宍戸さんと須和さんとの話し合いは、放課後に行われることになった。
周りが間に入るのも無粋かと思って、ふたりきりで。
心配はあるけれど、それは宍戸さん自身の希望でもあった。
場所は生徒会室を貸してあげることに。
邪魔が入らないという意味では、これ以上の場所はないだろう。
私はアヤセと一緒に、廊下でふたりの会話が終わるのを待っていた。
「穂波は?」
「無理矢理でも部活に行ってもらった」
「ああ、それで良いと思う」
迷った末の私の判断に、アヤセは頷いてくれた。
友達を心配する穂波ちゃんの気持ちはわかるけど、宍戸さんが決めたことなら、もう私たちが口を出すことはない。
だったら穂波ちゃんには穂波ちゃんの、この学校に来た理由をまっとうしてもらいたい。
この学校で強くなりたいと言った彼女の言葉も、私は忘れていない。
そういう意味では、私たちがここにいることも良くはないのだろうけど。
部屋の鍵は私が持っているし、まったく放っておくというのもできなかった。
「歌尾自身は、昨日はなんて?」
アヤセの問いに、私は首を横に振る。
「断るってさ。私がそれを後押ししたようなもんだけど」
「ふうん」
アヤセの空返事が廊下に響く。
待つ、という時間はなんでこう長く感じるんだろうか。
大人だったらきっと、こういうときはタバコのひとつでもふかすんだろう。
自分はいずれヘビースモーカーになるんだろうなっていう漠然とした未来予想図が、頭の中でありありと思い浮かんだ。
「星はさ――」
アヤセが何かを言いかけた。
けどそれと同じタイミングで、生徒会室の扉が開いた。
話が終わったのかな。
釣られるように立ち上がった私の胸に、部屋から飛び出して来た宍戸さんがぶつかる。
「あっ……ごっ、ごめんなさい……!」
それだけ口にして、宍戸さんは廊下の向こうに駆けて行ってしまった。
ぶつかって、こちらの顔を見上げた時、彼女が泣いていたような気がした。
「振られちゃった」
遅れて、須和さんが部屋から出てくる。
「振られちゃったって……宍戸さん、泣いてたけど」
「話、まだ途中だったのに」
相変わらずの淡々とした物言いに、胸の内がざわざわする。
厳しすぎてイジメに見えちゃう。
音楽室で話したことが、また脳裏に過る。
「スワンちゃんさあ、やりすぎないでって念押したよね?」
「序の口のつもりだった」
「まー、確かに個人の感覚だけどさあ」
アヤセは頭を抱えて、大きなため息をついた。
「星は、歌尾のこと探してフォローしたって。穂波ちゃんも呼ぶ?」
「あ……うん。大丈夫。ひとりで行く」
ようやくまともに思考が回ってきて、私は食い気味に頷き返す。
すぐに踵を返した私の背中に、須和さんの言葉が突き刺さった。
「できたら、連れてきてくれる?」
「……約束はできないかな」
私はそれだけ言い残して、宍戸さんが駆けて行った方向へと向かった。
彼女がまだ校内にいることだけはすぐにわかった。
なぜなら、生徒会室の目と鼻の先が昇降口だから。
そこに駆けこまなかった以上、彼女はまだ学校内にいるはず。
でも、だからといってどこにいるのか、皆目見当がつかなかった。
こういう時、人はどこに行くんだろう。
その人にとって、一番馴染みがある場所。
落ち着く場所。どこだ?
そもそも入学して一ヶ月そこらの彼女に、そんな場所ってある?
