101. チートは犯罪

 俺は心臓が凍った。管理者権限を持つ男、ヌチ・ギ。この世界において彼の権能は無制限、まさに絶対強者が俺を見つけてやってきた。絶体絶命である。さっきまでの幸せが、一瞬にして砂上の楼閣のように崩れ去ろうとしていた。


 俺はすかさず飛んで逃げようとしたが……体が動かない。金縛りのようにロックされてしまった。全身に走る恐怖と焦りが、俺の思考を麻痺させる。


「ぐぅぅぅ……」


 いろいろと試行錯誤するが魔法も何も使えない、これが管理者権限かと改めて不条理な世界に絶望する。自分の無力さに打ちのめされそうになる中、俺の頭の中には一つの思いだけが残っていた。


 どうしてもドロシーだけは守らなければ――――。


 その一心で、俺は必死に体を動かそうとする。しかし、その努力も虚しく、俺の体は微動だにしない。朝もやの向こうの人影は、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。その足音が、俺の心臓の鼓動と同期しているかのようだった。


 時間が止まったかのような、この緊迫した瞬間。俺は、ただ、ドロシーのことだけを想っていた。ドロシーと過ごしたわずかな時間が、どれほど尊く、かけがえのないものだったかを痛感する。


 「ドロシー……ごめん」


 その言葉が、俺の心の中でこだまする。絶望の淵に立たされながらも、最後まで愛する人を守りたいという思いが、俺の心を支えていた。


 ヌチ・ギは音もなく柵を飛び越え、俺の目の前に降り立つ。その姿は、朝靄の中から現れた不吉な影のようだった。


 高く特徴的な声が響く。


「ふーん、君がユータ……。どれどれ……」


 ボサボサの長髪に少し面長の陰気な顔、ダークスーツを身にまとってヒョロッとした小柄な男はしげしげと俺を眺めた。その目には、冷たい審判の光が宿っている。


「い、いきなり……、何の用ですか……」


 金縛り状態の中で俺は必死に声を出した。声に滲む隠しきれない恐怖――――。


 ヌチ・ギはそんな俺を無視して空中を凝視する。どうやら俺には見えない画面を見ているらしい。その様子は、まるで神が世界を俯瞰しているかのようだった。


 時折何かにうなずきながら淡々と空中を見続けるヌチ・ギ。どうやら俺のステータスや履歴のログを見ているようだ。その様子に、俺は自分の人生が他人によって審査されている違和感を覚えた。


「あー、これか! 君、チートはいかんなぁ……」


 そう言いながら、さらに画面を見入るヌチ・ギ。その表情には、軽蔑の色が浮かんでいた。


「本来なら即刻アカウント抹消だよ……」


 そう言いながら、指先を空中でクリクリと動かし、タップする。その仕草に、俺の運命を左右する重みを感じた。


「え? それは死刑……ってことですか?」


「そうさ、チートは重罪、それは君も分かってただろ?」


 ヌチ・ギはそう言いながら画面をにらみ続ける。その冷淡な態度に、俺は絶望感を覚えた。


「あー、このバグを突いたのか……。良く見つけたな……」


「わ、私はヴィーナ様の縁者です。なにとぞ寛大な措置を……」


 俺は金縛りの中で懇願こんがんする。もはやそこにしか頼るものがない。


「ヴィ、ヴィーナ様……?」


 ヌチ・ギはギョッとして俺の顔をのぞきこむ。


「日本で同じ大学で……」


 俺は必死にプッシュしようとしたが、ヌチ・ギは顔をしかめて続けた。


「あの人にも困ったもんだ……。じゃあ、チートで得た分の経験値は全部はく奪、これで許しておいてやろう」


 そう言いながら、指先をシュッシュッと動かすヌチ・ギ。この動きで俺の運命が決まっていくと思うと切なくなる。


「一割くらい……、残しておいてもらえませんか? 結構この世界に貢献したと思うんですが……」


 なんとかダメ元でお願いをしてみる。


「ダメダメ! 何を言ってるんだ。チートは犯罪だ!」


 ヌチ・ギは指先でターン! と空中をタップする。


 その瞬間、世界が一瞬静止した――――。


 直後、俺の身体は青く光り、激痛が俺の身体を貫く。


「ぐわぁぁぁ!」


 その痛みは、これまで経験したことのない激しいものだった。


「急激なレベルダウンは痛みを伴うものだ。まぁ自業自得だな」


 俺は身体からどんどんと力が抜けていくような虚脱感の中、刺すような痛みにもだえ苦しむ。その痛みは、単なる肉体的なものだけでなく、これまでの努力が水泡に帰す精神的な苦痛でもあった。


 朝もやの中、俺の絶叫が静寂を破っていく――――。

た。


 ガチャ


 ドアが開き、毛布を羽織ったドロシーが顔を出す。その姿は、朝の光に照らされて柔らかく輝いていた。


「あなた、どうしたの……?」


 まだ寝ぼけているドロシーの声には、無邪気さが感じられる。


 マズい! ドロシーをヌチ・ギに見せてはならない。俺は痛みの中必死に叫ぶ。


「ドロシー! ダメだ! 早く戻って!」


 俺の声には、切迫した恐怖が滲んでいた。


 しかし、ヌチ・ギは振りむいてしまう。


「ほぅ……、これはこれは……、美しい……」


 ヌチ・ギはいやらしい笑みを浮かべる――――。


 その目には、獲物を見つけた捕食者のような光が宿っていた。