居酒屋での四時間の労働を終え、俺は帰宅した。
高校では一学期中間テストが終わったばかりで、心身ともに疲労はピークだった。それでも俺は学校もバイトも休むわけにはいかなかった。幸せな未来を――ハッピーエンドを手に入れるために。
玄関で靴を脱ぎ、リビングの扉を開ける。疲れきった体に声をかけてくれる人などいやしないから、そのまま一直線にキッチンへ向かう。そして冷蔵庫を開け、大量に買い込んである栄養ドリンクを一本胃に流し込み「今日もがんばった」と自分で自分の労をねぎらってやる。
一人きりでの生活にもすっかり慣れたものだ。
両親と俺の三人で暮らしていた家だからそんなに大きいわけじゃないけれど、それでもやはり二階建ての一軒家は一人で生活するには充分すぎる広さだ。使っていない部屋から物音が聞こえでもしたなら、今でもビクッとしてしまう。
時計を見るともう23時を回っていた。風呂を沸かそうかとも思ったが億劫なのでやめておいた。さいわいまだそれほど汗をかく季節じゃない。
俺はダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、息を吐いた。思えばこの場所で、朝食なり夕食なりを家族三人でいっしょに食べた記憶がない。
母は父を徹底して避けていたし、父もそれに対して文句を言わなかった。家族がばらばらで食事をとることが、常態化していたのだ。
見ればテーブルにも四脚ある椅子にもキズ一つついていなかった。新品と言っても通用しそうだった。このダイニングテーブルもこんな家に買われたくなかっただろうな、と同情したくなった。
なんだか気が滅入ってきたので、俺は気を取り直して、ジーンズのポケットから封筒を取り出した。そこには今日支給されたばかりの初めてのバイト代が入っていた。封筒を開けて中身を確認し、一万円札を一枚一枚テーブルの上に並べていく。全部で六枚。一ヶ月でこの六枚を手にするために、俺は高校入学と同時に居酒屋でのバイトを始めたのだった。
卒業までの三年間このバイトを続ければいくら稼げるか電卓で計算する。表示された七桁のデジタル数字を見て俺は「よし」と声に出してうなずく。そしてこの街唯一の国公立大学・
目を開けると不思議と疲れは消え、それどころか気分は高ぶっていた。
「絶対に幸せになってやる――」
俺はそうつぶやくと、冷蔵庫から特別にもう一本栄養ドリンクを出して飲み、眠りについた。
♯ ♯ ♯
翌日の放課後、中間テストの結果が大々的に張り出された。進学校だけあって、生徒全員の向上心を
六教科で競われた今回のテストで俺は、学年240人中61位だった。バイトがあってそうそう勉強に時間がさけない中では、上々の結果と言ってよさそうだ。
この順位公開を受け、我らが1年H組ではちょっとした騒ぎが巻き起こっていた。普段から真面目に勉強に取り組み、上位への進出を誰しも疑わなかった高瀬が120位というなんとも微妙な順位だったのだ。
高瀬が関数を教えてあげていた生徒の方が上に行くなんていう珍事も発生し、高瀬は弁明に追われる羽目となった。彼女は「体調不良」をその理由として挙げていたが、俺の目には(きっと誰の目にも)決してそんな風には見えなかった。
なにはともあれ、全校生徒の胃をきりきりさせた年度一発目の試験が終了し、校内はお祭りムードに包まれていた。街へ遊びに繰り出す生徒も多かった。俺はそんな連中を尻目に一人で校舎を後にして、自宅の近くにあるスーパートカイへ向かった。
今日は居酒屋のバイトが休みなので、ゆっくり時間をかけてカレーを作ると決めていた。市販のルーは使わず、数種類のスパイスを独自に配合して作る。試行錯誤の甲斐あってこれがなかなかうまい。研究を進めていけばいつか店が開けるんじゃないかと
スーパートカイでタマネギと鶏肉を買って帰ると、郵便受けには近郊の私立大学のオープンキャンパス案内が入っていた。私立なんて行けないよ、と思って苦笑し、鍵を開け、家に入った、その時だった。
「神沢悠介の自宅、みごとに特定ッ!」
この時間に、この場所では、絶対に聞くはずのない甲高い声が外から聞こえた。
