家までは結構な距離があったが、涙が治まるのまでの時間を考えると丁度よかった。疲れていたこともあって、燿は夜道をゆっくりとしたペースで歩く。一日中走り回っていたせいで、体中がぎしぎしと鳴っているような気がした。

 スマートフォンは水没させてしまったけれど、さっき電気店の店先にあった時計を見ることができたので、だいたいの時間は把握できている。午後九時を回るころには自宅にたどりつけるだろう。

 蒼波になにをどう話すか、どう切り出すか、そんなことばかりを考えながら歩いていた燿は、自宅の前に人影があることに気づかなかった。

「燿!」

 呼ばれて顔を上げ、初めて母親と蒼波がそこに立っているのを見つけた燿は、なにかあったのかと頭を傾ける。母親が駆け寄ってきて燿の二の腕を強くつかんだ。

「なにやってたの! 連絡も全然取れないし、心配したでしょう!?」

 その言葉を聞いて蒼波がここにいる理由が察せられた。出ていったきり一向に帰ってこない燿を心配した母親に付き添っていてくれたに違いない。

「大丈夫なの? どこにいたの?」

「いや、えっと……」

「おばさん。燿ちゃん、お腹空いてるんじゃないかな」

 矢継ぎ早に投げかけられる質問にたじろぐ燿に、助け船を出してくれたのは蒼波だった。蒼波のひと言に母親は気持ちを切り替えるかのようにため息をひとつついた。

「とにかく、お風呂に入ってごはんを食べなさい」

 燿はうながされるまま蒼波とともに家の中へと入り、まずは風呂に直行する。改めて自分の姿を見てみると汗で汚れているだけではなく、ところどころ泥や砂がついている。これは風呂に叩き入れられるのも仕方ないとウエアを脱いで、体を洗って湯船につかった。とたんにぐうと腹が鳴るのには笑ってしまう。蒼波の言う通り、とても腹が減っていた。

 その蒼波があんな風に自分をかばってくれたのは、きっと母親と同様に燿を心配してくれていたからだ。決して心配させようと思って今日の計画を実行に移したわけではないが、結局心配させてしまったのだから、それを含めてきちんと謝らなければならない。

「スマホさえ水没しなけりゃな」

 風呂を出てスウェットに着替えた燿はリビングへと向かった。ダイニングテーブルに着いている蒼波と、食事の用意をする母親の姿が目に入る。煌は二階の自分の部屋にいるのだろう。

「蒼波、食ってねぇの?」

 燿の問いに蒼波はこくりとうなずいた。

「燿が帰ってこないから、蒼波くんも心配で食べられてないのよ!」

「……悪い」

「ううん。燿ちゃんが帰ってきてよかった」

 蒼波の小さな声を聞いて、もしかして家出をしたと思われたのかと燿は申し訳なくなる。同時に母親の説教が長引くだろうと予想した。

「いただきます」

 温め直してもらった味噌汁をすすり、鮭のフリッターに箸を伸ばす。燿が食べ始めたのを見て、蒼波も箸を手に取った。食事中にそれほど会話があるわけではない。いつもならくだらない話で盛り上がるところだが、燿は二人を心配させてしまったことを反省していたし、なにより蒼波の誤解を解くことを一番に考えていた。蒼波も依然として口数が少ないので、食事は静かに進んでいった。

「実はスマホを川に落としちまって」

「それで連絡がつかなかったのね」

「本当に悪かったと思ってる」

 燿は連絡が取れなくなったことについて説明する。母親は呆れていたが、隣で食べている蒼波がほっとした様子を見せたのを燿は見逃さなかった。蒼波が食事を終えるのを見計らって、燿は母親に頼んだ。

「あのさ、かーちゃん」

「なあに」

「明日ちゃんと怒られるから、今夜は蒼波と話させてほしい」

 勢いよく椅子から立ち上がって逃げようとした蒼波の手首をつかんで、燿は蒼波を見上げる。蒼波はそんな燿から視線を逸らして、手を放してほしいというように軽く腕を振った。それでも燿は引き下がらない。

「話がしたいんだ」

「もう話すことなんて……」

「俺にはある」

 ともすれば険悪なムードに突入しそうな燿と蒼波を見て、燿の母親が声をかけてきた。

「二人ともちゃんと話をしなさい。燿のお説教は明日にするから」

「さんきゅ、かーちゃん」

 燿は蒼波の手首を握りしめたまま、ボディバッグをもう片方の手に持って玄関に向かう。

「え、燿ちゃんの部屋じゃなくて?」

「ウチじゃ会話が筒抜けるだろ」

 焦った声を出す蒼波だったが、燿のその言葉に肩を揺らした。燿がなにについて話をしたいのかを理解したらしい。蒼波は困ったように眉を八の字に寄せてうつむいている。そんな蒼波の手を引いて、燿は慣れ親しんだ隣の家へと入っていった。

