体調不良が翌日に続くことはなく、無事に今日という日を迎えられた。
やや曇りがちだけど、雨もあがって青空と晴れ間がのぞく。
そんな中で顔を突き合わせる私たち四人のテーブルには、湯気を立てる湯呑がそれぞれ並んでいた。
「おー、ほんとに鎌倉ちゃんだ! 受験、受かって良かったね!」
机に乗り出す勢いで、ユリが向かいに座る宍戸さんの手を取る。
そのままぶんぶん上下に振るのにあわせて、宍戸さんは目を白黒させて、あたふたと口を開いたり閉じたりする。
なんかそういう、子供向けのおもちゃみたいだ。
「あ、ありがとうございます……ほんとうに、先輩たちのおかげでわたし、無事に入学できました。でも、鎌倉ちゃんって……?」
「ああ……それ、受験番号が
説明を添えてあげると、宍戸さんは「ああ……」と納得した様子で頷いてくれた。
私も一回、ついそう呼んじゃったことがあったっけ。
大人になっても語り草にしそうなほど、忘れない番号だなと思う。
「それで、そっちが穂波ちゃん? よろしくね!」
ユリは続いて、宍戸さんの隣に座る穂波ちゃんの手を取って、同じようにぶんぶんと振る。
宍戸さんと違って無表情で振られる彼女の姿も、それはそれで可動域のある日本人形か何かに見える。
「八つの乙女に稲穂の穂、海の波で八乙女穂波です。よろしくお願いします」
やっぱり、それ言うんだ。
でもなんだか、ないともう締まらないような気さえする。
それに効果はてきめんで、私はすっかり、彼女の名前をソラで漢字で書ける。
「そして私が生徒会書記のアヤセです。よろしく」
甘くて香ばしい小豆の匂いを纏って、頭上からアヤセの声がふってきた。
初夏らしい若草色の着物に前掛けをした彼女は、漆塗りのお盆を手にニコニコと営業スマイルを浮かべる。
一年生ふたりはぽかんとした顔でそれを見上げて、辺りの空気が一瞬静まり返った。
「アヤセ先輩、何してるんですか?」
「ここ、私の実家」
穂波ちゃんの問いに、アヤセは営業スマイルのまま答える。
私もお茶をすすりながら、後輩ちゃんたちに目を向けた。
「言ってなかったっけ。アヤセの家、和菓子屋やってるって」
「初耳です」
「わ、わたしもです……」
そんな後輩ちゃんたちの反応を見て、アヤセがふくれっ面で私の方を振り返った。
「お前なー、ウチに来るなら来るって先に言えよなー」
「言っても言わなくても、特にサービス変わんないでしょ」
「わかんないだろー。まあ今日はないけど」
彼女は、これまた漆のお皿に乗った和菓子をテーブルに並べて、最後に私の前にお汁粉の入ったお椀を置いた。
「それじゃあ、私は仕事に戻るから。ごゆっくり~」
そう言い残して、アヤセは店の奥に帰って行った。
穂波ちゃんは、まだ狐につままれたみたいに目をぱちくりさせていた。
「アヤセ先輩、お綺麗でしたね」
「本人は飽き飽きしてるみたいだけどね」
小さい頃から手伝いで着せられていて、和服はもう飽き飽きという話を、私はこれまで何度も聞かされている。
その反動みたいに、フェミニン系やガーリー系のファッションが好きなことも。
「星、それ好きだねー」
横から覗き込んだユリが、立ち上る湯気の匂いを嗅ぎながら口にする。
「餡子食べてるって感じがするから」
私は、あつあつのお汁粉をスプーンの上で冷ましてから口に運ぶ。
甘さと一緒に鼻に抜ける香ばしさ。和三盆の甘さとは別の、豆そのものの素朴な甘さ。
うん、やっぱり餡子を食べるならここだな。アヤセ、私と出会ってくれてありがとう。
これだけのために、割と本気でそう思う。
「それ、私も分かります」
穂波ちゃんが、はちきれんばかりにぶんぶんと首を縦に振った。
「穂波ちゃんも餡子好きなの?」
「温泉饅頭とか大好きです。今日はおすすめのクリーム大福にしちゃいましたけど、次は私もお汁粉にします」
「それがいいよ。ここのお汁粉美味しいから」
「うーん、でもあたしはクリーム大福かなあ。ごろっと季節の果物が詰まってるのがいいよね」
「わ、わたしも、フルーツ好きです……フルーツサンドとか、よく食べます」
「えー、いいなあ! どこのが美味しいの?」
「あっ、えっと……お母さんが作ってくれるのが」
宍戸さんは頬を染めながら、だんだん消え入りそうな声で答えた。
家でフルーツサンド……なるほど、ウチならまずあり得ないな。
「えー、いいなあ。ウチでも今度作ってみようかな?」
「ユリ先輩、料理とか……するんですか?」
「ウチではあたしが料理当番だよ。和洋中なんでもござれ! 鉄人と呼ぶがよいぞ?」
「すごいです……! わたし、料理愛好会に入ってるので……その、レシピとか教えてもらいたい、です」
「いいよいいよ。あたしの秘伝を教えてしんぜよう」
ユリが得意げに腕組みをして、鼻を鳴らした。
人見知りな宍戸さんのことだからどうなるかと思ったけど、思ったより早く打ち解けられたみたいだ。
というよりなんだか彼女、いつもより前のめりだね?
