアムネルを訪れる、というのも重要だ。君がそう考えられるのは、つまり、日本とアムネルでは時間の流れが違うと知っていたからだ。純太もじきに気付くだろう。あいつは既に答えを知っているんだから。
いや、時間のことについては放っておこう。今は関係ない。
マテリカ。そう、マテリカについてだ。君がマテリカを使った瞬間を、改めて振り返ってみた。
まずは、僕にパンナコッタのデザートをくれた。そしてちゃぶ台を造ってくれた。
次に、公園でボールを取り合っていた子供たちに、二つ目のボールを渡した。
最後に、僕との思い出を呼び覚ましてくれた。
全てが誰かのため。そして、君が意識していたかは知らないけど、僕を含めて、子供のために使われていたんだ。つまり、本来のマテリカは、子供に使いたいと思われるもの。子供に向けて使われるもの。
僕はこう思う。マテリカは、誰かを思いやる気持ちなんじゃないかって。
自分のためには使えない。自力じゃ回復できない。誰かを思いやっていると、思いやっている自分自身は疲れてしまう。だけど、思いやりは循環する。巡り巡って、いつか自分に戻ってくる。
例外があるとしたら、脅迫された、とかだろうか。命を奪おうとする相手の機嫌を取るために、無償の思いやりを向けるのは、よく聞く話だ。
マテリカのことが分かったら、大人になるというのも説明できる。一見関わりのないように見えて、実は密接に関係しているんだ。
大人になる。それは、思いやりを受けてきた僕が、今度は思いやりを与える番になるということ。
君は言った。私のマテリカは、元々、君のものだったんだねって。
つまり、僕は子供でありながら大人だったということなんだ。パンナコッタと一緒に成長していた。だけどパンナコッタが姿を消して、僕は完全なる子供になった。誰にも思いやりを与えずに、受け続けることに専念していた。
それも間違いじゃないのかもしれない。幸せなのかもしれない。
でも、思いやりは永遠じゃない。それが尽きたら、今度は与える側に回らないといけない。
平等に訪れる、大人になるという出来事。
君は、最後に残ったマテリカで、僕に伝えようとしていた。いつかは与えなければならないということを。
マテリカは循環する。
それならば、僕が受け取った最後のマテリカを、別の誰かに使うことだってできるはずだ。
この力があれば、僕にだって救えるんじゃないか。チロルを、マロンを、そして純太を。
頭が回る。一発逆転のアイデアが、電流となって脳を走り抜ける。最高に子供じみた方法で、僕は大人への階段を駆け上る。
「凛空」
空耳だ。パンナコッタはもういない。まだ受け入れるには時間がかかるけど、一人でもちゃんと歩ける。路地裏に入るときは、まだ純太に頼るかもしれない。それも愛嬌ということで、許してほしい。
「大きくなったね。凛空」
僕は、ゆっくりと部屋全体を見渡した。空っぽのビンと、添えられたスプーン。置かれたソファに、外へと通じる扉。僕は扉に近付いて、ドアノブを回した。
一度だけ、振り返る。風が入り込み、僕の髪を揺らす。懐かしい匂いが漂う。少しだけ、ソファがへこんだような気がする。誰かが座っているように思える。
その誰かを知っている。白い髪をなびかせて、優しい眼差しを向ける、僕の親友。
パンナコッタ。
僕、こんなに大きくなったよ。