第32話信長、池田屋に踏み込む

 京の木屋町通きやまちどおりには料亭や宿屋がずらりと並んでおり、旅の客だけではなく武士なども多く利用されていた。

 また勤皇志士を匿う者や支援する者が主人を務める店も多い。中でも『四国屋しこくや』や『小川亭おがわてい』は新選組などの監視対象となっていた。


 近藤は隊を二つに分けて、京を流れる鴨川かもがわの西側と東側でそれぞれ探索することとした。

 無論、先ほど述べた四国屋と小川亭のある東側のほうに人数を割く。

 近藤は「私が西側を担当しよう」と言う。


「十人もいれば十分だ」

「ああ、そうだな。その代わり精鋭で固めよう」


 土方の言葉通り、近藤を始めとして沖田、永倉、藤堂、谷三十郎に武田観柳斎、安藤早太郎あんどうはやたろう浅野藤太郎あさのふじたろうら副長助勤らを隊に組み込んだ。それに奥沢栄助おくざわえいすけ新田革左衛門にったかくざえもん伍長ごちょうも入れた。

 さらに「儂も入れろ」と信長が手を挙げた。


「おい、おっさん。遊びじゃねえんだぞ?」

「ふひひひ。分かっておるわい土方。まあ任せておけ」


 珍しく短銃だけではなく刀も差している信長。

 やる気に満ち溢れているようだ。


「それじゃ、俺の隊もさらに二つに分けられるようにしておく。いざというときにな」

「それを指揮するのは源さんだ。くれぐれも死ぬなよ」


 近藤が井上の肩を叩く。

 井上は「お任せください」と臆することなく答えた。

 彼もまた血が騒いでいるようだった。


「土方さんの部隊が来るまで、死ぬ気で逃がしません」

「その意気だ――皆、聞いてくれ」


 近藤は改まって皆に告げる。

 辺りが水を打ったように静まり返る。


「京の混乱に乗じて、帝を奪い去ろうとする不逞浪士――それらを捕らえて防ぐ。それこそが尊皇である」


 赤字の黒のダンダラ模様の羽織を着ている三十名ほどの男たち。

 彼らはこの状況に――熱く燃え滾っていた。

 夏の深夜だからではない。

 己たちが歴史の岐路きろに立っていることが分かっているからだ。


「今宵、新選組は歴史に名を残す――全員、各々覚悟して探索に当たれ!」


 近藤の号令に全員が口を揃えた。


「応!」


 信長は、こいつは凄いわい、流石近藤だなと笑みをこぼした。

 そして――新選組は出動した。



◆◇◆◇



 その頃、『池田屋いけだや』では会合が行なわれていた。

 京の市中に火を放ち、帝を奪う計画――のためではない。

 そもそも、そんな計画など最初から無かったのだ。


 彼らが集まった目的はただ一つ。

 桝屋喜右衛門――本名、古高俊太郎の奪還であった。


 古高は勤皇志士たちや公家衆などの間を取り持つ重要な男だった。

 それに彼は書簡には書かれていないやり取りを覚えていて、もしその情報が吐かれたら困る者が大勢いた。


 だから今、勤皇志士が二十数名集まっているのはそのためだった。

 しかし――


「駄目だ。襲撃などできぬ」


 襲撃に賛同していた吉田稔麿よしだとしまろ北添佶磨きたぞえきつま大高又次郎おおたかまたじろう松田重助まつだじゅうすけに反対したのは、宮部鼎蔵だった。思慮深く穏やかなこの男、古高を見捨てることに苦渋の思いをしているらしい。


「新選組は屯所をまるで砦のようにしているらしい。なんでも、副長代理の男が築いたみたいだ」

「宮部さん。相手はたった四十人で、夜遅く行けば奇襲になるんだぞ?」


 吉田稔麿が強く主張するけれど「計画のほうが重要だ」と宮部鼎蔵は首を振った。


「もし怪我でも負ってみろ。万全な状態で無くなれば失敗する可能性が高くなる」

「それは一理あるが……」

「それに新選組は夜だからこそ、守りを固めているだろう――」


 ここでもし、宮部鼎蔵も襲撃に賛成していれば――あっさりと古高を奪還できただろう。

 何故ならば今、近藤たちは宿屋や料亭を探索していて、屯所にはいない。

 彼ら勤皇志士たちが襲撃したら、山南たち数名の隊士も命を落とし、捕虜も奪われ、本拠地が陥落するという汚名と被害を被ったはずだ。おそらく新選組は歴史に名を残せなかっただろう。


 これらの決断の間違いや見落としは彼ら勤皇志士たちの責任ではあるが、実のところ、慎重に屯所を出て、集合場所にて準備をするという行動を取った近藤や土方の作戦が上回っただけだ。繰り返すようだが、大々的に出動してしまったら――おそらく結果は違っていた。