 燿は蒼波を連れて彼の部屋を目指す。目的の場所が自分の部屋だと気づいた蒼波は階段の途中で動かなくなった。

「危ねーだろ! とにかく階段上がれよ」

「やだ」

 駄々をこねる蒼波をぐいぐい引っ張ってなんとか二階まで行くと、燿はためらうことなく蒼波の部屋のドアノブに手をかける。

「やめて! 燿ちゃんやめてよ!」

 ドアノブに飛びついて阻止する蒼波が、部屋を見られたくない理由が燿には飲み込めなかった。宝物を捨ててしまったことを燿が知っているのは蒼波ももう解っているはずだ。それでもこんなに嫌がるということは、部屋になにかあるのだろうか。

 蒼波を押し切る形で彼の部屋に入った燿は、言い知れない淋しさに襲われた。丁寧に飾られていた瓶や小物がなにひとつ残っていなかったからだ。それらを捨ててしまったことは解っていたけれど、目の当たりにすると衝撃はすさまじかった。

 気まずそうに部屋の入り口にたたずんでいる蒼波を室内に引き入れて、ボディバッグを蒼波に向かって差し出す。

「これ、蒼波に」

 燿はいつになく緊張していた。たくさんのものを拾い集めてきたけれど、今になって急にそれらがただのガラクタに思えてきたのだ。こんなもので蒼波は喜ぶのだろうか。口の中がからからに乾いていくのを感じていた。

「なに? バッグがどうかしたの?」

 不思議そうに燿を見つめる紅茶色の瞳から、燿は逃れるように顔をそむける。蒼波はわけが解らないという顔のまま、ボディバッグを開けた。ことん、かちゃんと音を立て、小石と金属の輪っかが落ちる。

「えっ」

 声を上げた蒼波がボディバッグをごそごそとあさり始めるのを見て、燿は安堵とおかしさが混ざったような気持ちになった。

「こんなにどうしたの!?」

「たまたまだ! たまたま朝走ってて公園に、なんか落ちてて! そんで、たまたま気が向いて散歩してだな。神社とか見つけたからお守りのひとつでも買っとくかって。たまたまだからな! 俺はきれいなのとかかわいいのとか解んねーし。本当にたまたま」

「燿ちゃん!」

 照れ隠しに捲し立てていた燿は、突然蒼波に抱きすくめられて言葉を失う。頬が熱くなるのを感じた。

「燿ちゃん、燿ちゃん」

「なんだよ。気に入らなかったのか?」

 ボディバッグ片手に突進してきた蒼波はしゃくりあげるばかりで、燿の名前以外は言葉を忘れたようになっている。燿はやはり自分が拾ってきたものは蒼波の美の基準には当てはまらなかったのかと暗い気持ちになりかけた。

「うれしい。宝物がたくさんで、俺うれしいよ」

 蒼波のその言葉を聞いて、鼻の奥がツンとしてくる。慌てて上を向いて涙をこらえようとした燿の目に、大きくも小さくもない段ボール箱が映った。宝物を分類してしまっておくときも、蒼波はきれいな缶や箱を使うので、この部屋に段ボール箱があることに燿は違和感を覚える。 

 床の上にボディバッグからひとつずつガラクタ、もとい宝物を並べていっている蒼波を横目に、燿は段ボール箱を開けてみようと手をかけた。

「待って! 燿ちゃん、ダメ!」

 気がついたらしい蒼波が燿の腰の辺りに取りすがってくる。だが、燿が段ボール箱を開ける方が早かった。

 中には、猫やうさぎ、パンダのマスコット、ペットボトル飲料のオマケ、小学生のときに一緒に買ったキーホルダー、先日一緒に学校へ行く途中で見つけた空色のビー玉、ほかにも燿が渡したもの、一緒に見つけたものや買ったものが入っている。

「ごめ、ごめんなさい!」

「なんだ!? どうした!?」

 突然の蒼波の謝罪に、燿は声を上ずらせながら問い返す。

「もうきれいなのも、かわいいのも持ってちゃダメなのに。燿ちゃんにもらったものは、どうしても、どうしても捨てられなかった」

 燿の腰に抱きついたまま、蒼波がとうとう声を上げて泣き出す。燿はただ蒼波のふわふわとした茶色い髪の毛を見つめていた。

「ごめんなさい」

 子供のようにわんわんと泣きながら、蒼波は燿に謝り続ける。

「燿ちゃんを好きで、ごめんなさい……!」

 こんなにも強く想われていたことに燿は驚いていた。きれいでかわいいものを愛でる蒼波の美しい心が自分へ向けられていて、あの瓶や小物に対するのと同じように、いや、それ以上の愛情を注いでいてくれたのだ。

