第32話 思わぬかたちでサンタクロースは現れる 1


「こりゃあ、今日はもう売上は伸びませんな」

 店長が外を眺めて嘆き、高瀬が文字通り肩を落とす。


 12月も中旬に入り、12月24日タイムリミットまで残り二週間を切った日の夕方、俺はタカセヤ西町店で働いていた。


 昼間から降り始めた雪は、またたく間に街を白の世界へと変えてしまった。


 猛烈な吹雪のせいで、店内からは約40メートル先の道路の状況さえ確認することができない。市内の全小学校では集団下校が行われたほどで、街全体がちょっとした混乱の中にあった。


「私も仕事じゃなければ家に缶詰ですよ」と店長が言うように、こんな荒天の日にわざわざ買い物に来てくれる上客はそう多いわけもなく、俺と高瀬と店長はそれぞれに焦れったさを抱えながら職務にあたっていた。


「相手が自然となると、いくらなんでもす術がないよね」

 高瀬が軽く両の手を上げる。お手上げの意だ。


「このままいけば、私はクビでしょうね」と店長は薄い頭を掻きながら言った。「私にも高校三年生の娘が一人おりまして。やりたいことが見つからず、ずっと遊びほうけていたのですが、ようやく最近になって『絵画の勉強がしたい』と言い出しまして。それならばと、春からフランスに留学させるつもりだったんです。しかしクビとなると……。こんな地方都市で私の歳じゃ再就職は夢みたいな話ですし、いやはや、本当に参りました」


 絵画の勉強をするためにフランスに行くのか、フランスに行きたいがために絵画を学びたいと言い出したのかはさておき、売上20%増が達成できないことで未来を閉ざされてしまうのは、高瀬と俺だけではなかった。社長である高瀬父は明言している。その時は店長を解雇すると。


「見てください」

 店長は例の恋の神様が宿るとされる巨大クリスマスツリーを指さした。

「あのツリーを店内に置くことを提案したのが、実は娘でして。まだ小学生でした。ここへ店長として赴任することに決まった私が『何か面白い改革案を出せ』と社長に命じられて困っていた時に、娘が言ったんです。『どうせなら大きいことをやろうよ、お父さん』と」


 高瀬が反応した。

「それで、この街で一番大きなクリスマスツリーが誕生したんですね」


 店長はうなずいた。

「ツリー見たさに来店される方は増えたものの、それほど売上げに結びついていないのですから、なんとも皮肉なもんです。電飾代を考えたら、採算がとれていませんな」


 見れば、今も数組のカップルがにこやかにツリーを囲んでいる。外は猛吹雪だというのに、恋の行く末を祈っている場合なのだろうか?


 いずれにせよ、いつまでも突っ立って愚痴をこぼしていてもらちが明かない。


「店長さん、娘さんのためにも諦めちゃだめです」と俺は発破をかけた。「こんな日だからこそ出来ることもあるはずです。一緒にがんばりましょう」


 ♯ ♯ ♯


 がんばりましょうとは言ったものの、閑散とした店内が目に入れば、それだけでどうしたって気が沈む。


 俺は高瀬と共に、青果売り場で古くなったポップ広告の張り替え作業をしていた。


「時間、大丈夫?」と高瀬が聞いてくる。


「病院」も「晴香」も口に出さないのは、彼女なりの気遣いだろうか。たしかにいつもならば葉山病院行きのバスに乗る時間だった。


「それがさ」

 俺はスマホを取り出し、バスの運行情報を知らせるアプリを開いた。

「大雪で一時間以上の遅れらしい。柏木にも伝えてある。この天気じゃタクシーを呼ぶのも一苦労だし、今日はもう少しこっちにいるよ」


「うまくいかないね」というのが高瀬の感想だった。どこまでが本音なのかは、俺にはわからない。



 その5分後、高瀬は前髪をかき上げたままの状態で静止していた。えらく不快そうだ。


「あの子、さっきからずっと」と言う。何事かと視線を辿れば、売り場を縦横無尽に走り回る7、8歳くらいの少年の姿があった。


「他のお客さんの迷惑だよね」と高瀬は低い声を出した。彼女の言うように、吹雪の中であってもお客さんが全く入っていないわけではない。不規則な軌道と速度で店内を駆け回る少年は、買い物のさまたげに他ならなかった。


