高瀬の決意表明を聞いてから一週間が経過した。
俺は太陽と一緒に登校している。前を行く女子生徒はスカートの丈が短く、ともすると下着が見えてしまいそうだった。それでも俺の意識はそこより別のところに向いていた。
「高瀬は後ろ姿がきれいなんだよ」と俺はつぶやいた。「まっすぐでさらさらの髪が腰のあたりで揃ってさ。歩くとそれがリズミカルに揺れてさ。いや、斜め45度から見た高瀬もそれはそれできれいで……」
「あのな悠介」と太陽は隣で呆れたようにさえぎった。「いちいち数えているオレもオレだが、おまえさん、この朝だけで『高瀬』って28回口にしてるぞ。どんだけ頭の中が高瀬さんでいっぱいなんだよ」
「わ、悪い」指摘されるまで気づかない俺は、どうかしている。「聞かされてる方はつまらないよな」
まぁいいけどよ、という風に太陽はさわやかに笑った。
「とにかく良かったよな。高瀬さん、大学を受けるとオレたちの前で決意を語ってから、見違えて明るくなった」
俺はうなずいた。
「彼女、大学に行くのが本当に夢だったんだな。これからは勉強に取り組むと宣言したとおり、授業中もすごく集中してる」
「『卒業と同時に結婚する』って聞いた時にはどうなることかと思ったが、このままいけば悠介は高瀬さんのヒーローだ」
太陽は冷やかすように肘でこちらを突いてそう言うが、俺はそれほど浮かれてはいられなかった。
「いや、たしかに高瀬は大学を受けるとは言ったけど、入学するとは言っていない。政略結婚が待つ未来は変えられないものだと認識している。その認識を改めさせて大学に行くという夢を叶えてやらなければ、本当の意味でのヒーローにはなれない」
「高瀬さん、結婚に対してはそうとう強い抵抗があると思うけどな」
「というと?」
「悠介おまえ、高瀬さんの政略結婚の相手が誰なのか知ってるか?」
俺は首を振った。「トカイの次期社長ということしか」
「
「20歳差か」親子でもおかしくない年齢差だ。
「まだナイスミドルなら救いがあるが、見てくれもひでぇもんだ。ヒキガエルが何かの間違いで人の魂を持っちまったんじゃないかって気がするくらいだ。性格もずいぶん捻じ曲がっているらしく、良いウワサはまず聞かねぇ。この男のセールスポイントなんて、そうだな、トカイの次期社長ってとこくらいか」
「とにかく醜い中年男ってことだな」
太陽は顔をしかめてうなずいた。
「高瀬さんだって女子だ。レディだ。いくらこの街の危機を救うためには自分が結婚を受け入れるしかないとはいえ、よりによって相手がそんな男ってことにはさぞ困惑しただろうよ。自分が鳥海慶一郎の妻になって抱かれているところを想像して、狂いそうになる時もあったんじゃないかな」
それを想像すると俺も狂いそうだった。なので頭を振って四月の高瀬を思い出した。教室での彼女は自分の抱えた問題などおくびにも出さず、いつだって笑顔で過ごしていた。その時の心情を思うとやりきれない気持ちになった。
「結局オレが何を言いたいかというとだな」太陽はあらたまる。「悠介よ。絶対にめげるなってことだ。高瀬さんは政略結婚の待つ未来は変えられないと口では言っているが、心ではまだ希望を捨てていないはずだ。変えられると信じているはずだ。式の最中に現れて、手を取ってかっさらってくれる――そんな存在を待ち望んでいるはずだ。悠介。おまえさんがなっちまえよ。その白馬の王子に」
白馬の王子、と聞くとくすぐったくて仕方なかった。でも高瀬がこう言ったのも事実だった。神沢君。どうしてかはわからないけれど、きみと一緒にいると、なんだか未来を変えられる気がするの。
企業同士の婚姻をやめさせるなんて大それたことが、果たしてこの俺に可能なんだろうか?