 ぼやけていく視界を今度こそどうすることもできず、燿は蒼波の頭をそっと抱き込んだ。蒼波がびくりと肩を震わせ、おびえた視線を燿に向けてくる。

「燿ちゃん、泣いているの?」

「ごめんな。俺が悪かった」

「どうして燿ちゃんが謝るの。悪いのは俺なのに」

「お前はなにも悪くない」

 蒼波にどうやって説明して謝罪しようかと迷っていたのが嘘のように、燿の口からはすらすらと言葉が出てきた。頭を抱え込まれている蒼波が、燿を見上げようとしては失敗している。泣き顔をみせまいと燿が腕に力を込めたので、うまくいかなくなったようだ。

「でも燿ちゃん『気持ち悪い』って」

 やはり蒼波はその言葉を気にしていたのかと、燿は歯噛みする思いだった。蒼波に対して言ったのではないと説明はしたものの、理由を話していなかったので納得していないかもしれないとは思っていた。予想通りの展開に、燿は一度大きく息を吸い込んだ。

「あれは、俺に言ったんだ」

「どういうこと?」

 蒼波の疑問はもっともだった。独り言を漏らしただけと言われても、あの場面であの言葉だ。理由を聞く権利が蒼波にはある。

「その、お前としたのが」

「うん? なにを?」

「だから! キスが気持ちよかったからビビったんだよ!」

 つい声を荒らげた燿は、はっとなって抱えている蒼波の顔を覗こうとした。だが、蒼波の方が顔を伏せてしまっていて見ることができない。怒鳴ったので気を悪くしただろうか。素直になろうとしているのに、どうしてこうもうまくいかないのだろう。

 ややして、蚊の鳴くような声で蒼波が問うてきた。

「それってキスだけ?」

 よく見れば、蒼波の首も耳もまた真っ赤になっている。泣いているにしては声がしっかりしているので、これはたぶん恥ずかしがっているのだと思われた。

「違う」

「じゃあ、どうして?」

 燿の腕を両手でほどいた蒼波が、ゆっくりと見上げてくる。

 逃げられない。逃げてはいけない。逃げるつもりもない。燿の心は決まっていた。

「蒼波だったから」

 そう蒼波へと告げると、紅茶色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。それをすくい取ってやりながら、燿は優しく微笑んだ。

「俺も蒼波が好きだ」

 膝立ちのまま燿の腰を抱いていた蒼波に視線を合わせようと、燿はその場に座った。蒼波の手が腰から離れて燿の頬を包み込む。

「なんだよ」

「俺、しあわせ」

「大げさだな」

 言い終わるか終わらないかのうちに、燿の唇はふさがれていた。羽根が触れるような唇を合わせるだけのキスだ。やはり蒼波だから気持ちがよいのだと燿は再確認していた。

 しかし、前回味わった強烈な快楽を得られないことに物足りなさも感じる。ちゅっちゅと繰り返される軽いくちづけに焦れて、薄く唇を開いてみた。蒼波が気づいてくれればよいとも、気づかなければよいとも思う。気づかれてしまったら燿は恥ずかしくて気絶してしまうかもしれない。そんな気分だった。

「燿ちゃん……」

 ささやくように名前を呼ばれて、体が震える。蒼波はすぐに燿が口を開いたことに気づいて、舌を差し入れてきた。咥内を這う蒼波の舌はとても熱い。燿の舌を絡め取り自分の口へと導き入れるようにして軽く吸う。燿の背筋にぞわぞわと快感が走った。

「ん、んう」

 舌先を甘く食まれる感触に、燿は吐息をもらす。蒼波が少し笑ったような気がした。

 負けず嫌いな燿は、やられっぱなしというのが気に入らなくなってきたので、自分からもぎこちなく舌を動かしてみる。蒼波がしたように舌を絡めては吸って、甘噛みするのを繰り返した。すると、蒼波もむきになったのか、燿の上あごをちろちろと舐め始める。

「ふ、んんっ」

 前にキスしたときも、燿はその場所を刺激されるのが弱かった。蒼波はそれをきちんと覚えているのだろう。燿はたまらず、蒼波の背中に回していた手に力を入れた。

「かわいい。燿ちゃん」

「は? 俺? どこが?」

 唐突に離れていった唇がつむいだ言葉に、燿はぽかんと口を開けたまま問い返す。蒼波はにこにこと笑いながら、今度は燿の鼻先や耳に唇を押し当ててきた。

「ちょ、蒼波! くすぐってぇ!」

 蒼波の唇は燿の耳から滑るように首筋へと移動する。首をぺろりと舐められた燿は、くすぐったさのあまり笑ってしまった。しかし、次の瞬間鈍く走った痛みに驚き、二度三度と瞬きをする。

