祝日の生徒会室で、毒島さんとふたり参考書を開いて、顔を突き合わせる。
なんでこうなっているのかよくわからないけど、ひとつだけ言えるのは、私は騙されてここにいるということだった。
――明日、生徒会のみんなで勉強会をしませんか。
そう毒島さんからメッセージが送られてきたのが昨日の夜のこと。
ちょうどユリの家にスマホを届けに行った帰りだった。
なんで生徒会のトークルームじゃなくって、個人のトークルームで送ってきたのか疑問はあったけど、そろそろ課題は終わらせてしまいたかったし、何も考えずにOKの返事を出した。
別個にアヤセにも連絡を取ってみたら、彼女は「五日まで家が忙しいからパス」との返事がきた。
そこが最後のポイント。
勉強会のことを初めて聞いたらしいアヤセの口ぶりから、いくらでも疑念を抱くべきだったんだ。
翌日、生徒会室に行ってみると、私より先に来ていた毒島さんが出迎えてくれた。
彼女はいつもの調子でお茶を淹れてくれて、それから「とりあえず先に始めてましょう」と言って、それぞれ自分の課題をこなすことになった。
私も彼女も、学校の成績は良い方なので、課題くらいであれば互いに教え合うようなことはそうそうない。
もっぱら後輩ちゃんたちに教えることになるのかなと勝手に思っていたけど、それもなかなか現れない。
流石に不思議に思って声を掛けた時には、勉強をはじめてからゆうに一時間は経過していた。
気まずさが妙な集中力を与えてくれた。
「みんな遅いね」
一時間の沈黙を経ての第一声と考えたら、私としてはかなり頑張った方だと思う。
毒島さんは、その一言で顔をあげると、静かにペンを置いた。
「いったいどこまで引っ張るのかと、心配どころか楽しくなり始めていたところでした」
「何が……?」
「誰も来ませんよ、今日は」
そう言って、毒島さんは手元のノートと参考書をぱたりぱたりと閉じていく。
私はこの期におよんで状況が理解できていなくって、ただただ首をかしげることしかできなかった。
「私、人生ではじめて嘘をつきました。すごく緊張はしましたけど、やってみたら意外となんともなくって、拍子抜けと言えば拍子抜けでした」
そう言って、彼女は自重するように笑う。
「ごめん、私まだよく理解できてない」
「会長って、想定外の事態にとことん弱いですよね」
それは自覚しているけど。改めて言われてしまうと、怒るを通り越してちょっとへこんでしまう。
そんな私を見て毒島さんは、今度ははっきりと、嬉しそうに笑った。
「今日は、なんの疑いもなく来てくれたってことですね。それは素直にうれしいです」
「要するに、私を呼びつけるために、勉強会があるって嘘ついたってこと……?」
「そうなります」
「……なんで?」
いや、なんで?
まさか……果たし状?
会長の座をかけて、私と直接一戦交えようと……?
というのは自分を落ち着かせるための方便で、実際はただ目の前の情報を頭で受け止めきれていないだけ。
茶化してしまうのは、それを気取られたくないがゆえの、自衛反応でしかない。
「会長が昨日、助けてほしそうな目をしていたので」
「助け? 私が?」
「はい」
まっすぐに見つめてくる彼女の視線と違って、私の視線はふらふらと宙を泳ぐ。
自覚がない話。
だけど心当たりはある。
戸惑っているとしたら、それはきっと、相手が毒島さんだからだ。
「私、気の利いたことってできないので……直接的な手を使うことにしました」
「……というと?」
「私に力になれることはありますか?」
彼女は臆した様子もなく、ただ真っすぐに切り込んでくる。
友達付き合いの少ない彼女の刃は、アヤセなんかのそれとは違って、きっと銘すらないなまくらだ。
でも真剣勝負だったら、「真っすぐに振り下ろされる」という一点において、切れ味の差は大した問題じゃない。
避けるか受けるか。
何もしなければ、等しく致命傷だから。
「別に、何もないよ」
受けるのは不利と考えて、私は避けることにした。
のらりくらりといつもやってきたこと。
人に弱みを見せるのは苦手だから、少しでも良い人に見えるように。
私みたいな人間は、大きなプラスを求めるよりも、小さなマイナスを恐れる。
そして自分を見せたところで、それはマイナスでしかないことを誰よりもよく知っている。
