それから、半月程が経った吉日の宵である。
いま椒桂殿は、門や
とはいえ、この婚儀は、皇子のそれとしてはごくごく質素なものだ。
すべての儀礼は燎琉個人が与えられているこの殿舎で行い、父皇帝・母皇后の列席もない。もちろん他の皇族も、叔父の鵬明を除いては、いない。
それでも、鵬明が自分たちを祝ってくれるのは、心強かった。
「最初に燎琉に瓔偲との婚姻を命じたのは兄上なのに、本人たちが納得したこの
叔父は兄皇帝に対してこう迫って――表面ばかりは穏やかな笑顔で――この婚儀の最後の御膳立てを整えてくれたらしい。約束通り、
瓔偲は、だから、鵬明の殿舎である
今日、この日。自分たちの婚儀は、それでも、皇嗣とも目される皇帝の子の婚儀とは思われない、いかにも内輪のものといった
ただ、質素な婚儀だからといって、燎琉には不満はなかった。
これは、正式に瓔偲を
自分たちは、今宵、正式な
それを周囲に明かすための、これはけじめの儀礼だ。
燎琉は己を落ち着けるように、ふう、と、ひとつ静かに息をはいた。無意識に門のほうへと視線をやっている。
瓔偲の姿は、まだ、見えてはいなかった。わたしなど、と、時折己を軽んずるところのある瓔偲は、果たして、この期に及んで逃げ出したりせずに、燎琉のところへちゃんと嫁いで来てくれるだろうか。
ふと不安が過ぎったその時だった。
「
瓔偲を載せた
開け放した
頭には
だから、その表情は見えない。
けれども、薄暮の空の下、甘い百合の香がふわりとここまで漂ってくるようで、ほう、と、燎琉は長く息を吐き出した。
きてくれた――……それだけで、燎琉の胸はいっぱいになる。
ちゃんときてくれた、と、もう一度思いながら、燎琉は、いまや
介添えの者に代わって瓔偲の手を取り、己の隣の席へ座らせる。己も座る。また、ふわ、と、清冽な百合の芳香をかいだ気がした。
*
それからも婚儀は粛々と進められた。けれどもその間のことを、燎琉はあまりよく覚えていない。緊張していたのとはすこし違うけれども、それに似て、頭に血が上ったみたいに、終始、ぼう、と、しているようなところがあった。あるいは、気持ちが浮き立っていたのだろうか。
婚儀に置いて最も重要な儀礼は、
次の儀は交杯酒だった。新郎・新娘が腕を交差するように絡めて酒杯を干すというものだが、ちいさな玉杯に満たす酒としては、皓義が桂花陳酒を選んでいた。
酒杯の中で透明に澄んだ黄褐色の液体がゆれていた。
酒にじっくりと漬け込まれた
互いに右手に杯を持ち、腕と腕とを絡め合う。そのとき瓔偲は、自らの顔のすべてをすっぽり覆うように
後から思い起こしてみても、儀礼の間の燎琉のたしかな記憶といえば、そんなようなものでしかない。
そして、一連の婚儀の最後に待つのが入洞房、新郎新娘がひとつ
瓔偲は一度、侍女に伴われて場を下がっていった。
それに合わせて、燎琉も一度、座を退いた。この後、用意が整えば、瓔偲が待つはずの
合図があったのは、四半時ほどが経った頃だったろうか。瓔偲についていた侍女に促されて燎琉が
この後、あの煌びやかな深紅の
それは、新郎新娘がはじめて互いに
もちろん燎琉は瓔偲の容姿をすでに知ってはいるけれども、それでも、訳もなく、緊張にも似た昂りを覚えていた。燎琉との初夜を前に、いま瓔偲は、いったいどんなきもちでいるのだろうか。知りたいようで、知りたくないようで、燎琉はまだしばらく牀榻を前に立ち尽くした。
華燭の
燎琉はひとつ息を吐いた。それから牀榻の中の瓔偲の側へと歩み寄る。
燎琉が傍らに立つと、瓔偲はこちらを仰ぐように軽く顔を上げた。燎琉は相手の顔を覆っている薄い紗へと手をかける。それを合図に、牀榻の仕切の
「失礼いたします」
そう一言だけを残して、侍女がが房間を去った気配があった。
それでなくとも、
百合の香が場に匂い立った。こくり、と、無意識に息を呑んでいた。
ゆっくりと紅蓋頭を持ち上げる。
それにつれて、こちらを見詰める白い
瓔偲の頬が、ほんのすこしだけ薄紅に染まってみえている。蝋燭のほの灯りのせいだろうか。それとも、さっき酌み交わした酒のためだったりするのだろうか。
燎琉と視線が合うと、瓔偲は
「瓔偲」
呼びかけると、相手は、ほう、と、ちいさく息を吐く。
燎琉を見て、はた、はたり、と、ゆっくり瞬きを繰り返した。
「殿下」
瓔偲が囁くような声で燎琉を呼んだ。
その刹那、それまでようやくのところで堪えていたものが、ついに堰を切って一気にあふれだすのを、燎琉は感じていた。
「瓔偲……!」
相手の頬を両手で包むようにすると、そのまま顔を近づける。吐息の混ざる距離で、刹那、見詰め合い、それから溜まりかねたように、相手にくちづけをした。