「歌尾さん、元気になってよかったです」
穂波ちゃんは我が子の成長でも見守るみたいな優しい目で、のほほんと語る。
料理談義が白熱する隣で、こっちはお婆ちゃんの井戸端会議みたいな空気だった。
「穂波ちゃんは、学校楽しめてる?」
「はい?」
「入学してからずっと、誰かの事ばっか考えてるなと思って」
「そう、見えますか?」
別に、説教しようってんじゃない。
私だって口うるさい先輩にはなりたくないし……ただ穂波ちゃんには、宍戸さんと別の意味で自分に似たところを感じているのが、ちょっと気になっている。
これは文字通りの私の老婆心。
「私も、星先輩に助けて貰うことになりますかね?」
穂波ちゃんがが、ちょっぴり困ったように笑う。
「そいれは犯行予告的な?」
「どちらかというと果たし状ですかね」
「それは勝ち目がない気がするけど」
そうして、どちらからともなく笑いあった。
なんだろこれ、ちょっと楽しい。
後輩って良いなって初めて思えた瞬間だ。
「果たし状ってなに? 一騎打ち?」
小耳に挟んだらしいユリが、間に割って入ってくる。
「一騎打ちって何さ」
「果たし状って言ったら一騎打ちでしょ? ねえ?」
「まあ、そうかもしれませんね」
話を振られた穂波ちゃんは、困惑気味に頷く。
「あんまり真面目に取り合わない方がいいよ」
「えー、それどういう意味さ?」
「何考えてるか分かんないってこと」
若干毒っぽくなってしまって、私は取り繕うようにお茶に手をつけた。
不満そうに頬を膨らませるユリの傍らで、後輩ちゃんたちは控えめに笑ってくれた。
まだ、大丈夫。
今日はどうにか、いい先輩で終わらせたいんだ。
「あの……わたし、本当に先輩たちに感謝してます」
宍戸さんが改めて口にする。
話題を変えてくれたみたいで、今の私にはすごくありがたい。
「おふたりが居なかったら、わたしはここに居なかったと思うし……入試の時にユリ先輩に話を聞いてもらって、入学したあとは星先輩によくしてもらって……わたし、本当に、ここにきて良かったです」
「……それなら良かった」
改めて言われるとこそばゆいけど、彼女の口からそれが聞けたことが、何よりもうれしかった。
ユリなんてちょっと涙ぐんでるし。
ほんの数十分の関係のくせに、感受性が高すぎだ。
だからこそ、こんなわけわかんない片思いもしてるんだろうけど。
そこまで言って、宍戸さんはもじもじと、テーブルの上に視線を落とした。
穂波ちゃんが後押しするみたいに、その手を握る。
宍戸さんは一度彼女のことを見てから、頷いて、もう片方の手でブラウスの胸元を握りしめた。
その時の空気の変化を感じ取ったのは、その場では私だけだったと思う。
宍戸さんと私は、底にあるものが似ているから。
穂波ちゃん以上に、もっとはっきりめっきりと。
ただ、態度への出し方が違うだけ。
「わたし、星先輩のことも……ユリ先輩のことも、大好きです」
彼女の口が語る「好き」の重さを知っている。
そうして今、目の前の彼女の好きは、私たちに向けられていた。
私への好きは、それは嬉しい。
だけど私と同じものを抱える人間の、ユリに対する好きは――