第5話 新宿区・アートシアター・ムーンパレス

 新宿二丁目と三丁目のあいだにある小さな劇場、アートシアター・ムーンパレス。

 本日の演目は劇団ヴァンプ主催・音楽劇『郭公の見る夢』だ。


 何の連絡もなく当日券を押さえて劇場に駆け込んできた不田房、それに宍戸と鹿野を目にしたアートシアター・ムーンパレスの支配人檜村ひむらは「三人ともどうしたの? 幽霊でも見たような顔」と呆気に取られた様子で言った。幽霊──に類するものを目にしたのは鹿野と宍戸であり、不田房は何も見ていない。そのはずだ。


「いやちょっと……石波いしなみ小春こはるってもう楽屋入りしてる?」

「ああ、フサちゃんあの子と顔見知りなんだっけ」

「それほどの仲じゃないよ」

「とっくに劇場入りしてはいるけど、フサちゃんだって知ってるでしょ。ウチの楽屋、そんなに広くないから面会は公演後」

「それは〜……分かってるけど。はあ。ん? ていうか小春ちゃんは俺のこと認識してるんだっけ?」

「そんなことまで俺が知ってるはずないでしょう。俺はあくまでこの劇場の支配人。どうしても面会したいっていうなら、公演後だよ」


 檜村の声に背中を押されるようにして、三人はアートシアター・ムーンパレスの客席に足を踏み入れる。既に開場時間は過ぎていた。全席自由席。最前から、目線の高さでステージを見ることができる中央列を中心に客席は埋まり始めていた。


「あー俺、いちばん前にしようかな。空いてるし。鹿野も、」

「うちは最後列でええです……なんか嫌な予感する」


 不田房の誘いを即答で断る鹿野に「俺も後ろの席でいいや」と宍戸が続く。


「前の方の席だと脚どこに置けばいいか分からなくなる」

「宍戸さん体半分脚ですもんね。後ろの通路側にしましょ。それじゃ不田房さん、終演後に!」

「えーっ!!」


 不田房を置き去りに、鹿野と宍戸はそそくさと最後列に向かう。座席を幾つか潰して作られた照明・音響卓には顔見知りのスタッフが座っている。この業界は、大して広くはない。知り合いの知り合いが友だちだったり、もしくは以前の公演で一緒に仕事をした人間であることも少なくはない。


「あれ? 宍戸さんに鹿野ちゃん?」

「どうもです水見みずみさん」

「よう」


 音響卓に座って客入れの音楽を流しているのは、宍戸と同じ現場に入ることが多い音響技師の水見みずみ瑛一えいいちだ。顔中に無数のピアスをぶら下げ、長い黒髪を編み上げた水見はへにゃりと優しい笑みを浮かべてふたりに手を振る。


「びっくりしたぁ! なんだ、来るなら言ってくれれば良かったのに。前売り価格で入れましたよ?」

「急に決まったんだ」

「最前列にいるの、アレ……不田房栄治さんですよね?」


 宍戸が黙って首を縦に振る。不田房は、やはり目立つ。いい男なのだ。背が高くて顔が小さい。端正な顔立ちをしているがどこか愛嬌があり、鼻の上に残るそばかすも他人だと思って見ればどことなく愛らしい。鹿野にとって不田房は他人ではないので、何ひとつ愛らしくはないのだが。


