屋上への扉が開け放たれている。
掃除する手を止めて、天へと続く階段を一歩一歩上っていく。
この歩みは、何か大きな力に背中を押されているようにも思える。
屋上に出た俺の視界に映るのは、どこもかしこもモノクロの世界だ。
どうやらいつの間にか、ふたつの目は色が認識できなくなってしまったらしい。
ためらうことは少しもなく、俺は空に近い場所へと足を運んでいく。
後ろは振り返らない。振り返る必要がない。
自分でも驚くほど足取りは軽く、空はまたたく間に俺の前に現れる。
やはり色彩は失われている。
落下を防ぐための柵が設置されているが、その気になれば、こんな物理的な障害を乗り越えることなど、いとも
俺はそれをまたいで、生死の境界点へと着地する。
ひとたびバランスを崩せば、俺のつまらない物語は、そこで終了する。
はるか眼下にはだだっ広いグラウンドが広がり、遠くの幹線道路ではいくつもの無機質な鉄の塊がどこかを目指して移動している。
巨大なアドバルーンが大型小売店舗のオープンを知らせ、鳥たちは俺を愚弄するように、
そんな生まれ育った街の光景に、取り立てて何の感情も抱かない。
愛着もなければ、感謝もしていない。
今さら苛立ちもしないし、恨んでもいない。
俺は長らく、この街――いや、世界から、完全に独立して存在している。
ふと、自分と世界のつながりについて考え始める。
俺の存在なんてとてもちっぽけで、大砂漠にまぎれ込んだ一匹の
砂漠ははじめからそんな
果たして、何のために生まれてきたんだろう?
自分の生まれてきたその
からからに渇いた心は、今この時も、なんとかこちら側の世界でその答えを見つけようとしている。
だがそれはとても困難なことであるのをもうすでに俺は知っている。
一人息子であるはずの俺に少しだって関心を抱いてくれなかった母は、ついに俺を捨て家を出て、父はそれによって気が狂い、図書館に火を放った。
母も父も家から消え、兄弟もおらず天涯孤独になった俺に、追い打ちを掛けるように待ち構えていたのは、社会の厳しい目だ。
友人が一人二人と去り、近所の人からは罵りの言葉が投げ掛けられた。それがおまえの物語の脚本だといわんばかりに、この街の人間は揃いも揃って俺を孤独に追いやっていったのだ。
一人の起床に始まり、一人の食事、一人の登校、一人の休み時間。一人の下校に再び一人の食事、そして一人の就寝。
そんな状況に置かれ続けると、この世界の一ピースとして自分が存在していないんじゃないかと思えるようになってくる。
俺の存在の有無にかかわらず、パズルはとっくに完成しているのだ。
ふいに、自分に呼び掛けるような声があることに気がつく。
それは天か地か、どこからもたらされているかはわからない。
いや、あるいは、自分の中から発生している声なのかもしれない。
そっと目を閉じ、その声に耳を傾ける。
「神沢悠介。もう終わらせてしまえ」
声は、全身に染み渡っていく。
「生まれてきた理由が見つからないのは、見つけるのが難しいからじゃない。そんなもの、そもそも存在しないからに決まってるじゃないか。お前は生まれるべきじゃなかったんだ。気付かないふりをしているだけで、お前がそれを一番良くわかっているんだろう? そこから一歩踏み出せば、得られるだろう。お前が心から欲してやまない、安らげる居場所が」
不思議と脳内は夜の海のように静かで、精神は森林浴をしているかのように穏やかだ。
俺はその声に対して、少しも疑念を抱かない。むしろ、この不完全な世の中で幅を利かせているどんな正論よりも、もっともなことのように思える。
大きく、息を吐き出す。半歩だけ、前に歩み出る。
わずかな前進であったが、視界はより、鉛色の空で占められる。両のつま先には、もう感触がない。当然だ。なぜなら、踏んでいる地面が、そこに存在しないのだから。
意味も無く、ぐるりと空を見回す。
もしこの空の一部になれたなら、それは素敵かもしれないという意識が支配的になっていく。そこには、侮蔑も中傷も贖罪も孤独も存在しないだろう。
あるのはきっと、
俺は大きな力に導かれるように、両手を広げ、全身の力を抜き、前方へ身を倒していく。飛び込み台からプールの水面へ潜水するように、大空へと身を投じる。
すさまじい空気抵抗が、俺の顔を歪めさせる。
こめかみ周辺の皮膚が後方に引きずられ、目の玉が飛び出しそうになる。
みるみるうちにコンクリートの地面との距離は縮まっていく。
