知らない場所で目を覚ますと、夢でも見ているかのような気分になる。旅行先とか、お泊まり会の翌日とか。
だけど、僕がソファの上で目覚めたとき、すぐに現実だなって思ったんだ。
「おはよう」どこかから声がした。
僕は上半身を起こして、目を擦った。下半身は薄い毛布で覆われている。誰が毛布をかけてくれたんだろう。辺りをキョロキョロしていると、僕の後ろに、あの魔導士が座っていた。様子からするに、どうやら膝枕をしてくれたらしい。
「もう足は痛まないだろう」魔導士が微笑む。「立ってみるといい」
言われるがままに、朦朧とした意識のまま立ち上がる。痛まない。足踏みしても大丈夫だ。「ワンダフルだ」と魔導士がグーサインを出した。
「さて、凛空」魔導士がソファから立ち上がる。「私が誰だか分かるかい」
「誰って、魔導士さんでしょう」
魔導士は、僕の背中を小突いて「そう、私が魔導士様だ」と微笑んだ。なぜか悲しそうにも見えた。だけど、すぐにその場でタップダンスを始めたから、多分僕の見間違えなんだと思う。
「凛空も踊ろう。私のこと、絶対にタイプになるよ」
「今まで会ったことがないタイプです」僕は眉をひそめる。
「そうかい」魔導士が鼻を人差し指で擦る。「一緒にいるだけで楽しいタイプさ」
「そうだといいですけど」
ルプスたちが逃げ帰るほどの力を持つ魔導士。しかし、どうにも威厳がない。命まで助けてもらったけど、まるで近所のお姉さんとでも遊んでいるかのような気分だ。
魔導士は、ステップを踏んでどこかに消えたかと思うと、二個のビンを持って帰ってきた。なにやら白いゼリーのようなものが入っている。デザートだろうか。
両手が塞がっているからか、魔導士は口で二本のスプーンを咥えている。別々に持ってくるという発想はなかったんだろうか。いや、ファミリアが犬の子孫と考えれば、普通のことなのかもしれない。それならスプーン自体要らない気がする。
習性か、文化か、魔導士のガサツか。なんとも訊きづらいところだ。
そこで、ビンの方に話題を向けた。「そのビンの中身は、杏仁豆腐ですか?」
魔導士は、僕に一個のビンを渡して、空いた手でスプーンも渡してくれた。結局手でいいのかよ、と心の中でツッコミを入れる。
「この中身はね、パンナコッタだ」魔導士が微笑んだ。「知らないとは言わせないよ」
「パンナコッタですか」
「そう。ペァンナコッタ。君も大好きなはずだ」
「まあ……」食べたことがないとは言い出せない。
両親から聞いた昔話を思い出した。小さな頃、僕は白いものを見つけるたびに「パンナコッタ」と指をさしていたらしい。なんでも、テレビで聞いた「パンナコッタ」という言葉の語感を気に入っていたとか。
子供らしいな、と思う。今と違って。
ともかく、頂けるものは頂こう。僕は、テーブルを探すために辺りを見渡してみる。だけど見当たらない。魔導士に尋ねたところ「うちは床暖房だから暖かいよ」とのこと。そういうことじゃない。
「冗談さ」魔導士が声を上げて笑った。「今、用意するよ」
魔導士は、空いた手で指を鳴らした。すると、床の木材がムクムクとせり上がる。僕が感嘆の声を出す間もなく、そこに一人分のちゃぶ台が造られた。
「凄いだろう。これはマテリカの力だ」
魔導士があぐらをかく。ちゃぶ台とは真逆の方向を向いていた。どうやら、台は僕のために用意されたものらしい。素直にお礼を言うと、魔導士は屈託のない笑顔を浮かべた。
確かに魔導士は変わっているけど、性格が良いんだろうなって思う。僕が眠っていたときに、膝枕をして、毛布もかけてくれた。見ず知らずの僕をルプスから助けてくれた。
「そういえばさ」パンナコッタを頬張りながら、魔導士が尋ねる。「凛空って、どうしてアムネルに来たんだい。ただ迷い込んだわけじゃないんでしょ?」
「そうなんです」
僕は一旦ビンを置いて、これまでの経緯を説明した。消えたマロンを追いかけてアムネルに来たことや、チロルというファミリアに親切にしてもらったこと、純太とはぐれてルプスに襲われたところを、魔導士に助けられたことまで。
