第31話 男として

 婚約してすぐの頃、ローレンスとリリアーヌは結婚式をどうするか話し合った。リリアーヌは自分は実態はどうであれ一度結婚していた身なのだから、と渋ったのだが、ローレンスは式を挙げることにこだわった。

 盛大にやる必要はないけれど、きちんと誓いは立てたい、と。それを聞いて一応は合意したものの、何となく浮かない顔をしているリリアーヌにローレンスはこう提案した。


「急ぐ必要はない。来年の春はどうだろうか?……その頃になれば、貴女の髪ももう少し伸びるだろうし」


 ローレンスはリリアーヌが髪のことを気にしているのに気付いていたのだった。


 あの時マテオがかなり手荒に鋏を入れたせいで、数か月経ってもまだリリアーヌの髪はようやく肩につくギリギリの長さで揃えられたところだった。

 以前、短くなってしまった髪をどうにか結おうとして上手くいかず涙ぐんでいるところを偶然見かけてしまったことがあり、慰めてやりたかったのだが、敢えて触れると二重に傷つけてしまうかと思い黙っていたのだった。

「気づいていらしたのですか」

「何となくな」

 その件についてはそれ以上言葉を交わすことはなかったが、来年の春という日取りを聞いて表情が明るくなったリリアーヌを見ていると、やはり言って良かったとローレンスは安堵したのだった。


「わたくしの都合でお待たせしてしまって、すみ……」

 すみませんと言いかけたリリアーヌの唇にローレンスは指をあてた。

「リリアーヌ、謝ってはいけないと言っただろう?」

「あ」

 これもまた婚約直後の話になるが、ローレンスはリリアーヌにこう言った。


 自分に責任のないことは、謝ってはいけない、と。


「俺が貴女に対してすることは、すべてやりたくてやっていることなのだから、貴女が負担に思う必要はない。今後俺に対して、すみませんとか申し訳ありませんとかご迷惑をおかけして、という言葉を使うことは禁止。いいね?」

 そしてそれを聞いてまたしても縮こまってしまったリリアーヌに、優しくこう言ったのだった。

「もし貴女が俺に感謝してくれて、何か言いたいと思う時は……そうだな、"すみません"ではなく、"ありがとう"と言って欲しい」

「すみませ……あ」

 反射的に言葉が出てしまったリリアーヌの顔を両手で挟んで、ローレンスは唇を寄せた。

「よし、これからすみませんと言ったら毎回お仕置きで口づけすることにしよう。人前でもどこでも」

 リリアーヌは思わず笑ってしまった。

「気をつけますわ……ありがとうございます、ローレンス様」


 そして今回また無意識にすみませんと言いかけたリリアーヌの唇を、約束通りローレンスの唇が塞いだ。だが今日は、少し様子が違った。

 普段はそっとお互いに触れ合わせるだけなのに、今日はローレンスが少しづつ力を強めて唇を押しつけてくる。

「ふ……ぅ……はぁ……」

 圧に負けて思わず口を少し開けると、ぬるり、と生暖かいものが差し込まれた。それがローレンスの舌だということに気づいてリリアーヌの胸がどきりと高鳴る。

 反射的に身をよじって逃れようとするが、いつの間にかローレンスの大きな手で顎をつかまれてしまっていて顔が動かせない。

 その間もローレンスの舌は巧みにリリアーヌの口を捕らえ、上顎の裏をなぞったり、舌を絡め取ろうとする。

 リリアーヌの頭がじんと痺れ、眩暈がしてきた。熱がある訳でもないのに、身体が妙に熱い。

「ぁ……ロ……レンス……さま……は……ぁ」

 恥ずかしさと愛おしさが混ざり合って、これ以上進んでほしくないような、もっと触れて欲しいような、何とも言えない気持ちが湧き上がってきたリリアーヌがローレンスの背中に腕を回して強く抱きしめようとした時、ふっと唇が自由になった。


「?」

「ここまでにしておこう」


 ローレンスはそう呟くと、リリアーヌの頭を自分の肩にもたせかけさせた。

「ここまで、って……?」

 顔を上げると、ちょうど目の前にあったローレンスの喉仏がごくりと大きく上下するのが目に入った。ローレンスはリリアーヌを見ないようにしながら言った。


「これ以上進むと、俺の歯止めが効かなくなってしまうから」

「……」


 実はリリアーヌは密かに気にしていることがあった。


 ローレンスが、、のだ。


 もうずっと同じ屋敷に住んでいるし、正式に婚約しているのにも関わらず、リリアーヌの寝室は以前から使っている客室のままで、ローレンスの寝室とは屋敷の両端に離れている。