俺が地面に近付いているのか、はたまた地面が俺に近付いているのか、よくわからなくなる。
ただひとつ言えるのは、死がそこで大口を開けて、落下してくる俺を待ち構えているということだ。
地面にぬっと現れた黒く不気味な大きな影は、たちまち人の顔となって、一瞬悪意に満ちた笑みを浮かべる。
俺はそれを見て、ようやく自分の過ちに気がつく。「だめだ、これじゃ、だめなんだ!」しかしもちろん、落下は止まらない。
「もう遅いんだよ、神沢悠介」
今度は嗜虐的な声色だ。
「お前は選んでしまったんだ。死という楽な道を。もう時計の針は戻らない。だからお前は、もうじき死ぬことになる。ただ安心しろ。こちら側の世界には、お前が喉から手が出るほど希求していた居場所を用意しているからな。くくく」
俺は激しい後悔に苛まれる。生の世界にもう少しだけ留まらなかったことを。死の世界に居場所を求めてしまったことを。
だが、クリアになった頭は、この状況がもう取り返しが付かないものであることも認識している。
途端に溢れ出す涙と汗と鼻水に、俺は心の深い場所では、どんなにつらくたって生を望んでいたことを気付かされる。
死が近づいてくる。
けたたましい
♯ ♯ ♯
その自らの絶叫で、俺は目を覚ました。
心臓はかつてないほどダイナミックに脈打ち、全身は汗にまみれている。だが肉体的な痛みは皆無だ。
「まったく、なんていう夢だ」
ベッドから飛び起き、呼吸を落ち着かせるとともに、額の汗を拭う。シャツもトランクスも、今まさに水中から揚がったみたいにびしょ濡れだ。もしかすると小便もちびったかもしれない。
カーテンを開けて窓の外を見れば、まだ深い闇が街を支配している時間であることがわかる。
呼吸が落ち着くのを待って部屋から出ると、覚束ない足取りで一階へと降りていく。途中で一段踏み違えて、危うく転げ落ちそうになってしまう。
リビングの明かりをつけ、下着を脱いで洗濯機に投入し、新たなものを着用する。そして激しい喉の渇きを癒やすべく、台所で水をコップに二杯飲み下す。
ようやく体全体のシステムが、いつもの調子に戻ってくる。
俺はダイニングテーブルの椅子に腰掛け、この悪夢について思いを巡らせる。
無意識のうちに頭を両手で抱えていた。
あれは架空の出来事などではない。途中までは完全なる事実なのだ。
あの時見えた風景、その時々の心情、その他諸々、細部にいたるまで、実に克明に再現されていた。
なんという不吉な夢だろうか。
フロイトによれば悪い夢を見ることはそれほど悪いことではないようだが、それにしたってこんな、本当に心臓麻痺で死んでしまいそうな夢、できることならばもう二度と見たくはない。
はれて
ただ誤解しては、油断しては、ならない。俺は十字架を降ろせたわけではない。
いまだにこの背には、その
「生と死は驚くほど紙一重」
柏木がいつか言っていた言葉が、脳裏によみがえる。
まさしくその通りだ、と今さらながら相づちを打った。俺はそれを身をもって知っている。
実際には地面への投身を呼びかける死神の声が聞こえた後に、後方から俺と同じ区域の掃除当番だった女子生徒が声を張り上げてくれたおかげで事なきを得たわけであるが、もしもそれが無ければ――もしくは彼女の登場がもう少し遅れていたならば――先ほどの夢のように俺は死に呑まれていただろう。
後にも先にも、俺が屋上へ赴いたのはその一度きりなのだが、あの女子生徒がいなければと思うと、今でもぞっと身震いしてしまう。彼女の目には、俺の背中で嘲笑う死神の姿が見えていたのかもしれない。
「神沢、生きなきゃ――!」
その声が死神を退けた。
連中はいつだって俺たちのそばを影のようにひたひたと付きまとって、その機会を
奴らはどうやら、俺のような人間が大好物のようだ。
弱く脆く傷物で、持たざる者の運命を抱えた人間が。
だがな、と俺は、今もこの部屋のどこかで息を潜めているであろう
「あの時、俺を仕留めきれなかったのを悔いるんだな。今の俺はあの時とは比べものにならないほど心身共にたくましくなっている。俺を殺そうと思っても、そう一筋縄にはいかないぞ。力を与えてくれる仲間が今の俺にはいるからな」
俺は微笑んでからもう一杯コップに水を汲んで喉を潤すと、今夜はどうやらもう眠れそうにはないので、部屋に戻り、来週末に迫った一学期末テストの勉強に取りかかることにした。
今の俺には、手にするべき未来がある。