伝えといて、とは言われたものの、私は須和さんの言伝を、すぐには宍戸さんに伝えずにいた。
先輩風を吹かして「断っとく」と言った手前もあるけれど、宍戸さんの控えめな性格を思えば、「夏まで待つ」なんて言葉はいらない負担になるだろうなと感じたから。
「でも、何らかの形では伝えないといけないと思うんだよね」
「まあ、そうな」
パックの野菜ジュースを啜りながら、アヤセがぶっきらぼうに答えた。
「聞いてる? わりと真面目な相談のつもりなんだけど」
「聞いてる聞いてる。たださ」
「うん」
「私たちで考えて出る答えじゃねーなそれって思って」
それはまあ、そうなんだけど。
それを言ったら元も子もないじゃないか。
昼休みの教室で、アヤセとふたり机を向かい合わせながら、どちらからともなくため息をついた。
須和さんと宍戸さんの問題は、流石にひとりの手には余る。
そう感じた私は、「誰にも言わない」と誓った宍戸さんとの約束を、申し訳ないけど破ることにした。
須和さんも、宍戸さんも、私にとってはほとんど関わったことがない相手だ。
当事者の気心を知らないのに、その両方に納得して貰う方法なんて考えつくわけがない。
そんな時の頼りになるりそうなのがこいつというわけだ。
ちなみにユリは、今日はチア部のランチミーティングがあるとのことで席を外していた。
いたらいたで話を引っ掻き回されそうなので、今はありがたい。
「とりあえず、そのまんま歌尾に伝えたら? 別に悪いこと言ってるわけじゃないんだしさ」
「それはそうなんだけど」
「けど、なんだよ?」
それで終わらせちゃいけないような、胸の内のもやもやした気持ち。
それを言葉にするならたぶん――
「高校生になったら変わってみたいって気持ちは分かるから」
すると、わしわしと髪の毛をかき回すみたいに、頭を撫でられた。
「狩谷さんちの星ちゃんは可愛いねえ」
「ちょっと、やめてよ……」
アヤセの手を振り払って、髪を手櫛で整える。
そんな私を見て、彼女はけらけらと笑っていた。
「そう言うことなら呼んでみるか救助隊」
「救助隊?」
「ま、ひとりなんだけど……場所は生徒会室でいい?」
「話が見えない」
私をよそにアヤセはスマホをいじると、しばらくして背伸びをしながら立ち上がった。
「じゃ、行くか」
「生徒会室?」
「そっ」
いったい誰が待ってるんだと思ったけど、よくよく考えてみたら、そんなのひとりしかいなかった。
アヤセとふたり、生徒会室の扉をくぐる。
するとそこでは、穂波ちゃんが慣れた手つきでお茶を淹れていた。
「あ、お疲れ様です」
先に待っていたらしい穂波ちゃんが、ぺこりと会釈をした。
私はアヤセの顔を見る。
「救助隊って?」
「私らよりずっと、歌尾のことに詳しいひと」
過ごした時間で言えば、きっとそうだろう。
でも、このことを穂波ちゃんに相談しても良かったのかな。
こうなってしまったら今さらだけど。
「お茶どうぞ」
「ごめんね急に」
とりあえず、アヤセの代わりに謝っておく。
穂波ちゃんは、相変わらずのポーカーフェイスで「大丈夫です」と答えた。
「それで、相談っていうのは?」
「歌尾のことなんだけど」
アヤセはそこまで言って、私の脇を小突く。
私は頭を抱えたい気持ちを抑え込んで、ことの顛末を穂波ちゃんに話した。
彼女は話が終わるまで、静かに聞いてくれた。
「歌尾さん、そんな悩みを持ってたんですね」
話が終わって、穂波ちゃんはそう溢した。
「穂波ちゃんも知らなかった?」
「楽器が上手ってことまでは」
「ことまでは、というと?」
私の問いに、彼女ははっとして口元を覆う。
どうやら、突っ込んじゃいけなかったところらしい。
「ああ……聞かなかったことにしてもいいよ」
「いえ、その、私の失言ですし……それにたぶん、全く関係ないことでもないと思うので」
互いに譲り合うよに頭を下げる。
それから穂波ちゃんは、ちょっとためらいがちに教えてくれた。
