第31話 それでも愛すべき私の大切な人たち 1


「フランス、ロシア、ドイツ!」


「惜しい!」俺は丸めた教科書で自分の膝を叩いた。「それは三国干渉なんだよなぁ。一カ国、違うんだ」


「じゃあねぇ」柏木はベッドの上で考える。そのあどけない表情は、まるで、三時のケーキを選んでいるかのようだ。

「フランス、ドイツ、イタリア!」


「どうして遠くなっちゃうんだよ」

 第一次世界大戦前の三国協商を構成する国を出題していた。

「正解は、イギリス、フランス、ロシアで三国協商だ」



 柏木の入院生活が始まって、一週間が経過した。


 包帯の数は目に見えて少なくなったものの、依然として歩くことは不可能だし、過去4年間の記憶も回復していない。


 葉山病院の一室をこうして訪れては柏木の話し相手や家庭教師を務めるのが、すっかり俺の日課となっていた。


 もちろん高校を休むでも、アルバイトをサボるでもない。記憶を失った柏木と会う機会を捻出するために削っているのは――どうしてもそうなってしまうのだが――タカセヤ西町店に赴く時間だ。


 もし高瀬の父親の直行さんがそのことを知ったその時は、俺はいかなる罵声も覚悟しなくてはいけなかった。当然だ。


「こんなに素敵な女の子に巡り会えたのは、僕の人生における奇跡です」とまで声高に言っておきながら、その娘さんを差し置いて、他の女の子の元へ足繁く通っているのだから。


 しかし今ならば、どんな言葉を浴びせられても構わないと開き直れる。若輩者の俺なりに、とことん悩み抜いた結果出した答えなのだ。


 高瀬優里と柏木晴香、どちらを助けるか? 


 そうじゃない。


 高瀬優里と柏木晴香、どちらも助けるのだ。


「無謀だ」と誰かに笑われようとも、俺はどちらかの未来が閉ざされるのを黙って眺めてなんかいられない。


「ねぇ悠介くん」と柏木は言った。「今日はもう勉強おしまい。そろそろ『キミイキ』の最新話を読んでもいいでしょ?」


「まあ、今日はがんばった方か」

 俺は事前に売店で買っておいた漫画雑誌『週刊少年ステップ』の最新号を柏木に手渡した。ご褒美だ。彼女はそれを受け取ると、あっという間に目的の作品を見つけ出しては、瞳をきらめかせた。


「続きが気になっていたんだよね! ワクワク!」

 柏木が楽しみにしていたのは、『君と生きた12の季節』(通称・キミイキ)というとある高校を舞台に、一組の男女のほろ苦い青春模様を描いた恋愛漫画だった。


 ドラマ化や映画化を果たし作中で使われた楽曲がもれなくヒットするなど、社会現象を巻き起こしている作品なので、普段から漫画を読まない俺でもその名には聞き覚えがあった。