 宮部鼎蔵の慎重さと発言力のせいで機をいっしてしまったことに気づかない彼らは、計画について話し合う。

 その計画とは、幕府寄りの発言や行動の目立つ、中川宮なかがわみやという皇族の暗殺である。


「中川宮さえいなければ朝廷での工作が上手くいく」

「ま、古高と比べたらそちらのほうを優先するべきだな――」


 勤皇志士や尊攘派にしてみれば帝の御意思を攘夷に傾けるのが最優先だ。

 それを邪魔する者はたとえ皇族であっても――殺す。


「なあ。あんたはどう思っているんだ――」


 吉田稔麿が話を振った。

 全員がその人物に注目する。

 それほどの男――


「――本物の桂小五郎さんよ」



◆◇◆◇



 出動から一刻ほど。

 近藤たちは一軒一軒しらみつぶしに探し回っているが、なかなか志士たちを発見できずにいた。

 信長は「ここも外れだったのう」と大きく欠伸をした。


「ノブさん。油断しないでくださいよ」

「沖田。戦うときに緊張すればいいのだ」

「それもどうかなあ」


 二人が軽口を叩いていると「真面目にやりましょうよ」と藤堂が苦言を呈した。


「私なんていつ襲われるか心配なんですから」

「なんだよう。魁先生の名が泣くぞ?」


 沖田がからかうように言う。

 魁先生とは藤堂のあだ名で、必ず『死番しばん』という真っ先に押し入る役を行なう勇気と度胸を買われて命名されたのだった。


「やめてくださいよ! 私はただ、死番を平隊士にやらせるのは忍びないと……」

「優しいんだから……そういえば永倉さんと原田さんも死番やりますね」


 沖田が永倉に話を振ると「実戦を体験しないと腕が鈍るからな」と答えた。


「平助みたいにお優しい意味ではない」

「な、永倉さんまで……」

「……皆、次のところだが」


 近藤の言葉に全員が耳を傾ける。

 彼は対岸の先を指さした。

 そこには勤皇志士が潜んでいるという噂の『四国屋』があった。


「トシたちの担当だが、私たちが調べよう。もし何もなければ小休止してトシたちの隊と合流し、今後の次善策を考える」

「休憩ですか。良かった……さっきから暑くて仕方なかったんですよ」


 沖田は真っ赤な顔をしていた。

 信長は「水、ちゃんと飲めよ」と水筒を渡した。

 十一人が橋を渡ろうとしたとき、信長からもらった水筒を落としてしまった沖田。


「何をしとるか。置いていくぞ」

「待ってくださいよ、ノブさん――あれ?」


 顔を上げた先に小さな宿屋があった。

 沖田が「近藤さん、ここも宿屋ですよ」と報告した。


「なに? ……見落としていたな。宿の名は?」

「えっと……『池田屋』ですね」


 近藤は「聞き覚えあるか?」と記憶力のいい武田観柳斎に訊ねる。


「いえ、覚えはありません。御用改めもしたことありません」

「……よし。ここも一応見ておこう」


 近藤は何気なしに宿屋に向かって――足を止めた。


「どうした近藤?」


 信長の問いに「二階から話し声がします」と小声で近藤は答えた。

 全員が近づくと――異様なことに気づく。

 まず話している者が二人や三人ではない。十人かそれ以上の人数。

 夜分なのに戸に鍵が掛かっていない――すぐ逃げられるようにとも思える。


「安藤。奥沢と新田を連れて裏手に回れ」

「承知しました」


 三人が向かって少し間を開けて、今度は武田と浅野に「お前たちは表門を固めろ」と近藤は命じた。

 そして目明しと呼ばれる伝令役に「土方たちを呼んできてくれ」と言い、静かに残りの者に告げた。


「全員で中に入るぞ……」


 全員が緊張する中、信長だけが「楽しくなってきたわい」とにやけ出す。

 それに気づいたのは沖田だけだった。


「御免! 宿の主人はおるか!」


 近藤が二階に聞こえない程度の大声で主人を呼ぶ。

 すると奥から出てきた池田屋の主人――池田屋惣兵衛いけだやそうべえの顔色がさっと変わった!


「ダンダラ羽織――皆さま、しん――」

「――ここだったか!」


 主人が声を張り上げる前に、沖田が素早く近づいて――鳩尾を殴る!

 どたんと気絶する主人。次々と新選組が中へ入る。


「こやつは縛り上げておく。近藤、指示を下せ」


 信長が手早く主人を縄で縛る。

 近藤は「永倉と平助は庭に行け。不逞浪士が逃げ込む前に」と言う。


「谷と信長さんは階段から逃げ出さないように固めてくれ」

「ふひひひ。任せろ……谷、耳を貸せ」


 信長と谷が話す中、近藤は「沖田、覚悟を決めろ」と凄む。


「私とお前が死番となる――」

「――承知しました、先生」


 そのとき、二階の扉が開く音がした。

 どうやら主人の声が届いていたらしい。

 出てきた北添佶磨は刀を携えていた――


「なっ――新選組!?」


 北添は抜刀しようとする――


「うおおおおおお!」


 近藤が北添のいる階段の上まで一気に駆け上がる!

 その速さ――素早さは尋常ではない!


「――くそ!」


 北添がやっと抜いた時点で、近藤の間合いに入っていた。

 そのまま無言で――居合切りする近藤!

 ざばあああと血飛沫が宿屋の壁や床に広がっていく。


 腰から脇腹まで一刀両断された北添は悲鳴すら上げられず、上半身は階段を転がり落ち、下半身はしばらく立っていたが、やがて崩れ落ちた。


 俄かに物音がし出した二階。

 近藤は沖田と共に騒がしくなった一室に踏み込む。


「な、なんだ貴様ら!?」


 吉田稔麿が怒鳴る。

 宮部鼎蔵が刀を構えた。


「……御用改めである。大人しく捕まれ」


 酷く冷えた近藤の声。

 その刀から滴る血を見て、北添が斬られたことを悟った吉田稔麿は――


「このぉ……相手は二人だ! 斬れ!」


 その場にいる志士たちに命じた。

 刀を抜く勤皇志士たち。

 それを見た近藤は――


「山南さんに渡すはずだったこの刀。とてもよく斬れる……」


 構えをしつつ大声で怒鳴った。


「今宵の虎徹は血に飢えている! 全隊士! 全員――斬れ!」