「蒼波、今の」

「跡、つけちゃった」

「お前! なにしてんだよ。部活に出られなくなるだろ!?」

 燿は目の前の茶色いふわふわの髪の毛をむんずとつかんで、蒼波の頭をどかそうとした。だが、蒼波は反対に燿へと体重をかけてくる。いくら燿が鍛えているとはいえ、はるかに体格の勝る蒼波にそんなことをされたら支えることなどできなかった。二人はどたんと派手な音を立てて床に転がってしまう。

「いってぇ」

「ね、燿ちゃん。いい?」

 なにが? と燿は尋ねることができなかった。仰向けに倒れた燿に覆いかぶさる形になっている蒼波とは下半身が密着している。蒼波のそこが硬く張っているのが伝わってきたからだ。

「あお、あおば……。待て、ちょっと」

 制止の声を上げた燿に向かって、蒼波が頬を膨らませる。不満があるときの蒼波の癖だ。むすっとしたまま蒼波は燿の耳元へ口を寄せ、低い声で内緒話をするように言った。

「ずっと待ってたよ。もう待てない」

 耳をはむりと噛まれて、耳朶に舌を這わされる。燿は「ひっ」と肩をすくめた。

「ダメ?」

「少し離れろ」

「どうしてもダメ?」

 燿の上でしょんぼりとしている蒼波を見ていると、燿はどうしようもなく庇護欲を覚える。それが今まさに自分を食べてしまおうとしている男に向けるものではないと解ってはいるのだが、長年培ってきた習性というものは恐ろしい。

 しばらく逡巡したのち、燿はぽつりと言った。

「ダメとは言わねぇけど。お前、こういうのしたことあんのかよ」

「ないよ?」

「だったらよく解んねーだろ? また改めて調べるとかして」

「でも燿ちゃんとしたかったから、調べたことならある」

 燿は頭を抱える思いだ。この方面について、蒼波はきっと疎いだろうと考えて逃げ道にしようとしたのだが、完全に裏目に出てしまった。

「えっと、でも、ほら。なんかいろいろ大変なんじゃ」

「もしかして、燿ちゃん。怖いの?」

 怖いに決まっているだろうと燿は心の中で怒鳴る。それを素直に口にできないのが燿の悪いところでもあった。せっかく蒼波が訊いてくれたにもかかわらず、燿の口からは真逆の答えが飛び出してしまう。

「こ、怖いわけ、ないだろ」

「だったら、もっと力抜いて」

 蒼波はそう言いながら、燿の胸の辺りにそっと手を当てた。仕方なく深呼吸をして体から力を抜こうと試みる。そんな燿の胸元をなでつつ、蒼波はそろりそろりと腹の方へ手を下ろしていった。Tシャツの裾から蒼波の大きくて温かな手が忍び込む。

「蒼波っ」

「なに?」

「いや、なんでも……」

 一度燿の素肌に触れたら、蒼波には遠慮がなくなった。しばらく燿の体に触れていた蒼波が大きく息をついて、自分のシャツを脱ぎ捨てる。燿は答えることなく蒼波のあらわになった上半身から目を逸らした。

 次に蒼波は燿のスウェットに両手をかけきて、手際よく脱がせていく。

「うわ!? なにやってんだ!」

「なにって、えっちするんだから脱がなきゃ」

 改めてはっきりと言葉にされて、燿は固まってしまった。その間にも蒼波は脱がせたスウェットをぽいぽいとベッドの下へと放る。そして筋肉のついた足に触れた。

「燿ちゃんはやっぱりきれいだね」

 言葉を返す余裕のない燿に構わず、蒼波はふくらはぎから太ももまでを何度もたどる。ここまで来たらもう逃げ出すことはできない。別に嫌なわけではないし、興味がないわけでもない。ただ少し怖いと感じているだけだ。

「絶対怖いことはしないから」

 そんな燿の気持ちを見透かしたように、蒼波が優しくくちづけてくる。

「でも、いやなら、俺のこと蹴って逃げて」

「うるせ」

「もう本当に止まれないよ?」

 こんなときでさえ燿のことを一番に考えてくれる蒼波が愛しかった。蒼波がすることならなにも怖いことはない。痛みをともなう行為でさえ、蒼波と一緒なら構わない。

 ようやく体温を分け合い、体を繋げられたことの方が、ずっと嬉しかった。