 作者の吉崎よしざきアゲハは、たしか高額納税者として有名な漫画家だ。


 ベッド背後の棚には、“キミイキ”の単行本がずらりと揃っている。入院中は暇だろうということで、気を利かせたいずみさんが柏木の自室から持ってきたのだ。


 記憶を失う前と後で、同じ物語に夢中になるのだから、人間の仕組みは奥深い。


「それ、そんなに面白いのか?」と俺は言った。


「キミイキはね、女の子の気持ちがすごーく上手に表現されているの」と彼女はページを繰りながら言った。「吉崎アゲハって、女の人らしくて」


「へぇ」


「主人公とヒロインは惹かれ合っているのに、二人とも鈍感だから、互いの想いになかなか気付けないの」


 そこで彼女はこちらを見た。

「この主人公、悠介君に似てるんだよね」


 誌面に目をやれば、いかにも人の心の機微きびに疎そうな男子高校生が、可愛い女の子を前にして赤面している。ヒロインなのだろう、気のせいか、高瀬にそっくりだ。


「似ているのはどうせ、マイナスな部分だろ?」そう質問すると、彼女は並びのきれいな白い歯を見せてきたので、俺はため息をついて、病室を後にした。


 尿意はないし、電話を掛ける相手もいないので、飲み物を買いに行く。


 ♯ ♯ ♯


 たいして飲みたくもないスポーツドリンクを手に病室へ戻ると、すっかり俺とも顔見知りになった看護師さんが柏木の血圧を測りに来ていた。ふくよかな中年女性だ。


 看護師というより、面倒見の良すぎる寮母という方がしっくり来る。決して悪い人ではないのだが、俺は個人的にこの人が苦手だった。なにぶん反りが合わないのだ。


「あら、やっぱりあなたも来ていたのね」

 看護師は俺の存在に気付いて、景気のいい声を出した。

「偉いわねぇ。皆勤賞だものねぇ。晴香ちゃんのお見舞い」


 部屋の入り口で突っ立っているわけにもいかず、「こんにちは」とぎこちなく挨拶をして、ベッドに近寄る。


「助かってます。一人はなにかと心細いですから」柏木は気恥ずかしそうだ。「でも、なんで毎日来てくれるんだろう? 悠介くんも忙しいはずなのに」


 それを聞くと看護師はしたり顔になって豪快に笑った。

「そんなの決まってるじゃないの。晴香ちゃんのことが好きだからよ。悠介くんにとってあなたは大事な女の子なのよ、美人さん」


 つい口に含んでいたドリンクを吹き出しそうになる。

「看護師さん、やめてくださいよ」これだから、この人は苦手だ。


 この時柏木に起きた反応は、いたって平均的な少女のそれだった。つまり、頬を赤く染め、視線のやり場に困っている。


「あらあら、私ったら」看護師はお茶目に舌を出す。「血圧を測ってる時にこんなこと言っちゃだめじゃないのねぇ。とんでもない数値になったら、どうしましょ」


 それでも計測は無事に終了したらしく、問題ないわね、と彼女は安堵の声を出した。


「怪我の治りも予想以上に早いし、手のかからない患者さんだこと。もう少ししたらお夕飯だからね。それじゃ後は、若いふたりでゆっくりと」


 新婚夫婦を迎えた仲居気取りの看護師が病室から去ると、柏木が口を開いた。


「あのね、悠介くん。ひとつ質問してもいいかな?」

「ああ、なんだ?」


「わたしたちって、もしかして、恋人同士だった?」


 俺は記憶を失った柏木に対して、俺たち二人の関係性を教えていなかった。なぜなら「おまえは俺のことを好きだったんだぞ」と今の柏木に語るのは、まるで、食べる気でいたウズラの卵からかえったヒナ鳥に「自分が親だ」と刷り込むような後ろめたさを感じてしまうからだ。


 俺がどう答えようか考えていると、ベッドから軽快な笑い声が聞こえた。柏木は言う。「わたしたちが恋人同士なわけないよね」


「は?」

「だって、悠介くんは、あの娘のことが好きでしょ。えっと、たしか、優里ちゃん」


「あれ? 俺、おまえが記憶を無くしてから、それを話したことあったっけ?」


 しまった、と思った時にはすでに遅かった。


「当たったみたい」彼女は悪戯っぽく微笑む。「やっぱりそうだったんだ。ごめん、試すつもりはなかったんだけど。悠介くん、わかりやすいよ。この病室に優里ちゃんが来た時、すぐわかった。あー、惚れてるなーって」


 俺は鏡を見て自分の頬を二度三度軽く叩いた。


「悠介くんさ、本当はわたしのところに来たくないんじゃないの?」

「どうしてそんな風に思うんだよ?」


「だって悠介くん、なーんか落ち着きが無いし、すごくそわそわしてるよ。……いつだって」

「不快にさせていたなら、謝る。すまん」


「いいのいいの」と柏木は少し慌て気味に言った。「優里ちゃんもたしか今、ピンチなんだよね?」


「ああ」具体的なことは話していないものの、それでも、高瀬の望む未来が閉ざされそうなんだ、とだけは柏木に伝えていた。彼女の未来のため、俺もできる限りの協力はしたいのだ、と。


 柏木は身を乗り出してきた。

「行ってあげなよ。優里ちゃんもきっと、待ってるよ」


 それを聞いてほっとしている自分がいた。そろそろタカセヤ西町店に向かわなくてはいけない時間だったのだ。

「それじゃ、バスが来るから行くよ。明日も来るからな」


 そこで配膳車がやってきて、柏木の前に夕飯が置かれた。質素で寒々しい、典型的な病院食だ。


 このタイミングで立ち去ることに少なからず罪悪感を覚えていると、「やっぱり」と柏木が絞り出すように言った。

「やっぱり、もう少し一緒にいてほしいな。一人でご飯食べてもつまらないんだよね。ちっとも美味しくないんだ」


「あのな、柏木。次のバスを逃すと、約束の時間を大きくオーバーしてしまうんだ」

 言うまでもなく念頭には、高瀬の顔がある。


 柏木はうんともすんとも言ってこなかった。そして箸を手にとった。


 俺は後ろ髪を引かれる思いで柏木へ背を向けた。時間の線引きだけは厳格にするつもりだった。


 高瀬のことを想い、自分を律して歩き出そうとしたその時、足元に何かが転がってくるのが目に入った。それは煮物のサトイモだった。すぐさま振り返る。


「よく、あるんだよね」

 柏木は苦笑いしていた。見れば、箸を持つ右手が震えている。

「箸の使い方を、いまいち思い出せていないみたいで」


「食べさせてやるから」と俺は無意識に言っていた。


 柏木に近付いて彼女から箸を取り上げると、焼鮭やきじゃけの身をほぐして、口に運んでやった。


「美味しい」と柏木は喜んだ。

「良かった」と俺も喜んだ。「時間のことは気にしなくていいから、ゆっくり、噛んで食べろよ」


 彼女はうなずき、白米を指さした。


 孤独の痛みを、一人メシの寂しさを、俺がわかってやらないでどうするんだ。