「歌尾さんのお父さん、その道では有名な音楽家さんらしいんです。コンサートとかお呼ばれすることが多くって、あんまり家にはいないそうで。寂しいみたいで」
「へえ」
「あと、お母さんも地元で音楽教室やってるとかで」
音楽一家というわけか。
それならまあ、楽器が上手いというのも頷ける。
「中学のことは……たぶん意図的に、あんまり話してはくれないんですが。家族のことは教えてくれたんです」
「でも須和さん、そんなこと一言も言わなかったな」
その道がどの道かは知らないけど、同じ県の有名な音楽家なら、知ってそうな気はするけど。
それならもっと彼女のことを調べて、中学生のうちからスカウトしていたかもしれない。
でも、同じ高校にいるのは偶然だという。
「本当に演奏だけ聞いて、良いなって思ったんじゃないの」
すると、それまで呑気にお茶を飲んでたアヤセが口を挟んだ。
確かに、須和さんは宍戸さんの家のことは一切触れなかったし、もしかたら知らないか……知ってても、宍戸さんの縁者だとは気づいていないのかも。
「確かに須和さんは、宍戸さんの演奏のことしか言わなかったよ。それ以外は興味ないって感じ」
宍戸さん自身にも、宍戸さんの気持ちにも。
音楽の完成度を高めるために、彼女の音が欲しい。
ひたすらに純粋で、清々しいほどにストイックで、氷のように冷たい願い。
「だとしたら私、歌尾さんにはちゃんと、須和さんと話をして欲しいです」
それが穂波ちゃんの意見だった。
「宍戸さんは嫌がるかもしれないけど……?」
その質問は、ちょっと意地悪だったかな。
現に、穂波ちゃんはちょっと迷ったように俯いてしまう。
「せっかく認めてくれるひとがいるなら。それになんだか、勿体ないような気がするんです」
「勿体ない?」
「須和先輩というひとにそこまで言わせるくらいの、それまでの歌尾さんの努力が」
努力――そこで才能と言わないのが、なんだか穂波ちゃんらしいなと思った。
キラキラ青春真っ盛りでも、彼女のことを受け入れられているのは、きっとそういうところ。
「私も勿体ない気がするな。ほら、ウチの吹奏楽部って強豪の枠にいるし。今の代は特に、いいとこ狙えそうって話だし」
それはアヤセの意見。
個人の力があって、チームにも力があって、結果が残せそうなら、挑戦しないのは勿体ないこと。
理屈としてはよくわかる。
「やりたくないのなら、無理にやらないほうが良いと思うけど」
そしてこれが私の意見。
実力と環境があってなお、その道を選ばないという決断をした。
彼女なりの高校デビューを果たそうとしたその覚悟を、私は無視できない。
「須和先輩から言われたこと、歌尾さんには伝えるんですよね?」
念を押すように穂波ちゃんが言う。
「それはまあ、近いうちに」
「その時、私も一緒にいていいですか?」
「穂波ちゃんも?」
「聞いちゃったらもう、力になるしかないと思うんです」
それはまあ、相談というていで巻き込んだ私たちの……というかアヤセの責任だ。
宍戸さんとは、正直なところあまり上手く話ができるビジョンが見えないし、穂波ちゃんが間に入ってくれる分にはありがたい。
すると、アヤセが空になった湯呑を置いて、私と穂波ちゃんとの肩を交互に叩いた。
「じゃあ、ここは会長と一年生にお任せするということで」
「は? まって、ここで放り投げるの?」
「あんまり大勢で押し掛けても圧迫面接みたいだろ」
ぐうの音も出ない。先輩ふたりに友人まで押し掛けられたら、彼女が縮こまってしまいそうだ。
「まあ、直接じゃなければ手伝うからさ。スワンちゃんの方とか」
それはそれで助かるけどさ。
それからアヤセは、内緒話するみたいに顔を寄せて声をひそめた。
「ついでに歌尾と仲良くなっときな。ユリと一緒に遊びにもいくんだろ?」
そう言われて、私は観念したように頷く。
なんでこんな板挟みになっちゃったんだろ。
考えることがいっぱいで、もう頭がパンクしそうだ。
でもとにかく今は、やれるだけのことをやるしかない。