「ここは公園じゃないんだから。私、注意してくる。何かあったら大変」


 高瀬は足早に歩き始めたが、結論から言えば、その判断はやや遅かった。死角から飛び出してきた少年とぶつかった客が――足の不自由な中年女性が――後方に倒され尻餅しりもちをついてしまったのだ。


 放り出された買い物かごからは、野菜が散乱する。高瀬が慌てて走り出し、俺もそれに続いた。


「大丈夫ですか!?」高瀬は女性に視線の高さを合わせて手を差し伸べる。


「ごめんなさいねぇ」と女性はいくぶん恥ずかしそうに笑ってそれに応じた。少年を責めようとする様子はない。


 それを受けて付け上がったのは少年だ。「気をつけろよなクソババア」と汚い言葉を捨て台詞にして、一目散に走り去ってしまった。親の顔が見てみたい、と自分の親の顔なんか忘れかけている俺は思った。


 俺と高瀬は散らばった野菜を回収した。ひとつひとつを新しいものに取り替えてかごに入れていく。


 クソババアはさすがに言い過ぎだけれども、彼女はお世辞にも美しい身なりとは言えなかった。


 腰まである長い髪からは履きつぶされたタイヤみたいに艶が失われているし、飾り気のない黒の衣服で細身の体を包んでいるものだから、一見では近寄りがたい雰囲気がある。


 青白い顔には化粧っ気がない。きっとお洒落に無頓着なのだろう。


 唯一の遊び心なのか、首には蝶々をあしらったチョーカーが巻かれている。しかしながらそれも黒だから、やはり、映えない。


 俺はこの人を便宜的に、蝶々夫人と心で呼ぶことにした。つい先週、音楽の授業でプッチーニの同名オペラを鑑賞したのが大きく影響している。


 やけに浮き世離れした女性だから、夫人じゃないかもしれないけど。


「ありがとう」蝶々夫人は落ち着いた声で言って、高瀬の介助を頼りに立ち上がった。おそらく歳は30代後半から40代前半だ。


「お怪我はありませんか?」と高瀬はいたわった。「すみません。もう少し早くあの子を注意すべきでした」


「気になさらないで、お嬢さん。男の子はね、あのくらいでちょうどいいの。最近の子はめっきり大人しいから、なんだか懐かしい気分よ」


 俺は店側の人間として頭を下げ、彼女に買い物かごを手渡した。


「それはそうと可愛い店員さん。ついでにちょっと伺いたいのだけど」

「はい」高瀬は照れるでもない。


「今日はほうれん草は無いのかしら。いつもなら、こぼれ落ちるほど山積みされているのに」


「この大雪のせいで、入荷がまちまちなんです。ほうれん草は売り切れてしまって。代わりに小松菜はいかがですか?」


「コマツナ」黒ずくめの妖しい中年女性が言うと、なんだか魔物を召喚する呪文のようだ。


「ほうれん草に負けないほど、体に良いんですよ」

 高瀬は小松菜を実際に一束手に取り、プレゼンテーションを開始した。

「小松菜はカルシウムと鉄分が豊富に含まれているので、特に女性にお勧めです。茹でて良し、炒めて良しの、万能野菜なんです!」


 ポップ作成を担当することで、高瀬は知識という副産物を得ていた。今やすっかり野菜博士なのだ。


「あら、可愛いだけじゃなく、賢くもあるのねぇ」

 蝶々夫人は感心して、小松菜を受け取り、かごに入れた。

「ありがとう、才色兼備な店員さん」


 その後の高瀬の機嫌の良さといったら、俺がこうして放課後にスーパーで働いている理由がわからなくなるほどだった。


 軽快に鼻歌を歌うくらいならまだ可愛いものだが、キュウリを手に取り「ラジウム発見」と言い出した時は、さすがの俺も目を剥いた。


 女の子が才色兼備と形容されると、一時ではあっても、未来に対する不安が掻き消されるらしい。


 言葉の持つ力は絶大だ、と俺は学習する。