「やっぱ格好良いな〜」

「そうですかね?」

「鹿野ちゃんは見慣れすぎちゃってるんだって! 俺、不田房さんとだったら付き合えるかも〜。でも不田房さんの好みじゃないかなぁ」

「水見さん、悪いこと言わないから絶対やめた方がええですよ。あの人ほんまに見た目だけですから」


 眉根を寄せて言い募る鹿野に水見はニコニコと笑みを向け、「とりあえず座るか」と宍戸が鹿野の肩を押した。


「……何か見えるか?」


 水見に聞こえないよう、宍戸がそっと耳元で囁く。鹿野は小さく首を横に振る。


「何も。宍戸さんは?」

「俺もなにも。……石波小春はやっぱり……」

「あ、時間です」


 スマートフォンの電源を落としながら、鹿野は宍戸の言葉を遮る。客入れの音楽が途切れ、僅かな沈黙。場内の照明が柔らかく、蕩けるように落ちていく。

 音楽劇、『郭公の見る夢』の幕が上がる。


 白状すると、鹿野には公演中の記憶がほぼなかった。寝落ちしていたのだ。宍戸の肩にもたれてすやすやと寝息をたてる鹿野を、肩の持ち主は起こさずにいてくれた。とはいえ何度か、意識を取り戻す瞬間はあった。石波小春が舞台上にいるタイミングだ。


 歌が。

 うまい。


 歌というよりはほとんど音だった。いや、この表現もあまり正しくはないかもしれない。


 電車の中で見かけた通り、そして株式会社ジアンのホームページで確認した写真の通り、鹿野よりも少しだけ背が高く、それでいてまるで妖精のようにほっそりとした体躯。その体のどこから出しているのか分からないほどによく響く歌声に、鹿野は何度も夢の中から引き戻された。


 母・不動ふどう繭理まゆりに良く似ている、と思った。


 あの夜、間宮探偵が喫茶店に持ち込んだ、劇団傘牧場の台湾公演──解散前最後の旅行の写真。その写真の中で見かけた不動繭理に、石波小春は瓜ふたつ、とまではいかないが、良く似た顔立ちをしていた。強いて言うならば、石波小春の方が少しばかり甘い、優しげな面差しをしている、とでも言えるだろうか。


「……めちゃくちゃ寝てたな」

「すみませんご内密に。嫌な予感、こっちで当たっちゃいました」

「最前列で爆睡はちょっとな。ま、俺も眠かった」

「音楽劇ってのは難しいですね。不田房さんもやりたいって良く言ってますけど、なかなか……」


 などと小さく言葉を交わしながら、宍戸と鹿野は客席から劇場ロビーへと向かう。不田房は、最前列にはもういなかった。ひと足先に石波小春の顔を見に出て行ったのかもしれない──


「宍戸さん、鹿野ちゃん!」


 声がした。檜村支配人の声だ。


「どうしたんです、檜村さん……」

「ちょっと、マズい、かも」

「え?」


 鹿野は正直、まだ眠かった。だから事態を正確に把握するのが遅れた。

 普段ならばキャスト、スタッフの出待ちや関係者などで溢れ返っているはずのアートシアター・ムーンパレスのロビーには、誰もいなかった。

 正確には、鹿野、宍戸、そして檜村のほかに、ふたりの人間がいた。


「だから、わたしがに言いたいのは」


 ひとりは、不田房だ。その胸元に指を突き付けながら、黒いスーツ姿の女性が言った。


「今さらなだがどうとか、いったい何の話? 灘と、能世のぜと、わたし。わたしたちの関係にエイジくんが首を突っ込んでくる権利って、あるのかな」

「いや……だからさ繭理まゆりさん……」


 不動ふどう繭理まゆり、と呟いた宍戸がぽかんと口を開いている。檜村支配人は頭を抱えている。


「それに──小春に会わせろ? いったいどういう権限で? 石波小春は、わたしの娘で、、ジアンの大事な俳優です。古い知り合いだからっていきなり面会を申し込んでくるっていうのは、あまりに図々しくない? エイジくんはの他の連中ほど小春とも顔を合わせてないよね。おかしいって思わないのかな?」


 不動繭理は、株式会社ジアンの関係者なのか──眠気が霧散した鹿野は、思わず宍戸の腕を取る。不田房から軽口を奪う女・不動繭理が株式会社ジアンの取締役であるということを、宍戸と鹿野は、数秒後に知ることになる。