とにかく、知っていることを全て話した。魔導士になら話してもいいって思ったんだ。
「犬、という種族なんだね。マロンさんは」
「まあ、そうです」柴犬と言っても、多分通じないだろう。「全身きつね色で、四足歩行。純太が言うには、ファミリアの先祖みたいです」
「そうみたいだね。特徴も似ているし」魔導士は、自分の鼻先を人差し指で触った。
一息つくために、僕はパンナコッタを口にした。まろやかで美味しい。
「にしても、マロンさんか」魔導士が膝に肘を置き、頬杖をつく。「アムネルの時事には疎いんだけど、どっかで聞いたような気もするなあ。マロンって名前を」
「本当ですかっ」僕は声を弾ませた。
魔導士は口角を上げて、小さく頷いた。「嘘はつかないよ」
事態が好転した。目撃情報はあったんだ。本当に見つかるかもしれない。僕は興奮を抑えきれない。
ただ、それがぬか喜びだと知ったのも、ほぼ同時だった。
魔導士はマロンを見たんじゃない。マロンという名前を聞いたんだ。これだと、犬かファミリアか分からない。現に、チロルという名前は、犬にもファミリアにも使われていただろう。そもそも、それが僕の探しているマロンだとしても、生存が確認できただけだ。居場所が分かったわけじゃない。
重要な情報であることに変わりはない。けれど、大きな一歩とはならなかった。がっくりと項垂れてしまう。マロンを見つけるには、もうちょっと時間がかかりそうだ。
「元気出してよ、凛空」
突然、脇腹をつつかれた。僕は動転してしまう。「何するんですかっ」
「一旦、私と遊ばないかい」
魔導士の方を向く。その右手には、青と白が入り混じった色の紙飛行機。
「凛空、これをどっかに投げてくれよ」
僕は、自分のズボンのポケットに手を突っ込む。必死にまさぐる。何もない。
つまり、魔導士が持っている紙飛行機こそが、僕のポケットにあったはずの紙飛行機。どこかのタイミングで抜き取られたんだろう。
そのときだ。僕に電流が走った。
閃いたんだ。マロンを見つけるためのアイデアを。まだ打つ手がないわけじゃない。
「魔導士さんっ」僕は弾むような調子で喋る。「紙飛行機の匂いから、マロンの居場所を特定できませんか」
犬もファミリアも鼻が利く。マロンが紙飛行機を咥えたときに、唾液や息の臭いが付着した可能性がある。残り香が分かれば、いずれマロンに辿り着けるかもしれない。
「まあ、そうだね、試す価値はあると思う」魔導士は頬を掻き、困惑したような表情を浮かべる。「遊びたかったんだけどなあ」
「匂いを確かめたら、ちゃんと遊んであげますから」
魔導士は目の色を変えた。「任せてよ」と豪語して、紙飛行機をしきりに嗅ぎ出した。鼻先がピクピクと動く。やっぱり犬とファミリアは似ているようだ。
十数秒ほど経ったとき、魔導士の顔が悲しげに曇った。
「他の匂いが強すぎるみたいだ」紙飛行機を手渡される。「まずは凛空の匂い。次に路地裏、つまりルプスの体臭。わずかにミネラルの香りがあったが、これは土だろうね」
「残り香は、微塵もなかったと」
「なかったよ。元の匂いがなければ、マテリカで匂いを強くもできない」
受け取った紙飛行機を見つめる。唯一の証拠は、もう当てにならない。起死回生のアイデアだと思ったのに、今度こそ万策尽きた。一旦、紙飛行機をポケットにしまう。
黙ってパンナコッタを食べることにした。一口食べるごとに、落ち着きを取り戻していく。こういう窮地のときこそ、甘味が大事なんだろうと実感する。
最後の一口を頬張った途端、ビンもスプーンも消えてしまった。ちゃぶ台もなくなっている。これも、マテリカとやらの力なんだろうか。
魔導士は、とっくにパンナコッタを食べ終えていたようだ。だけどビンもスプーンも残っている。普通に考えれば、ビンもスプーンもその場に残るのが自然だろう。ただ、自分のビンが消えてしまった以上、自分と違った現象が発生すると、そちらが不思議に思えてしまう。