「柏木!」俺は買い物袋を落としそうになる。「なんでおまえがここにいるんだよ!?」
「なんでって、学校から後をつけてきたから」
「尾行してたのか?」
「そうなの」柏木はいささかも悪びれない。「探偵気分を味わえたよね、優里」
優里、と思って俺は息を呑んだ。その呼びかけに応えるように柏木の後ろから出てきたのは、やはり俺の初恋の人だった。
「ごめんね神沢君。尾行なんてやめようって言ったんだけど、晴香が聞かなくて」
高瀬は申し訳なさそうに詫びてくる。君は悪くない、という風に俺は手を振った。
「それにしても気づかないものかねぇ」と柏木は言った。「あたしたちの尾行、かなり下手な部類だったけど」
「神沢君、全然後ろを振り返らなかったもんね」
「どうせ考え事でもしてたんでしょ」
「脳天気なおまえとは違って、俺には考えなきゃいけないことがたくさんあるんだよ」
たとえば大学のこと、たとえばバイトのこと、そしてたとえば“未来の君”のことだ、と心で続けた。
柏木は靴を脱ぎ出す。
「いつまでも立ち話ってのもアレだから、とりあえず中に入ろうよ」
「そういうセリフはこっちが言うんだろ!」俺はたじろぐ。「だいたい、うちになんの用だよ?」
「遊びに来たんじゃないの。忌まわしいテストも終わったことだし」
そこで高瀬が口を開いた。
「晴香、神沢君も忙しいんだから、迷惑だってば。やっぱり帰ろうよ」
高瀬は帰したくない、という思いが働いた。
「いやいや、今日はバイトも休みだし、迷惑ではないよ。ぜんぜん」
柏木は眉をひそめる。「なんかさ、あたしと優里で態度が違くない?」
「そ、そんなことないって」俺は冷や汗をかく。「わかったよ柏木。たいしたもてなしはできないけど、それでもいいなら上がれよ。それから、高瀬も、その、どうぞ」
「お言葉に甘えて、お邪魔します」
高瀬は俺の許可を得てようやくうちの敷居をまたいだ。一方柏木ときたら、もうすでにリビングのソファで偉そうにふんぞり返っている。
同じ高校一年生の女子でこうも違うものかね、と俺は呆れる。
「しっかし悠介ってヒドイ男だよねぇ」
俺と高瀬がリビングに入るやいなや、柏木がそう抜かした。
「なんでだよ?」と俺は言った。
「だってさ、優里はタカセヤのご令嬢よ? その優里の目の前でよりによってライバルのトカイで買い物しますかね?」
「しょうがないだろ、尾行されてるなんて知らなかったんだから」
そうは言いつつも、俺は後ろめたさを感じてトカイのロゴが入った買い物袋を背中に隠した。
「高瀬、あのな、違うんだ。今日はたまたまトカイで買っただけで、いつもはタカセヤだから。スーパーと言えばやっぱりタカセヤだよ」
「気を遣わなくても大丈夫」と彼女は嫌味なく言って微笑んだ。「このあたりだと最寄りのスーパーはうちじゃなくてトカイさんだもんね。トカイさんを使うのが自然だよ」
次からは多少遠くてもタカセヤを使おうと俺は誓った。
「それはそうと神沢君。タマネギとか鶏肉を買っていたみたいだけど、料理できるの?」
「ああ。今日はバイトが休みだからカレーを作ろうと思って」
「カレー!」柏木が耳聡く聞きつけて、ソファから身を乗り出してくる。「あたし、こう見えてもカレーにはうるさいのよ」
「おまえはいつもうるさいよ」
「うるさーい!」と柏木はやかましく言った。「とにかく、気になる。カレーなんて言うからお腹空いてきたじゃない。悠介、あたしたちの分も作りなさい」
「はぁ!?」
「ちょっと晴香」と高瀬は言った。「いくらなんでも神沢君に悪いって。突然家に押しかけて、そのうえ料理までさせるなんて」
「いいんだって、優里」柏木は高瀬の
どちらも美女なのは間違いないのでたしかに文句は言えなかった。俺はもう観念してブレザーを脱ぐとエプロンを着けた。そして買い物袋を持ってキッチンへ向かった。
「神沢君、無理しないでね。私の分はいらないから」
そう言った高瀬のお腹から、ぎゅるるるる、という音が聞こえた。時計の針は夕方の4時をさしていた。体は正直だ。
「気を遣わなくても大丈夫だ」と俺も嫌味なく言って微笑んだ。「特上寿司より満足できるうまいカレーを作るから、期待して待っていてくれ」