「そういえば」と太陽は思い出したように言った。「高瀬さんが急に大学を受けると言い出したのは悠介の影響なんだろ? おまえさん、なにをしたんだ?」
「別にたいしたことはしてない」
俺は高瀬と柏木に尾行され、自宅に迎え入れた日のことを話した。
「そんなことがあったのか! 悠介も裏ではちゃっかりやることやってるんだなぁ」
「人聞きの悪い言い方するなよ」
「いや、なかなかのもんだぞ。鳴桜高校を代表する美女二人を家に連れ込むなんて」
「誰が連れ込んだんだ、誰が。柏木の立案で、向こうから勝手に押しかけて来たんだよ」
太陽はからかうようにひとしきり笑うと、息を吐き、きりっと表情を引き締めた。
「悠介よ。なんつーか、動き出してきたな」
「ああ、そうだな」
俺の頭には、組み合わさったいくつかの歯車が、鈍い音を立てて回っている映像が浮かんだ。考えてみれば今こうして一緒に登校している男との出会いが第一の歯車だった。そこから俺の高校生活は――物語は――劇的に動き出したのだった。
俺は誰にも秘密にしておこうと思っていた
「あのな太陽。実は俺さ、前に柏木と末永が二人だけで秘密の話をしているのを聞いちまったことがあって……」
「はぁ!? 柏木が心に決めた男って、おまえさんだってのか!?」
俺は慌てて太陽の口をふさぐ。誰かに聞かれたら厄介なことになる。
「なぁ、これはいったいどういうことだと思う? 俺は運命の絆で結ばれた“未来の君”とは、やっぱり高瀬だと思っている。占い師が言った条件にすべて合致するわけだし。でも柏木は俺のことをこう呼んだんだ。『運命の人』って。よりによって。こともあろうに。俺にはもうなにがなんだかわからない」
「客観的に考えれば、高瀬さんが悠介の“未来の君”だと確定していない以上、柏木がそうだという可能性だってもちろんあるだろうな。別々の中学から同じ高校に入って同じクラスに配属されておまけに前後の席になるなんて、解釈次第では運命が二人を引き寄せたとも言えるわけだ。ていうか、案外柏木なんじゃねぇか? おまえさんの“未来の君”って」
「でもな」と俺は言った。「占い師は“未来の君”についてこう説明したんだぞ。この女性も今現在、自らの未来に生じた困難に頭を悩ませている、って。あの底抜けに明るいじゃじゃ馬娘がいったいどんな困難に頭を悩ませてるっていうんだ?」
それを聞くと太陽は、ちっちっち、と人差し指を振った。
「
「どういうことだよ?」
「オレも高瀬さんも教室じゃ明るく振る舞っていた。それを見ておまえさんはどう思った?」
「なんの悩みもなさそうで羨ましいな、と」
「ところがどっこい実際はふたりとも大きな問題を抱えていた。悩んでいた。要するにだな、悩みのない人間なんていないってこった。おまえさんが不遇な環境で育ってきたことを考えると、オレたちがそう見えたのも無理はない。でもな、みんな顔には出さないだけだ。100人いれば100通りの苦悩がある。柏木だってああ見えて何かしら問題を抱えているに違いない」
俺は柏木が俺の母親の写真を見て顔をしかめたのを思い出した。
いったいあいつは未来にどんな困難があるというのだろう――?
「柏木と言えば」と太陽は言った。「あいつ、高瀬さんの決意表明を聞いてから、普通にオレたちの秘密基地に入り浸ってるよな?」
俺はうなずいた。あの日以来、柏木はほとんど実質的に我々の四人目のメンバーになっていた。
「とりあえず悠介の置かれている状況はわかった」と太陽は言った。「ちょうどいい。そろそろ次のステップへ移行せにゃいかんと考えていたところだ。最初の頃とは状況もメンバーも大きく変わった。悠介、昼休みに重大発表があるから、心して待ってろよ。ははっ、今日の授業中は考えることがいっぱいだ。こりゃ寝てられないな」
いやいや、悪いことは言わないから勉強しろよ、と俺は友の未来を憂う。