どうして、忘れてしまっていたんだろう。
今なら鮮明に思い出せる。あのあと、家のソファで目覚めたことも、雑木林で散歩していたことも、さっきまで溺れていたことも。
お父さんが「また犬を飼いたいな」と口走ったことも。
お母さんが「凛空がいれば充分よ」とあしらったことも。
池に沈みかけた僕を、誰かが助けてくれた。だけど誰かが分からなかった。四年間の人生の中で、一番の親友だったということだけを覚えていた。
今まで忘れてしまっていた。雑木林に入ったことも、パンナコッタの存在も。
親友だったのに、どうして思い出せなかったんだろう。忘れてしまっていたんだろう。
自分のことを忘れさせることが、パンナコッタの思う「凛空のため」なのか。十二歳の今なら、随分と見くびられたものだと感じてしまう。
「パンナコッタ」
僕の太ももの上で眠るパンナコッタに、そう声をかけた。
反応はない。目を閉じて、口角を上げたまま、黙りこくっている。
「ねえ、パンナコッタ」
彼女の白い髪を撫でながら、再び声をかけた。
「パンナコッタったら」
きっと、走りすぎて疲れちゃったんだろう。立ち寄った公園でも、ずっと紙飛行機を追い回していたから。服を乾かすために、闘技場まで走って向かったから。
「返事くらいしてくれよ」
さては、僕にイタズラを仕掛けているんだ。
急に起き上がって、僕の驚いた顔を見ようとしているに違いない。
「パンナコッタ」
でも、万が一の話をしよう。もしものことを考えよう。
「行かないで」
これが、疲労でも、イタズラでもなかったとしたら。
「一人にしないで」
僕は、大人にならないといけない。
パンナコッタのマテリカは尽きて、僕は事のあらましを知った。パンナコッタが自分の存在を隠したのは、当時の僕がまだ幼かったから。言い換えると、今の僕は幼くないということ。
今の僕なら受け入れられるって、魔導士が判断したということ。
僕たちは、数年もの濃密な時間を共有した。それは一期一会で、二度と繰り返されることはなくて、三回その場で回ったって、四囲の情勢は覆っちゃくれないんだ。
だけど、最初から出会わなければよかっただなんて思わない。パンナコッタと過ごした日々は、僕にとって、絶対に忘れられない思い出だ。なのに忘れていたんだ。マテリカなんかに封じられて、それでのんびりと生きてしまったんだ。この十二年間を。
叩いてほしい。蹴ってほしい。
命を救ってくれた親友のことを、今の今まで忘れていた僕をどうにかしてほしい。
パンナコッタを思い出せないなら、僕は子供のままでいたくない。真正面から事実と向き合って、受け入れなきゃいけない。
誰を恨むとか、誰に復讐するとか、パンナコッタはそういうことを伝えたかったわけじゃないはずだ。僕にとって、一番適した選択を残しているはずなんだ。
それが大人になることなんだろうって、僕はそう考えている。
嫌だなって思う。子供のままで楽しいのに、どうして大人になるんだろう。
いつまでも紙飛行機を追い回していたい。自分の足で坂道を下って、パンナコッタに乗って上りたい。ソファの上で跳ねて、一緒にテレビを見よう。いっぱい遊んで疲れたら、寄り添い合って眠るんだ。
子供のままでいたら、お母さんみたいに体力も落ちないし、ずっとパンナコッタに乗っていられる。
大人になったら、今までできたことが、途端にできなくなる。それが寂しいって思う。
大人にならないといけない。大人になりたくないのに。
悔しくて、どうしようもなくて、力なく首を前に垂らした。パンナコッタの額に、ぽつりぽつりと水滴がついた。もう二度と遊べないって、心の奥底で感じ取ってしまった。
子供でいいから一緒にいたかった。そう言えたらよかったのに。