第6話 嫉妬

黄宵鷹が鳥鷺舞に懸想している。一晩明けたら、都中に忽ちに広まった噂は、宵の口には噂の煙で噎せ返るくらい世人の関心を集めていた。恐れるべきは人々の好奇心か吹聴した鷹揚の人徳か。或いは、鷺舞と宵鷹、ふたりの悪名高さなのか。鷺舞は日頃の行いで自業自得なので、どんな印象を持たれたとして仕方無いが、宵鷹が世人に誤解されているのは、何故だか居た堪れない。黄ばんだ忍びわらいが廊下から響き、怜悧は、意図的な乱暴さで自室の扉を開けた。すると、数人の侍女が一斉に散る。宵鷹は冷酷無情、奇人変人、母が亡くなったときでさえ涙ひとつ流さなかった。そんな薄情者が、まさか鳥鷺舞に言い寄るとは。そう好き勝手に語っていたのに、ひとに聞かれたら逃げるあたり、一応は不敬の自覚はあったのだろうか。

悧悧リーリー

侍女が逃げた方向を一瞥していたら、幼名で呼ばれる。亡き母か、父である易知以外で怜悧を悧悧と呼ぶひとは限られている。そして易知は昨夜、宵鷹の馬車で鳥家に送り届けられた怜悧に禁足を破ったことを叱るどころか何故か禁足令自体を撤回してから、顔を出していない。つまり、可能性があるのは、ひとりだけだ。予想の上で振り向けば、やはり鷺舞の夫であり、鳥家の姉妹共通の幼馴染、郭公が立っていた。

阿公アーゴン……」

呼んでから、思い出したように怜悧は拱手した。公は、物腰柔らかな優しいひと。おもえば白梟に噛まれてから周りが怜悧を莫迦にするなか、唯一、態度を変えないで自然体で接してくれていた。鳥家と郭家、双方の両親が決めるがまま鷺舞と縁談を結び、成婚したが、幼い頃は神童と云われていたくらい賢く、申し分の無い義弟だ。今も尚、仲は良好だった。身内だけのときは、こうして愛称で呼び合うくらいには。

「何潔のこと、聞いたよ。大丈夫?」

「……ええ」

拱手を返されてから問われ、何潔の屍体が脳裏に過り、怜悧はくちびるが震えた。公は侍女殺しの件を心配して鳥家まで訪ねてくれたらしい。そういえば、今更だが、冤罪を晴らしたときに話の流れで今まで鷺舞の代わりに公の衣を繕っていた事実も漏らしたが、耳に入っているだろうか。怜悧は親指と人差し指同士を擦り合わせて、もじもじとした。

「その、衣の件は……」

「ああ!それなら、前から知っていたよ。悧悧の方が、昔から器用だったからね」

すっかり忘れていたと許りに、公が片手指に持つ愛用の灰色の羽扇を叩くや、小さなわらいまで交えて言った。騙していた後ろめたさが吹き飛ばされる。怜悧は双肩を脱力させたが、謝罪は欠かしたくはなく、頭を下げた。中途半端な会釈じみたかたちになり、また公がわらい、羽扇を振る。

「謝らないで。君は、舞舞ウーウーに頼まれただけなんだから」

「騙していたことに、変わりはないもの」

「律儀だねえ。それより――あの殿下と舞舞の噂って、本当なのかな。逆なら理解できるのだけど」

「いや、逆でもどうかと思うわ」

羽扇で口許を隠した公がこそりと訊いたのは尤もらしい疑問ながら、逆、つまり、鷺舞が宵鷹に懸想しているのなら納得が容易いとの意見に、つい突っ込んでしまう。いずれにせよ、妻の熱愛騒動は動揺するべきでは。

「舞舞が殿下に懸想しているのなら、理解できるんだ。以前お見掛けした時に、容貌を絶賛していたから」

「阿公、理解しないで。怒っていいのよ」

如何に公が鷺舞の浮気に慣れ切ってしまっているのか、発言からして察して怜悧はみずからの額に掌を宛てた。姉なのに鷺舞に嫌われており、鳥家で立場が弱い以上は素行に口出しも出来ないからといって、不貞を繰り返す愚妹を放置して他人様に迷惑を掛けていて申し訳ない。おおきくて、丸い眸と薄いくちびる。上品に微笑んだら愛嬌もある。我が妹ながら本当におなごとしての魅力は備わっているのに、分別が足りないのは残念だ。嘆いて溜息を吐いたら、いつの間にか公に顔を凝視されていて二歩後退り、顎を引いた。

