強烈な生ゴミのような臭いがする。されど、鼻を摘まむことはできない。臭い者を目の前にして臭いと叫べるほど、僕は意地悪な人間じゃないんだ。
目の前に、黒色の木刀を持ったファミリアが二匹。僕の首を掴んでいるやつを含めたら、合計三匹だ。明確な敵意を向けられているらしい。市街地で見たファミリアよりも、上半身が安定していないように見える。
絶体絶命。しかし、僕は平静を保とうとしている。「みなさんは、ただのファミリアではないのですね」
「いや、おれたちはファミリアだ」一匹が言った。「ルプスという蔑称もあるんだけどな。ファミリアと呼ばれたのは、久しぶりだ」
「ではルプスと呼びましょう」強がってみる。声が震える。「初対面で首を掴むようなやつなんか、軽蔑して当然ですから」
ルプスたちの顔が強張る。挑発が通じたらしい。好都合だ。冷静さを失えば、隙が生まれるに違いない。それを看破すれば、自ずと逃げ道が見つかる。
唯一の懸念は、僕の虚勢がどれだけ保つかだ。
「軽蔑して当然、か。おれたちだって、サピエンスを軽蔑して当然なんだ」
「ただの八つ当たりでしょう」鼻で笑う。「それか、子供じみた選民思想だ」
塾で習った言葉を使ってみる。強そうな言葉を並べれば、相手も怯むと思ったんだ。
「言葉を選んだ方がいい」後ろのルプスが、僕の首に爪を立てる。「寿命が縮むぞ」
どうやら逆効果だったようだ。首が締まり、さっきよりも息苦しい。僕の首を掴む手が、次第に力強くなる。せめてもの抵抗として、その手に爪を突き立てた。効果は乏しかった。
他力本願でしかないけど、きっと純太が助けてくれると思っていた。純太は剣道をやっている。武装したルプス二匹がいたって、きっと退治してくれる。「遅いぞ」と手を差し伸べてくれる。僕はその手を取って、「大の方もしたくなっちゃって」と軽口を叩く。
それが理想論だってことは、もうとっくに分かっている。
自分のことは自分で解決しなくちゃいけない。これは僕が蒔いた種なんだから。
ルプスの注意を引くために、一度高笑いをした。
首が締まっているから、大声は出ない。助けを呼ぶことは叶わない。それでも、様子がおかしいとルプスに勘付かせるには、充分すぎる行動だった。
「なぜ笑おうとする」首に爪が食い込む。「武器を隠し持ってるのか」
二匹のルプスが木刀を腰に差す。僕の体を触り、不思議なところがないか確かめる。
隙だ。僕は右肘を曲げて、思い切り引いてやった。
「うっ」と後ろのルプスが唸った。脇腹に当たったようだ。
僕は姿勢を低くして、前にいる二匹のルプスをすり抜けた。呆気に取られるルプスの表情が、よく想像できる。
足に力を入れる。地面を蹴る。僕は走り出した。
石畳は、足の力を満足に伝えてくれる。姿勢を正して、駆ける。
後ろから足音。振り返る。追っ手だ。二匹だ。でも路地裏は狭い。並んで走っているから、互いが互いの邪魔になっている。馬鹿め、と思った。路地裏を抜けてしまえば、あとは純太の元に向かえばいい。そして一緒に逃げてやるんだ。
狭い路地裏を走る。石畳を踏み鳴らす。不気味なほど誰もいない。きっと治安の悪い場所なんだろう。二度と立ち入ってやるもんか、と誓う。
やがて見覚えのある場所に来た。ここだ、路地裏の入口。僕が入ってきた場所。ちらりと後ろを向く。追っ手と距離がある。なんとか逃げられそうだ。出口に向けて、最高出力。足に力を込める。前傾姿勢になる。
そのとき、前方を塞がれた。ルプスだ。待ち伏せしていたんだろう。前も後ろも逃げ道がない。
右を向く。壁だ。
左を向く。まだ道がある。ちょっと暗いけど、怯えちゃいられない。
くるりと向きを変えて、左に逸れる。走る。後ろからの足音が止まない。さっきよりも、生ごみの臭いが増した。鼻を摘まむ。口で息を吸う。息苦しい。口呼吸なのに。
右と左の分かれ道。路地裏から出るには、右だ。右に向かう。しかし行く手を阻まれる。また待ち伏せだ。
仕方なく、踵を返す。元来た道には、追っ手の姿。分かれ道の右を進むしかない。なんだか、知らず知らずのうちに誘導されている気がする。