「さてと」魔導士が、自分のビンとスプーンを片付ける。「そろそろ出掛けよう」
「出掛けるって、どこに」
「決まっているじゃないか」
魔導士は、その場でくるりと一回転してから、ぎこちなく腰に左手を当てた。
「マロンさんを捜しにだよ」
それを聞いた僕の第一声は、自分でも驚いたけど、なんと「行きましょう」だった。
今までの僕は、たとえ決まり切ったことであろうと、形式的に「申し訳ない」と一度断りを入れたものだ。しかし今はどうだろう。申し訳なさこそあったものの、魔導士の優しさに甘えることに、一切のためらいがなかったんだ。
簡単な支度をしてから、僕たちは外に出る。既視感のある景色。それもそのはず、僕が今の今まで眠っていた場所は、アムネルで最初に目にしたログハウスだったんだから。
「昨日、凛空を見たんだよ」魔導士が伸びをする。「外から『凛空』って声が聞こえてさ。見てみると、サピエンスがいるじゃないか、って」
ああ、なるほど。魔導士が僕の名前を知っていたのは、このときの会話を聞いていたからだ。それにしては少々馴れ馴れしい気がするけど、きっと魔導士の性格なんだろう。
それよりも、僕を惹きつけたのは、昨日という言葉の響きだった。
「魔導士さん。今、昨日、って」
「昨日だよ」魔導士がさらりと言ってのけた。「だって、凛空、ずっと眠っていたじゃないか」
連想したのは、親、塾、学校。純太とマロンと行方不明。
翌朝になっても帰らないなんて、とても心配をかけてしまっている。きっと今頃、警察に捜索願でも出されているんじゃないだろうか。真面目に育ったつもりなのに、こんなことで問題児扱いされるのはごめんだ。
とはいえ、このまま帰るわけにもいかない。純太はチロルといるだから安心だけど、帰るからには一緒がいい。片方が帰って、もう片方が帰れなくなる可能性だって充分に考えられる。
それはいいとして、まずはマロンだ。今日こそ見つけて、とっとと日本に帰ろう。路地裏で襲われるような国なんて、怖くて住めたものじゃない。
「ねえ、凛空」
魔導士が、僕のポケットをしきりに見ている。
「紙飛行機、飛ばしてくれないのかい」
そうだった。すっかり忘れていた。僕は右手でポケットをまさぐって、紙飛行機を取り出した。魔導士の目に光が溢れる。マロンと同じ目つきだ。
「できるだけ遠くに飛ばしてくれ」魔導士が声を弾ませる。「その方向に走ろう。先に紙飛行機を捕まえた方が勝ちだ」
「僕が有利だと思いますけど」投げる方向を決めるのは僕だからだ。
「ハンデだよ、ハンデ。私、結構足が速いんだから」
調子のいいことを言う魔導士だ。油断しているに違いない。その隙に、明後日の方向に投げてやった。僕はそっちの方へ走り出す。坂道だ。
「待って、今のはズルいじゃないか!」
知らないといった素振りで、僕は走り続けた。ああ面白い、愉快。後ろから足音が響く。振り返って、「遅いですよ」と叫ぶ。「卑怯だ」と返ってくる。
昨日、純太と競争したことを思い出す。自分が相手より優位だと、こんなに楽しかったのか。自分が子供っぽく感じる。子供でいられることを嬉しく思う。
何も考えずに走るってのは、案外悪くないみたいだ。
言い訳をするとしたら、魔導士の体力を見くびっていたことだった。
紙飛行機は予想以上にしぶとくて、丘の下にある住宅街まで飛行を続けた。おかげで、坂道を下りた頃には、僕はもうヘトヘトだった。
それをチャンスと睨んだ魔導士が、僕を追い抜いて、紙飛行機に向かって高く跳んだ。そして伸ばした右手が、しっかりと獲物を捕らえていたって話だ。
「フフン、私の勝ちだ」魔導士が鼻息を立てた。
「運が良かっただけでしょう」僕はそっぽを向いた。
魔導士は、持っていた紙飛行機を僕に差し出して、目を輝かせる。
「それなら、もう一回戦したっていい」