「ある……かも。確証はないけど」
それは、自分自身に言い聞かせるために出てき言葉。
あそこに居なければ、たぶん私はもう、彼女を見つけ出すことはできない。
「よかった……ここだった」
走ってきたわけではないのに、息が上がったみたいに胸が苦しかった。
その苦しさはきっと安心によるものだ。
宍戸さんの姿は、二か月前の入試の日と同じ、職員玄関の片隅にあった。
うずくまって、肩を抱いて座るその姿も同じ。
違うのは彼女は今、ウチの制服に袖を通しているということ。
そして、あの日の彼女に寄りそっていたユリがいないということ。
「宍戸さん」
声を掛けると、彼女の小さな肩が揺れる。
ゆっくりと振り向いたその顔は、涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
「ご、ごめんなさい……わたし……せっかく勇気、もらったのに……」
「そこは謝らなくてもいいんだけど……」
それからなんて声を掛けようか迷って、私はひとまず、彼女の隣に腰を下ろした。
ユリもそうしていたから。
職員室の扉から、異常を察知したらしい教員が顔を覗かせる。
私が「大丈夫です」と断ると、教員は納得した様子で部屋に戻っていった。
生徒会長の肩書にありがたみを感じるのはこういう時だけだ。
「須和さんに何か言われた?」
私の問いかけに、宍戸さんは首を横に振る。
「わたしのほうが、我慢できなくなっちゃって……」
「周りの意見なんて聞かなくていいって、私、昨日言ったよね……?」
すると彼女は黙り込んでしまう。
ちょっと、今のは押しつけがましかったかな。
しかりつけたり、そういうつもりではなかったんだけど……。
彼女はやがて、ぽつりと呟く。
「須和先輩……すごく、いい人なんです」
「そうかな?」
「いい人……なんです。須和先輩はずっと、演奏だけで、わたしを評価してくれたから……その演奏が好きだって、言ってくれたから」
「宍戸さん、それで良かったの?」
「はい……昨日、穂波さんが言った通り、わたし、すごく嬉しいんです。嬉しいのに――」
肩を抱く彼女の手に、力がこもる。
クセがついちゃうんじゃないかってくらい制服をしわくちゃに握りしめて、大粒の涙が頬を垂れる。
「わたし……ダメなんです! もう演奏、できないんです! だから、誰も知らないところに来たかったのに……!」
宍戸さんの慟哭に息をのんだ。
普段の彼女からは想像できないような、強くて苦しい感情の吐露。
気遅れしてしまったのは、彼女のそんな深いところまで手を伸ばす覚悟が、私自身になかったからだと思う。
それでも味方になると決めた以上は、そんなことは言っていられない。
「これ……聞いていいのか分からないんだけど」
そんな、責任を相手に転嫁するような前置きをしてしまうのは、いつもの悪い癖だ。
でも、その魔法の言葉で一歩前に踏み出せるのなら、その後にいくら非難されたって受け止めることはできる。
「中学のとき、何かあったのかな。その……部活で」
再び、しばらくの沈黙。
踏み込み過ぎたかな。
私の心配をよそに、彼女は震えながら、首を縦に振った。
「中学一年のとき、わたし、吹奏楽部に入って……はじめてだったんです。知らない人たちに混ざって、演奏するの……」
「はじめてってことは、それまでは?」
「お父さんの友達とか、お母さんの友達とか……」
そう言えば、音楽一家なんだっけ。
普通なら小学校のマーチングバンドクラブとか、それこそ街の音楽教室とかで基本を学ぶ子が多いのだろうけど。
家にそういう環境があるのなら、もっと早い段階から個人で触れていることもあるだろう。
「わたしの通う中学は……というよりわたしの住む町は、そんなに生徒の人口は多くなくって。吹奏楽部も、全学年合わせてやっと必要なパートが埋まるくらいで……だからわたしもすぐ、コンクールメンバーに選ばれました」
「それはいいこと、なのかな?」
「もともと、上の大会を目指すような部じゃなかったんです……でも一応、部のスローガンとしては全国を目指して、練習して……ただ、わたし、上手だったんです」
「そこ……自己評価しっかりしてるんだね」
「音楽には、嘘つきたくないから……みんなも上手な子が入ってくれたって、喜んでくれました。でも合奏って、ひとりだけ上手でも駄目だから。わたし、指導の先生からも抑えるようにって言われてたんです」
そう言えば、須和さんもそんなことを言っていた。
ひとりだけ上手い人がいても駄目だから、周りに合わせることも必要って。
演奏を抑えるっていう感覚が、そもそもいまいちよくわからないけど。
「須和さんにも聞いた。私はそれ、なんかちょっとヤだなって」
すると宍戸さんは、全力で否定するみたいに、ぶるぶると首を横に振る。
「そんなことないです! わたしはその、それで良いと……それが良いと思うから。音、合わせるのは好きなんです。小さい頃から、合奏は楽しいことだって、お父さんたちが教えてくれたから。わたしがやりたいのは、上手な演奏じゃなくって、楽しい演奏。わたしがいっぱい練習して、上手になったのは、お父さんたちと楽しく演奏するには、同じくらい上手にならなきゃって……それだけなんです」