いや、きっと杞憂だ。走り続ければ、いつか逃げ切れるはずだろう。
虚勢、あるいは楽観視。それも束の間、行き止まり。
追っ手が来ている。近くにあったゴミ袋を散らす。石を投げつける。効果はない。木刀で防がれておしまいだった。
三匹のルプスに囲まれる。やがて、もう一匹のルプスが、脇腹をさすりながら歩いてきた。合計四匹。一匹増えている。まさか、僕が逃げることは想定済みで、逃げ道を封じるために人員を充てたんだろうか。もっとも、ルプスは人じゃないけど。
「お見事ですよ」再び、虚勢を張る。拍手をしてみる。「さすがルプスのみなさん」
一匹のルプスが近寄ってくる。そのまま木刀を抜く。まさか、と思った。そのまさかだった。ルプスを本気にさせたと分かったときには、もう遅かった。
ルプスは、僕に向かって木刀を振るったんだ。
左の太ももに激痛が走る。僕は呻きながら、その場に崩れ落ちた。足に力が入らない。
「もう逃げられないな」
何の恨みがあるんだ、と叫ぼうとした。痛みでそれどころじゃなかった。走っていないのに、口で息を吸った。冷たいものが顔を伝った。我慢していた恐怖が、ようやく溢れ出してきた。
「強がっていたのか、お前」木刀を振るったルプスが、ため息をついた。
「強いやつは逃げないだろ」隣のルプスが笑った。
「所詮はサピエンスだ」脇腹をさするルプスが、僕の腹を蹴飛ばした。
突如、髪を強引に掴まれた。ぐいと持ち上げられる。木刀を持ったルプスが、僕の顔を覗き込んできた。
「どうして、おれたちがお前を追い回すか分かるか」
考えようとしたけど、太ももの痛みが許してくれない。呼吸するだけの置物と化した僕を見て、ルプスたちは大笑いした。
「快楽だよ、快楽っ」ルプスは、僕の髪を荒々しく左右に揺する。「サピエンス、お前が最初に快楽を求めたんだぜ」
でたらめだ。僕はルプスに乱暴なんかしていない。他の生物にもだ。純太には強く当たることもあるけど、それだけだ。恨まれる覚えなんてない。
一匹のルプスが言う。「感情ってのは、巡り巡るんだよ。サピエンスの罪は、同じサピエンスが償うべきなんだ」
僕は思い返す。アムネルに来たとき、ファミリアたちはサピエンスに好意的だった。手を合わせて拝む者もいた。でもルプスはどうだ。サピエンスに露骨なまでの嫌悪感を抱き、暴力もいとわない。ルプスもファミリアの一種なら、どこで違いが生まれたというんだろう。
少なくとも、考えるのは今じゃない。今は呼吸すらままならないんだから。
純太のことが頭に浮かぶ。今頃、心配しているんじゃないだろうか。あいつのことだから、僕を探そうと路地裏に来るかもしれない。
助けてほしい。でも危険な目に遭わせたくない。ルプスは本当に危険なんだ。しかも四匹いる。純太でも勝てないかもしれない。仮に助けに来てくれたとしても、僕は「逃げろ」と叫ぶんじゃないだろうか。
暗闇は怖い。一人だともっと怖い。だけど「助けて」とワガママを叫べやしない。純太のことを考えてしまうあたり、僕は、もう自分勝手な子供でいられないんだろう。
一匹のルプスが、僕に木刀を向けた。もう動けない。もう逃げられない。痛みが意識を支配して、祈ることすらままならない。苦しくなって、震えが止まらなくなった。
「何をしている」
どこからか、女性の鋭い声。ルプスたちが周りを見渡す。「どこにいるっ」と、一匹が怒鳴った。僕も目を動かして、声の正体を探る。
「場所を教えてもいい」また、女性の声が聞こえる。「その前に、凛空を自由にするんだ」
「こいつか」僕の髪が、ぱっと離される。顎を地面にぶつける。「さあ、姿を見せろ」
すると、一匹のルプスが建物の屋上を指さした。目を向けると、確かに誰かがいる。黒色のローブを着ているように見える。何かを被っているようだけど、その何かが遠くてよく見えない。
ふと、一匹のルプスが、目を大きく見開いた。
「あいつ、魔導士だ」
魔導士と呼ばれたそのファミリアは、建物の屋上から、思い切り跳んでみせた。重力に囚われて、彼女は一直線に地面へと落下する。