「何もないはずがありません。じゃなかったらあんな顔……あんなに苦しそうな目、私は見たことがないです」
「むしろ、それがどんなだったか気になるくらい」
「茶化さないでください。私、真剣なんですから」
言葉そのままに、確かに彼女にとっては真剣勝負なのだろう。
退路も、守ることも考えない、隙だらけの正面突破。
不器用の極み。
そういうのが一番、相手にしづらい。
「何かあったとしても、毒島さんの力を借りても、どうしようもないことだってあるでしょ」
「そういう……どうでもいい人間だからこそ、相談できることもあるんじゃないですか?」
そう言葉を返すとき、彼女はひどく辛そうな顔をしていた。
「……そこまでしてもらう義理なんて、ないと思うけど」
「それはそうですけど……でも、理由ならあります」
「なに」
「私があなたを好きということです」
辺り一帯に流れる時間が、一瞬止まったような気がした。
たぶん、私も彼女も、言葉の意味を深く理解いしていなかった。
時間が動き出したのは、毒島さんのはっとした吐息がこぼれてから。
彼女は、私が口を開いて何かを言う前に、ちょっと待ってと手のひらを差し向けた。
「あの、違いますから! 人間としてって意味ですから! 勘違いしないでくださいね!?」
「ああ、うん。それは分かってるけど」
びっくりしたのは本当だ。
あまりに真剣な空気だったせいもあるだろうけど、それでも告白か何かのように聞こえてしまっていたのは、きっと私がそういう人間だから。
反射的に出かかった「ごめんなさい」を、口にする前に飲み込めて本当によかった。
「嫌われてると思ってた」
「嫌いですよ」
代わりに口から出た言葉に、毒島さんはピシャリと言い放つ。
「我がままだし、天邪鬼だし、いつまでも友達って認めてくれないし、仕事はしてくれないし……私とは正反対。それが羨ましい。これは嫉妬の『好き』です。憧れの『好き』……と言ってもいいかもしれません」
「それって、好きって言えるの?」
「嫌った方がいいですか?」
それはまた別の話だけどさ。
毒島さんもそれは分かっているのか、折れた話の腰をもとに戻した。
「そんな、自分勝手なあなたが悩むなんて相当なことじゃないですか。それって、ひとりじゃどうしようもないことじゃないんですか?」
彼女の中で、私がどう見えているのかは置いておくとして。
彼女が本気で私のことを心配して、はじめての嘘までついて、こうして話を聞いてくれているんだってことはよくわかる。
問題があるとしたら、それは私のほうなんだ。
どんな些細なことであっても、誰かに内面をさらけ出すことが怖い。
それが自分の心臓みたいなものであれば、なおさらに。
「ごめん、私……」
かろうじて口にできたのはそこまで。
それ以降は、喉が内側に張り付いたみたいに、ひと言も声をあげることができなかった。
しばらくの沈黙。
それは、毒島さんが私のことを「好き」と称してくれた時よりもずっと長く、ずっと思い時間。
自分で自分が今、どんな顔をして毒島さんの前に座っているのか分からない。
だから鏡を見るように見つめ返した彼女の顔は、ただ優しい笑顔を浮かべていた。
「……無理を言ってすみませんでした。突然のことだから、びっくりしちゃいましたよね」
そう言って彼女は、机のうえに広げていたノートや参考書を鞄にしまう。
「気にしないでください。私も気にしませんから。それに、私があなたを好ましいと思っていることも、何も変わりませんから」
毒島さんは身支度を整えると、すくりと席から立ち上がる。
それから礼儀正しく一礼した。
「それでは、今日はこれで。そうだ……生徒会の打ち上げ、休まないでくださいね。会長がいないと始まりませんから」
それだけを言い残して、彼女は生徒会室を後にした。
結局、それにすら言葉を返せなくなっていた私は、ようやく思い出したようにひとつ息を吸い込む。
今すぐここで「あんたなんて大っ嫌い!」って言って、顔面にお茶でもぶっかけられた方が、いくらでもマシというものだ。
そんな考えすらも自分勝手な妄想でしかないのは分かってる。
事実はただ、私は彼女を傷つけたということ。
そして私は、そんな自分が大っ嫌いだということ。