「やめておきます」紙飛行機をポケットにしまう。「マロンを捜さないと」
僕が歩き出すと、魔導士が右に並ぶ。それとなく左手を伸ばしてくるので、素直に手を繋いだ。姉弟みたいだなと思う。
道行くファミリアがこちらに視線を向ける。僕の鼻が黒くないからだろうか。僕もファミリアたちを見つめ返してみる。だけど視線が合わない。となると、ファミリアの興味は魔導士にあるってことだろう。
「あのう」赤色のローブのファミリアが近寄る。「魔導士さんですよね」
「いかにも。私が魔導士さんです」魔導士が胸に拳を当てた。
「いつもありがとうございます」
それを皮切りにして、他のファミリアも「魔導士さん」と呼びかける。当の魔導士は、照れくさいのか、若干はにかんだまま顔を伏せた。
「参っちゃうなあ」魔導士が呟く。「もっと普通に接してほしいのに」
力のある者でも、力のある者なりに葛藤しているらしい。純太もそうなんだろうか。あいつはクラスの中心だけど、悩みなんかあるんだろうか。そういったことを考えてみる。
住宅街を抜けて、市街地に入った。魔導士に呼びかけるファミリアは、次第に数を増していく。これでは散歩するにも気疲れしてしまうだろう。魔導士の家が丘の上にある理由が、なんとなく分かったような気もする。
僕たちは、住宅街や市街地で聞き込みをした。きつね色で四足歩行の動物はいないかって。だけど目撃情報は一つもなかった。もう数時間は歩きっぱなしだった。
「凛空、まだ足は痛くないかい」魔導士が尋ねる。
僕は左足をさする。スパーダで殴られたときの痛みは、もうとっくにない。「痛みは引いています」と答えると、魔導士は首を横に振った。
「違う違う。歩き疲れてないか、ってことだよ」
言われてみると、確かに疲れたかもしれない。そこで、僕たちは休憩することにした。近くのの公園に入って、空いたベンチに腰掛ける。ふう、と全身の力を抜く。
アムネルの公園は、ベンチと時計が置いてあるだけだった。校庭の半分くらいの大きさはある。それなのに遊具は一切見当たらない。
この公園の規模が小さいのかと思ったけど、魔導士に訊いたところ、遊具のない公園が一般的らしい。というのも、ファミリアはオモチャを自分で持ってくるんだとか。人気があるのは、音が鳴るボールだという。
「口に咥えるオモチャが主流だからね」魔導士が足をぶらぶらさせる。「誰かの唾液が付いたオモチャで遊ぶのに、抵抗があるファミリアも少なくないんだよ」
どの口が言うか。パンナコッタを持ってきたとき、口でスプーンを運んだことを忘れたのか。
喉元まで出かかった言葉を、唾と共に飲み込む。大人にはなりたくないけど、大人の対応をしないといけない。
公園ということもあって、様々な場所から声が聞こえる。その多くは高い声だ。子供のファミリアが沢山いるんだろう。見渡す限り、遊びは鬼ごっこが主流だ。あとはボール遊びが少々。
「私たちも遊ぼう」魔導士がうずうずしている。「紙飛行機があるだろう。私は走れる。君はどうだい」
どうやら、ファミリアは僕よりも体力のある種族らしい。見た目はほとんど変わらないのに、どこで差が生じたんだろうか。さすがは犬の子孫だと思う。
僕が疲れていることを魔導士に伝えると、「では紙飛行機を投げてくれ」とのこと。言われた通りにすると、魔導士は駆け出していった。元気なファミリアだと思う。
魔導士は、すぐに紙飛行機を掴まえると、また走って戻ってきた。「もう一回だ」
素直に投げる。魔導士は再び掴んで、戻ってくる。もう一回とねだってくる。そこで、僕はベンチから立ち上がった。遠くまで飛ばすためだ。僕の目論見は当たったようで、紙飛行機は風に乗り、さっきよりも遠くまで宙を舞っていた。
「任せて」魔導士は健気に駆け出した。
僕は再びベンチに座る。きっと、純太もマロンに同じことをしていたんだろう。紙飛行機を投げて、取りに行かせる遊び。やってみると楽しいものだ。僕も犬を飼っていたら、毎日こうやって遊んでいた気がする。