今さらっと言ったけど、それって、彼女自身が思っているよりすごいことを言ってる気がする。
少なくとも私は、そう感じた。
たぶん、音楽が身近すぎたゆえのストイックさ。
その感覚はもしかしたら、須和さんのそれに近いのかもしれない。
「じゃあ、なんで?」
抑えるのが嫌じゃないのなら、何が彼女の心の棘になっているのか。
私は、彼女の言葉を待った。
「わたしが悪いんです。コンクールも初めてだったから、わたし、すっごく緊張しちゃって……当日、りきんじゃったんです。抑えてたつもりだったけど、いつもより上手に吹いちゃったんです。それで合奏、バラバラになっちゃって……コンクールの結果は、もちろん駄目でした。反省会の時に、先生にも指摘されました。仕方ないことだと思います。でも先生も、次はあがらないように練習していこうって。それで周りのみんなも、つられて上手くなっていくようにしたいねって。そういうつもりで言ってくれてました」
彼女はそこでひとつ息をつく。
息をついたというよりは、嗚咽を飲み込んだと言った方が正しいのかもしれない。
「でも、みんなはそうじゃなくって……見せびらかそうとして、結果として合奏をめちゃくちゃにしたとか……実力のない自分達へのあてつけだとか……わたし、そんなつもりなかったのに!」
「宍戸さん」
彼女の瞳に恐怖が滲んだのが見えて、私は声をかけながらその肩に触れた。
彼女は、それで記憶の世界から戻って来たようにはっとして、それから小さく深呼吸をした。
「その後からでした……わたし、吹けなくなっちゃったんです。音の抑え方、分からなくなっちゃって……同じくらい、精一杯演奏する方法も分からなくなっちゃって。吹けないんです。わたし、吹けないんです」
言い訳をするように、宍戸さんは繰り返し口にする。
吹けない。
吹きたくない、じゃないところに、きっと本当は吹きたいんだろうなっていう、彼女の気持ちが滲んでいる。
「それで、再スタートしようと思って、ウチの高校に来たんだね」
「はい。でも、須和先輩がいて……わたし、どうしたらいいか分からなくっちゃいました」
「彼女のこと、苦手?」
「いいえ。わたし……きっと、好きです。怖いけど、演奏も上手だし……応援練習の時に聞いて、震えました。先輩と同じです。かっこよかった。なにより先輩は、わたしの音を……好きだって言ってくれました。わたしのこれまでとかなんにも興味なくって、ただそこにある、わたしの音だけを好きだって言ってくれたから。嫌いなのは、それに応えられない、わたし自身なんです」
それは、本当の彼女の先輩たちに対する恨み節でもなんでもなく、単純な諦めの願望に聞こえた。
もう過ぎ去ったこと。
コンクールの失敗も、吹けなくなってしまったのも、そしてたぶん、須和さんからの勧誘も。
全部が彼女の中では、終わったこと。
「中学校のとき、須和先輩がわたしの先輩だったらよかったのに……」
こんな時に、気の利いたことが言える先輩だったよかったのに。
私もまた、自分自身の経験の浅さを恨んだ。
私もまた、逃げた口だから。
ただ彼女違うのは、上手ゆえの孤独からじゃなく、越えられない壁と、下手くそな自分に嫌気がさして逃げたんだ。
そんな私の口から、宍戸さんの心に響く言葉はきっと出てこない。
「宍戸さんは、吹きたい……のかな」
「わからない、です。でもどっちにしても吹けない、です」
何度でも彼女はいう。
やりたいことと、できることは違う。
彼女の場合はそれが、目に見える形で、ハッキリしすぎているというだけだ。
その明暗が、諸刃の刃になって、彼女自身を傷つけている。
「音楽を続けるのも、全く新しいことを始めるのも、どっちも宍戸さんにとっての再スタートになるよ。この学校だったら」
「星先輩……?」
「少なくとも、新しい自分を探そうとしてる方なら、その一歩はもう踏み出してるでしょ?」
扉を叩いてくれたのは彼女の方だ。
だったら受け入れた私は、彼女にとって必要な場所を用意しよう。
生徒会ってそういう場所だと私は思うし、入学式で私が約束したことでもある。
「料理愛好会、どうだった?」
「え?」
私の質問に、宍戸さんはきょとんとした顔で振り向いた。
「あの、えっと……楽しかったです。先輩たちとチーズケーキ焼いたんですけど……その、失敗しちゃって。でもみんな笑ってて。失敗なのに……楽しかったです」
「じゃあよかった」
ちゃんと彼女なりの一歩は踏み出せている。
彼女なりに高校生活を楽しもうとしてくれている。
その気持ちを知れただけで、私はずいぶんと安心できた。
「この学校に通いたいって思ってくれたこと、後悔はさせないよ」
それは天野さんが言う、かっこつけの私なのかもしれない。
でも、かっこつけたいと思った相手のことは、今度こそ、最初から大事にしたい。
もう、間違えるなんてことはしない。
「……はい」
すっかり掃き出し切ったおかげか、宍戸さんはいくらか落ち着いた様子で頷いてくれた。
少なくとも、もう生徒会室には戻れないな。
今日はもう帰ります――彼女が口にする時まで、私はただ、隣で一緒に座っているだけだった。