「悧悧、雰囲気が変わった?いや、変わったというより戻ったのかな」

「どういう意味?」

「――昔みたいだね」

昔、むかし、と訂正された三文字をゆっくり噛み砕く。公は羽扇で顔の下半分を覆い、まなじりを緩めていた。確かに、気付いたら恐れを知らずよく泣いてよく笑い、好奇心旺盛で活発であった、あの小さいころの輝きが、遠い星の如き距離にあったじぶんのすがたが、いまは、輪郭を取り戻していた。苦わらいを浮かべて、そそくさ会話を切り上げるのではなく、感じたことをことばとして紡いでいるのは、何年振りだろう。

「そうね。取り戻したのかもしれない」

「何か切っ掛けでもあっ……」

「あ、こんなことをしている場合じゃなかった!阿公、ごめんね。私、急用があるから、また!」

何事か公が問うあいだに、怜悧は宵鷹と画策した計画が脳裏に浮かぶ。会話を途中で遮り、背を向け、小走りに廊下を駆けだした。後ろを振り返る暇なんてない。もう作戦は始まっているのだから。


――


茶屋で宵鷹が発案した作戦は、大胆且つ、単純だった。鷺舞との噂を流し、行思の嫉妬を煽り、誘き出すという主旨である。確固たる証拠として現場を押さえるべく、行思の殺人衝動を誘発させ、宵鷹を襲わせたら成功だ。認めざるを得ない状況下をつくりだした段階で、侍女、武官、四人の殺害について怜悧が論破する手筈なので、動向を見張っていなければいけないのだが、これが中々如何して、怜悧にとって苦痛だった。先ず、噂だけでは餌が足りないからと良からぬ噂が立ってしまった謝罪の名目で、宵鷹が鳥家に鷺舞を訪ねる。それから、上手く親密な関係に視えるように振る舞うとは、聞いていた。聞いていたのに。

「何処からこんな噂が立ったのやら。醜聞に巻き込み、迷惑を掛けた。誠に申し訳ない」

「いえいえ!とんでも御座いません」

白々しい宵鷹の科白と不適切な無表情の演技に最初こそ笑っていたものの、鷺舞が噂に満更ではないというか、寧ろ頗る上機嫌で密着したあたりから、腹部か胸部か、兎に角からだの一部がもぞもぞ擽られるような不快感が怜悧を襲った。

「近い――って、近いのは当然よね」

鳥家の正門の前で会話しているふたりを物陰から視て、怜悧は呟く。宵鷹と鷺舞の距離が大層近いのはそういう作戦なのだから、当然だ。なのに、何故こんなに悶々と漠然とした薄暗い靄にこころを引っ掻き回されているのだろう。腕を組み、著しく首を傾ける間も機嫌の落差が極端に違うふたりの会話が続く。

「寧ろ此の身に余る光栄ですわ」

「光栄? 名誉を穢す噂が?」

「穢すだなんて、大袈裟な!だって、根も葉もない噂とよく言いますけれど、火のないところに煙は立たぬとも言うでしょう? つまり、ほら、噂が立つということは実は殿下は私のことを……」

何を言ってるの。撓垂れ掛かるようなあまく潤んだ声で鷺舞が燃えていない火を探しはじめ、宵鷹の片腕に細い両腕がまわり、怜悧は叫びたくなる。口を掌で覆った。それを言うなら宵鷹の表情筋の動かない真顔を視れば、鷺舞に一欠片も好意を抱いていないのは火を見るよりも明らかだと言いたい。信じたい。どうか、そうであってほしい。はたりと、怜悧は違和感に瞬いた。どうして、宵鷹が鷺舞のことを好きだったらとおもったら、頑なに否定したいのか。不安に感じるのか。出逢ったばかりで何も知らない宵鷹に執着している?

「よくも、俺の舞舞に……」

ゆらり、ふたりの背後で人影が揺らめいて怜悧は一旦、思考を放棄した。首を振ってから眼に鋭く角を立てる。そう、火のないところに煙は立たぬでも火を見るよりも明らかでもなく、本来は、此れを求めていた――飛んで火に入る夏の虫。行思だ。よし、狙い通り。肘を曲げ、拳を握った。