5-6 賜毒とすれ違い

 皇帝は、瓔偲えいしの死罪を無情にも宣告し、手を振って侍官に合図する。


「っ、ふざけるな……!」


 燎琉りょうりゅうは、己の立場もかえりみずに、父帝を真正面からののしった。


「燎琉、黙りなさい! この者の罪は、皇子に対する叛逆です。その罪をこの者ひとりにとどめて、親戚縁者九族に及ぼさぬだけでも、陛下の御温情に感謝すべきです」


「なにが、温情だ……! なにが! 罪なき者にすべての罪をかぶせ、死をたまわって終いにしようとするのが、皇帝の温情ですか! それが万民を導く皇帝のすることかっ!」


「っ、口が過ぎるぞ、皇子。――はよう、郭瓔偲に毒杯を」


 はっきりとした皇帝の命をけて、近侍官が動いた。瓔偲は後ろ手の縄を解かれ、けれども棒を構えた兵卒に油断なく見張られながら、その手に毒酒の入ったちいさな杯を与えられている。


「瓔偲……!」


 燎琉は羽交い絞めにされたまま、必死に相手を呼ばわった。


 ひざまずかされたままの瓔偲は、手渡された毒入りの酒杯を、いっそうやうやしく両手にいただいている。そのまましばらく動かず、何を思うのか、ただじっと毒杯の中味を見詰めていた。


「……やめろ!」


 燎琉はすがるように言う。


「やめろ……呑むな! 呑むんじゃない! たのむから……!」


 遮二無二頭かぶりを振って、瓔偲に訴えた。


「――殿下」


 そのとき、それまで毒杯を見詰めていた瓔偲が、ふと燎琉のほうを見た。しずかな眸に、燎琉ははっと動きを止める。


「殿下。わたしは……」


 瓔偲が言いかけたときだった。控えよ、と、母皇后が声高に叫んで瓔偲の発言を咎めた。


「誰が口をきいて良いと言ったか」


 鋭い叱責の言葉だったが、しかし、これは父が軽く手を上げて制する。


「かまわぬ。――郭瓔偲、なにか言い残すことがあるか」


 皇帝に訊ねられ、瓔偲はそちらへと視線をやった。


「陛下のご厚情に感謝いたします」


 事ここに及んでも、実に平静に、官吏然として、丁寧に皇帝に頭を下げて礼を示している。


「わたくしなどが言うまでもないことにはございましょうが、殿下は……燎琉さまは、やさしく、誠実で、素晴らしい御方にございます。きっと後々は陛下の施政を引き継ぎ、この国にさらなる繁栄をもたらされるにちがいない。ですから、陛下、どうかわたくしがこの杯をあおりましたあかつきには、ぜひとも殿下を皇嗣こうしにお据えになることをお考えくださいますよう、僭越とは存じながら、伏してお願いたてまつります」


 どうか約束を、と、瓔偲はその黒眸を、まるでおくすることもひるむこともなく、皇帝と皇后とに真っ直ぐに向けていた。


「あい、わかった」


 皇帝がうなずく。


 それを聴いた瓔偲は、ふ、と、安堵したように口許を綻ばせた。


 それから再び燎琉のほうへと向き直ると、今度はやさしく目を眇めた。


「殿下」


「っ、瓔偲……」


 燎琉は眉を寄せる。くちびるを噛んで、声を詰まらせる。


 瓔偲はただしずかに、すこしだけせつなげに、燎琉に微笑みかけてきた。


「そんな表情かおをなさらないでください、殿下。そう、殿下も昨日、おっしゃっていたではありませんか。わたしを咬まねばよかった、と……ごもっともだと、思いました。急にこんな者とつがってしまい、あまつさえ、妃にせよとまで命じられて……けれども、わたしがこの杯をせば、それですべては、元の通りですから」


 瓔偲が微笑みながらつむぐ言葉に、燎琉は目を瞠った。


 ちがう、そうじゃない、と、声にならない声で言って、必死にかぶりを振る。


 たしかに昨日、燎琉は、瓔偲を咬まねばよかった、と、そう言った。でもそれは決して、いま瓔偲が言うような意味ではなかったのだ。


 瓔偲を邪魔者だと思ったのではない。望まぬつがいを持ってしまったと、己の不運を嘆いたのではない。そうではなくて、理性を以て己をとどめることができずに瓔偲を咬んで、国官としての彼の未来を閉ざしてしまった我が行為を、どうしても悔いずにはいられなかった。それだけだ。


 それは瓔偲を疎んだがゆえの発言ではなかった。


 むしろ、彼をひとりの人間ひととして尊重し、たいせつに思うがゆえの、後悔だった。


 瓔偲の願いを、瓔偲の望む在り方を、最後の最後の一線で踏みにじってしまったのが己の行為だというその事実が、燎琉にはつらくてならなかった。ただそれだけで、邪魔だなんて、思うはずもない。


「それに、今朝も……わたしの存在が無意識に殿下を惑わせてしまうのを快く思わないから、薬を呑んだか、わざわざお確かめになったのでしょう? でも、私がこの世から消えれば、憂いは永遠になくなります。もう二度と、殿下のお心をわずらわせることはありません」