遠くの方で、魔導士が僕に手を振った。紙飛行機を掴まえたようだ。僕は称賛するために拍手をする。なんだか曲芸の練習でもしているみたいだった。
突然、泣き声が聞こえた。そちらに顔を向けると、子供のファミリアが二匹。どうやらオモチャのボールをめぐって揉めているようだ。よこせよこせ、と互いに譲らない。
実に子供らしい。僕も純太とオモチャを奪い合ったことがある。いつも僕が譲っていたものだ。殴り合いになったら絶対に勝てないからだ。
あの頃からずっと、僕は大人に近いんだろうし、純太は子供に近いんだろう。
そういった昔のことを思い返していると、二匹の子供の元に、「どうしたんだい」と魔導士が駆け寄っていた。仲裁する気だろうか。
僕が様子を窺っていると、魔導士が指を鳴らした。その瞬間、オモチャのボールが小刻みに震え出す。振幅は次第に増して、残像が現れ始める。やがて揺れが収まったかと思うと、ボールは二個に増殖していた。
二匹の子供は「うわあっ」と小躍りして、お礼も言わずに、ボールを持って走り去ってしまう。魔導士は満足そうに微笑み、そして僕の元に帰ってきた。
「遅くなったね。ごめんよ」魔導士が紙飛行機を差し出した。
僕はそれを受け取りつつ、首を横に振る。「ボールを増やすって、凄いじゃないですか」
「マテリカのおかげだよ。私が凄いわけじゃないさ」
魔導士が、僕の隣に腰掛けた。ベンチに手をついて、おもむろに空を仰いだ。
マテリカというものが、僕の中で段々と輪郭を帯びてきた。路地裏のルプス曰く、それは私利私欲のためには使えない。そして、ルプスにとっては都合が悪い。
その一方で、僕のためにちゃぶ台を用意したり、子供のためにボールを用意したり、誰かの利益に繋がるなら様々な用途があるらしい。僕の隣に座る魔導士は、このマテリカを利用して、ファミリアの様々な悩みを解決してきたんだろう。
「便利な力ですね、マテリカって」
そう僕が呟くと、魔導士は「そうでもないよ」と口にした。
「自分のためには使えないし、誰かの怪我を治すこともできない。それに、使い続ければ、いつか私の中から消える」
「消えるって、回復しないんですか。ほら、RPGのMPみたいに」
「自力では回復できないよ」魔導士は苦笑する。「MPがなんだか分からないけど、多分それとは使い勝手が違うんじゃないかな」
違和感を拭えずにいた。マテリカは、使えば二度と回復しないらしい。でも魔導士は、ちゃぶ台を作ったり、ボールを増やしたりした。言っちゃ悪いけど、くだらないことばかりに使っている。自分で努力すればなんとかなることにも、マテリカを使っている。
宝くじを当てた人の話を思い出した。今までは節約していたのに、いざお金が手に入ると、無駄なことに浪費してしまう。その結果、もっと貧乏になってしまうんだ。
魔導士も、その人と同じなんじゃないか。つまり、大量にマテリカを持っているから、些細なことにも力を使ってしまうってこと。
「魔導士さん」僕は、恐る恐る問いかける。「マテリカって、あと何回使えるんですか?」
「一回くらいかな」
一回。思わず復唱する。もう手遅れじゃないか。しかも、魔導士は気にしちゃいない。マテリカなんてなくてもいい、とでも言わんばかりの態度だ。
「もっと大事に使うべきです」
「大事に使っているよ。それに、みんなが幸せになっているじゃないか」
そうじゃない。もっと大きな問題を解決するために使うべきなんだ。ルプスを退治するとか、アムネルの法律を改正するとか。そう僕が力説したって、魔導士は変わらない。
「マテリカは、誰かを幸せにするための力なんだ。誰かが不幸になっちゃいけない。それがルプスだとしてもね」
「でも……」僕は顔を伏せる。「ちょっとしたことに使うのは、もったいないです」
「マテリカを温存して、ぽっくり死んじゃう方が、ずっともったいないさ」