僕は目を瞑る。普通なら骨折は免れないからだ。
視界は暗闇。誰かの足音だけが聞こえる。
コツ、コツ。
僕の耳元まで迫って、急に止んだ。
「私を見て」
魔導士の声。まさか、生きているのか。無事なんだろうか。怪我はないだろうか。
不安に思いつつも、「見て」という言葉の魔力には逆らえない。恐る恐る目を開ける。
「やっと見つけたよ、凛空」
まず視界に映ったのは、白くて長い髪だった。衣服と真逆の色だから、より際立って見える。魔導士は背筋をピンと伸ばして、柔らかい目で僕を見つめる。頭に被っているのは、黒色のとんがり帽子。
思い出した。この魔導士は、丘の上にあるログハウスに住んでいた。
僕が最初に出会ったファミリアだった。
「ルプス四匹で袋叩きなんて、ファミリアの恥さらしだね」
魔導士は、ルプスに向かって吐き捨てた。
「恥がどうした。偉大な魔導士様に、ルプスの境遇が分かるものか」
「分かる、って言ったって、信じちゃくれないだろうさ」
「ああ、信じてやらないよ」一匹のルプスが木刀を構える。
それを皮切りに、他の三匹も木刀を抜き、魔導士に向ける。いくら魔導士と呼ばれても、四匹を相手にするのは無茶だ。せめて僕の足が動いてくれたら、足手まといにはならないのに。
だけど魔導士は、平然とした態度を崩さない。一匹ずつに視線を投げかけて、冷静沈着に振る舞っている。
「君たちがその気なら、私はマテリカを使っても構わない」
木刀を持つルプスたちの手が、わずかに震えた。
「嘘に決まってる」一匹のルプスが、口角を上げる。「マテリカは、私利私欲のためには使えないはずだろ」
「使える。凛空を守るためなら」凛とした佇まい。鋭い目つきと、伸びきった背筋。
魔導士が僕を守ってくれるのは嬉しいけど、同時に疑問も生まれていた。どうして魔導士は僕の名前を知っているんだろう。不思議な力を使ったのかもしれないけど、そもそも、見ず知らずの僕の名前を、どうして知る気になったんだろう。
マテリカもそうだ。四匹と同時に戦えるほどの武器なんて、僕は知らない。私利私欲のためには使えないらしい。それなら、魔導士だけが所持を許される、聖剣のような代物なのかもしれない。
また太ももが痛む。これじゃ頭が回らない。痛覚なんて、都合の悪いシステムでしかない。
「マテリカを持ち出すのは、本当に卑怯だな」
ルプスたちは、木刀を腰に差して、次々と引き返していく。思わず息が漏れた。魔導士がこちらに寄ってきたとき、やっと助かったんだと知った。
「恨まないであげてほしい。ルプスだって、望んでルプスになったわけじゃないんだ」
魔導士に手を差し伸べられた。素直に手を取る。温かい手だ。ぎゅっと握ってやった。
立ち上がるとき、足に力を入れた。途端に、ズキズキとした痛みが走る。跪いて、顔をしかめてしまう。
「ああ、スパーダで殴られたのか」魔導士が気にかけてくれた。「あれは『痛みを感じさせる』ための武器だ。安心して、時間が経てばじきに治る」
あの黒色の木刀は、スパーダと呼ばれるものらしい。勉強になった、と思うような余裕もなかった。足の痛みから気を紛らわせることに必死だったんだ。
すると、魔導士が背中を向けてしゃがむ。「足が痛むなら、背負ってあげようか」
申し訳ないと思ったけど、このまま歩けずに立ち往生するのも危険だ。魔導士のご厚意に甘えることにした。僕は魔導士の首に手を回し、お腹を背中にくっつける。
「さあ、もう大丈夫」
魔導士が立ち上がった。白い髪がふしゃりと揺れて、僕の鼻をくすぐった。
「ずっと、私が守ってあげる」
ゆりかごに体を預けている心地。自分の知らない場所で、世界が勝手に回っている感覚。
全身が休息を求めていた。緊張が解けたんだと思う。僕が身を委ねている魔導士は、悪いファミリアじゃないだろう。眠ったっていいはずだ。少しくらい甘えたって、きっと許してくれるはずだ。
目を閉じる。意識が薄れゆく。
光のないまどろみの中で、ふと頭をよぎった景色は、雑木林の小さな池だった。