「ちがう、瓔偲……ちがうんだ……!」


 燎琉は絞り出すように、苦しげにうめく。


 それもまた、そんなつもりではなかった。誘われるようにくちづけてしまったのは、事実かもしれない。けれども、そのことを厭だなどと思いはしなかった。心の底から湧き出すように滾滾とあふれる想いに戸惑いこそすれ、あたたかくゆたかに己の身体を満たしていくその想いを手放してしまいたいだなどと、燎琉は、決して望んではいない。


 ほんとうは、かなうことなら、瓔偲を自分の傍らから離したくはない。ずっと傍で、言葉を交わし、微笑み合って、そうやって、もっともっとふたりで時を紡いでいければいいと思っている――……ああ、そうだ。今日、仕事を終えて椒桂しょうけい殿でんに帰ったら、瓔偲にそう告げるはずだった。


 それなのにどうしてこんなことになっているのだろうか。


 燎琉は、己の不甲斐なさへの悔いや理不尽への憤り、瓔偲の在り方へのかなしみやせつなさ、そういったものの一切が綯い交ぜになった感情に、うつむいて、ぐぅ、と、うなった。眉をしかめる。昂った感情に、目の奥が、じん、と、熱かった。


 そんな燎琉とはうらはらに、瓔偲は、にこ、と、清潔で静謐な笑みを口許に浮かべた。


「殿下はお優しかった、とても……わたしのような者にも、しかも、突然押し付けられたにもかかわらず、何のてらいもへだてもなく、やさしさをくださいました。もったいないほどに……だから」


 瓔偲はわずかに目を伏せ、白いかんばせをうつくしく笑ませる。


 ふわ、と、やさしい白百合の香が漂った気がした。


「だから、わたしは……殿下で、よかったな、と」


「瓔偲……?」 


「ほんのわずかのご縁でしたけれども、わたしのつがいが殿下で、よかった。身の程を弁えよとお怒りを買うかもしれませんが、でも、いま心から、そう思うのです……死んでもいい、と」


 え、と、息を呑んで、燎琉は瓔偲をまじまじと見詰めた。


 瓔偲はどこまでも透明に澄んだ、清らかな微笑を浮かべている。すべてを諦め、けれども、どこか満ち足りたような、透きとおった陽射しのごときほほえみだ。


「死んでもいいと、おもうのです。あなたさまの、ためなら。それが殿下の御為おんためになるのなら、わたしは……」


 そこで言葉を紡ぐことをめた瓔偲は、ただそっと燎琉に視線を送った。


 それから手に持った杯に視線を落とし、はた、はたり、と、ゆっくりと二度ほど瞬く。


「やめろ……!」


 燎琉は瓔偲に向かって喉から絞り出すような声を上げ、かつ、自分を押さえつける士卒の手を再び振りほどこうとする。


「やめてくれ……!」


 押さえ込まれて、動作もままならぬまま、瓔偲を見据えて乞うよう言う。瓔偲はまだじっと毒の入った酒杯に視線を注いでいたが、すこしだけ顔を上げると、ごくゆっくりと、どこまでもていねいに、燎琉に頭を下げてみせた。


「殿下に御礼と……お別れを」


 声は、静かだ。


 どこまでも、静かだ――……いっそ、かなしいほどに。


 頭が下がるのに合わせ、瓔偲の艶やかな黒髪が肩からこぼれる。その髪を飾っているのは、燎琉が彼に贈ったかんざしだった。覗いた白いうなじには、彼と燎琉とのほだしの証である咬傷があるはずだ。


 それなのに彼は、いま、燎琉のもとを去っていこうとしている――……もう二度と、手の届かないところにまで。


 いっそ官吏然として凛として見える瓔偲の姿に、燎琉は息を詰まらせた。


「どうか殿下は、ふさわしい御方と結ばれ、皇太子におなりになってくださいませ……そして、国に繁栄と、民に安寧を。――殿下のお幸せと万歳とを、心より、お祈りいたします」


 言い終るや否や、瓔偲は躊躇いなく杯に口をつけた。


 瀟洒な酒杯を両手に掲げるようにして、そのまま一気に呷ってしまう。


 白い喉が、こくり、と、嚥下のかたちに動いた。時の流れがそこだけ遅くなったかのような光景を、燎琉はただ、言葉にならぬ絶望とともに、見詰めていることしかできない。


 一瞬のような、永遠のような静寂が蟠った。


 瓔偲が杯を取り落とす。床に落ちたそれ、カン、と、甲高い音を立てて転がった。かと思うと、瓔偲の細い身体がぐらりと傾ぐ。


 とさ、と、その身が地に倒れ伏す音は、いっそ呆気ないほどのかそけさだった。目の前の光景には、まるで現実味がない――……否、うつつだと、信じたくない。


「瓔、偲……」


 燎琉はつぶやいた。ようやく兵卒の手がほどけた途端、まろぶように瓔偲に駆け寄っている。


「瓔偲……瓔偲! 返事をしろ!」


 すでに力なく地に倒れ伏した相手を抱き起こし、燎琉は必死で呼びかける。


 だが、いらえはなかった。ただ、胸に抱いた瓔偲の口許から、つう、と、あかい血が一筋こぼれている。


 燎琉は暗然消魂となる。目の前が真闇に塗り潰されたかのように真っ暗だった。