 勿論毎日朝から晩まで幾度となく抱き締め合ったり、手と手を絡ませ合ったり、口づけを交わしてはいるが、夜になると当たり前のようにそれぞれ自分の寝室に下がっていくのだ。


(どうしてかしら、もう婚約も済ませているし、そうなってもおかしくないと心構えはできているつもりなのだけど……)


 結局ローレンスがリリアーヌと一線を越えようとしたのは、あの冬の嵐の夜のたった一度だけだ。

 今日もいつもと違う激しい口づけに、このままもしかしたら……と頭の片隅で思ったのにも関わらず、ローレンスのほうから止めてしまった。


「あの、ローレンス様」

 気が付くとリリアーヌはローレンスに問いかけていた。

「ん?」

「あの……ローレンス様……は……あの……なぜわたくしに……」

 言いかけた途端に恥ずかしくていたたまれなくなり、言葉が続かない。

「どうした?」

 横にいるローレンスの様子が至極普通なのも、恥ずかしさに拍車をかける。

「あの……こ、こんや……く……わたく、しの……寝……室……に……」

「寝室?」

 それ以上言えず、真っ赤になって顔を両手で覆ってしまったリリアーヌが発したという言葉の意味に考えを巡らせていたローレンスが、突然あ! という顔になった。


「あー……あの、それは何だ……つまりだな……」

「い、いえっ、何でもないのです! は、はしたない事を申しました……」


 だが笑うかと思っていたローレンスがリリアーヌの両手を取ると膝の上に乗せてぽんぽんと叩き、真剣な顔で見つめてきたことにリリアーヌは驚いた。

「見ないで下さい、ローレンス様……」

 恥ずかし過ぎて俯き、顔を背けてしまう。もうこのまま死んでしまいたい。

「リリアーヌ」

「……」

「こっちを向いて、リリアーヌ」

「嫌です……」

「そんなこと言わないで。さあ」

 両手で頬を挟まれてぐいっと向きを変えさせられてしまった。


「結婚式が終わるまでは、俺は貴女にれない」

「えっ?」

「あ、触れない、というのは抱き締めたり口づけしたり以上のことはしない、という意味だが」

「……何故?」

 ローレンスが少し悲しそうな顔でぽつりと言った。

「前に貴女に怖い思いをさせたからな……」

「あ……」

 あの時のことを言っているのだということはすぐに分かった。

「でもわたくし、あの時のことはもう……ローレンス様も謝って下さいましたし……」

 ローレンスの表情がふっと緩むと、リリアーヌの手を握り返した。

「貴女が気にしていないと言ってくれるのは有難いのだが、俺は気にしてしまう。あの時、自分の感情だけで先走ってしまったことを本当に後悔している。だから、やり直させてほしい。今度はきちんと段階を踏んで、普通に婚約期間を過ごして、何一つ曇りのない状態で貴女を妻にしたいのだ」


「ローレンス様……」


 リリアーヌは胸が熱くなった。この方は、どうしてこんなにも真っ直ぐで、正直で、思いやり溢れる方なんだろう……

「す……いえ、ありがとうございます。わたくし、嬉しいです」

「分かってくれるか?」

「ええ、勿論」

 ローレンスが自分の手の上にリリアーヌの手を重ねながら続けた。

「本音を言えば今すぐにでも貴女を抱き上げて寝室に連れて行って、俺のものにしてしまいたいよ。でも結婚は神聖な誓いだから、後ろめたい思いを抱いて祭壇に立ちたくはない。だから耐えることにした」

「それを聞いて安心しましたわ。これで毎晩、心置きなく眠れます」

「……俺は眠れん日のほうが多いが」

「まあ、では寝室に鍵を掛けますね。誓いは守られてこそ意味があるのですから」

「ああ、そうしてくれ」


 そう言うと二人は額と額をくっつけて笑い合った。するとローレンスが膝からリリアーヌを降ろして立ち上がった。

「さあ、ではもう少し仕事するかな」

「あら、さっきもうお嫌だと」

「あといくつか決済が残っているから片付けてしまうよ。貴女と話したらやる気が出た。貴女はもうやすむのだろう?」

「はい」

「お休み、リリアーヌ。ああ、明日は俺と一緒に事務所に出てくれ」

「承知しました。お休みなさいませ、ローレンス様」