魔導士がベンチから立ち上がる。僕もそれに続いて、どちらからともなく歩き出した。公園を出て、再び市街地に戻る。再び魔導士を称えるような声が聞こえてくる。この様子だと、魔導士は沢山のファミリアを助けてきたんだろう。どんな些細なことだったとしても。
魔導士が、僕の右手を掴んだ。手を繋ぎたかったんだろう。そこに恋愛感情がないってのは、もうとっくに分かっていた。
ぽつぽつと、地面が濡れる。雨が降ってきたみたいだ。アムネルでも雨は降るらしい。
雨宿りをするために、僕たちは雑貨店の屋根の下に逃げ込んだ。さっき僕に注意されたからか、魔導士がマテリカで傘を作ることはなかった。
雨はそこまで強くないものの、しばらく止みそうにない。僕は憂鬱になる。辺りを見ていると、あえて雨宿りをせずに、雨に打たれているファミリアが結構いた。魔導士曰く、若いファミリアにありがちなんだとのこと。僕と純太も、小さな頃は水溜まりで遊んでいたものだ。泥だらけになるからって、お母さんは良い顔をしなかったけど。
「ねえ、凛空」魔導士が空を見上げる。「雨は循環するって、知っているかい」
もちろんだ。忘れるはずがない。雨の正体を知った日に、入道雲を食べるという僕の夢が潰えたんだから。
雨が降ると、その水分は川や地下を流れて、海に流れ着く。海の水が蒸発すると、水分は上空に昇り、やがて雲に姿を変える。雲は雨となって、また地上に降る。
「マテリカも、雨と同じように循環するんだよ」
「マテリカが循環、ですか」あまり想像がつかない。
「私のマテリカだって、元々は誰かから貰ったマテリカなんだ。それを、今度は私が分け与える。マテリカを受け取った誰かは、また別のファミリアに分け与える。巡り巡って、いつか私の元に帰ってくるんだよ」
「ええっと、ちょっと待ってください」理解に時間がかかる。
魔導士の言わんとしていることを、できるだけ単純に理解したい。それこそが循環という二文字なんだろうけど、それだと説明が少なすぎる気もするんだ。
少し考えて、僕は思いついた。これなら単純に理解できる。
「つまり」僕と魔導士が向かい合う。「マテリカを使われた者が、今度はマテリカを保有することになる、ということですね」
「言い得て妙だ。さすが凛空だよ」
なるほど。マテリカを消耗品と捉えるとややこしくなる。プレゼントするって考えると分かりやすいんだ。誰かから受け取ったプレゼントを、他の誰かにも分け与える。
そうなると、マテリカはどこから発生したんだろう。マテリカが受け渡されるものだとしても、まずは生み出されなきゃいけない。何がどうなって、マテリカは生まれたんだろう。
「マテリカって、一体なんでしょう」魔導士に問いかける。
魔導士は「そうだなあ」と、顎に手を当てる。そのまま喋らない。考えてくれているんだろう。マテリカがどういう存在なのかってことを。
雨が少し弱まった頃に、魔導士は口を開いた。
「単純に言い表すなら、魔法とか、奇跡とか、あるいは超能力とか。でも、本質的には全然違う。自分のためには使えないし、眠っても回復しない。その代わりに、誰かが分け与えてくれる。分け与えてもらったら、また誰かに分け与える。それを繰り返して、みんなで幸せになる。マテリカは、誰かを幸せにするための力なんだろうな」
言い終えてから、魔導士はぺこりと頭を下げた。
「ごめんね。上手く説明できなくて。私にもよく分からないんだ」
それなら、魔導士よりもマテリカに詳しいファミリアに訊こう。「アムネルに、マテリカの専門家はいらっしゃいますか?」
「恥ずかしいけど、マテリカについて一番詳しいのは私なんだ」魔導士が微笑む。「魔導士の称号は伊達じゃないからね」
僕もつられて微笑んだ。魔導士と一緒にいると楽しい。心が落ち着く。守られているという安心感。もう少しだけ隣にいても大丈夫だろうか。
「それにしても、マテリカ自体のことか」
魔導士は、とんがり帽子を上にあげた。
「良かったら、凛空も一緒に考えてくれるかい」
僕は頷いた。雨はいつしか止んでいた。