第36話 鬼灯

 突如として暗闇に出現した小円は、病院で沙夜子の陣の力によって現れたときとは違って、歪みのない綺麗な円になっていた。


 形が変わることはなく、鼓動に合わせて分裂と膨張を進めていく。瞬く間に。文字通り瞬く間に円が連なり別の形を導き出した。頭だ。それに胴体、手足が続き、顔が形成されていく。


 吉良は、呼吸を沈めながらその様子をつぶさに見ていた。円から発せられる眩しい白色光が汚れた眼鏡のレンズに映り、飛び跳ねるように動き回る。


 見たことがある、と吉良は直感した。この光景をどこかで見たことがある。


 始まりはたった一つの細胞。それが日に日に大きくなっていく。同じように分裂を繰り返し、境目をつくり、一つのまとまった大きな形に成っていく。


 一際大きく鼓動が鳴ると、それはゆっくりと目を開けた。濁りの全くないつぶらな瞳は、ぐるりと回転すると吉良を見下ろした。柱のように太く大きな四肢が床を突き破る。


 振動に耐え切れずに床に転がりながら吉良は全貌を視界に収めた。赤子の形だ。だが、形は赤子でも大きさが違う。火の周りに現れた小さな顔全てが合わさったように巨大で歪な姿をしていた。


 世界と自分との境界を置くように、輪郭は結ばれているものの体は光り輝いていた。一方で、目以外の器官が未発達なのか鼻も口も耳もまだ配置されていない。のっぺらぼうのように平らな顔面に大きな目が二つ、ついていた。動きもままならないのか、床を突き破った手足が引き抜けずに体が傾いていく。簡単に言えば、転びそうになっている。


 手足の連携と制御がまだ上手くいっていないことは明らかだった。神経回路が結ばれていないのだろう。図体の割には未熟。あまりにもまだ未熟過ぎた。そんなところも生まれたばかりの赤子にそっくりだ。


「……餓鬼なんかじゃない」


 生まれる過程は餓鬼憑きだったのだろう。椿の思いが反映されたあやかしだ。しかし生まれたのは、形に成ったものは餓鬼ではなく全く新しいあやかし。形成の途中で何が起きたのかは不明だが、眩いばかりの光は吉良には生命そのものに感じられた。


 あやかしが動く度に繰り返す振動から身体を支えるために、吉良は両手を床についた。その拍子にズボンのポケットから一粒、何かが飛び出した。コロコロと揺れる床上を転がっていくのは、表皮がしわくちゃの橙色の果実。


 鬼灯だ。


「……そうだ」


 赤子なのだ。生まれたばかりの赤子。これからずっと長く生きていくはずだった命。死が何かも理解できていなかっただろう。生の喜びもどこまで実感できていたのかわからない。


 ただ泣いて。ただただ泣いて。泣くことしかできないのだ。誰かの助けを求めて泣き続ける。生きるために泣き続ける。


「なんで……」


 気が付かなかったのだろうと思った。ヒントはわかりやすく呈示されていた。このあやかしは害意を持って人に取り憑いていたわけではない。


 助けてほしいと、生きるために取り憑いていただけだ。消された命を、もう一度取り戻そうと。再び生きたいと。生きるために生きる、生物の持つ根源的な生存本能に従って分裂と増殖とを繰り返していただけだった。


 またもや振動が足を絡め取った。ただし今度は転んだわけではなかった。巨大な赤子は、床から引き抜いた腕を自分の目に入るくらい近くへ持ってきてまじまじと観察している。


 吉良は眼鏡を上げると、転がった鬼灯を手に取り立ち上がる。月岡と沙夜子の状態を確認すると、誕生したあやかしを改めて見据えた。


 大きな赤ん坊だ。真剣に自分の手を眺めていたと思ったら、ぶんぶんと振り回し、今度は近くに落ちていた月岡の拳銃を持とうとして壊してしまっていた。


 不思議そうに目を瞬かせると、自分を見ている視線に気がついたのか、吉良と目が合った。他のものと同じように手の中に掴もうと、吉良の全身をすっぽりと包み込むような巨大な手が近づいてきた。捕まれば拳銃と同じような運命を辿るのは必至だろう。


「……僕には戦う力は無い。だけど、あやかしのことを、君のことを理解する力は、もしかしたらほんの少しでも、あるかもしれない」


 鬼灯には毒がある。一方で鬼灯には魔除けの力もあると言われている。前者は事実で後者はあくまでも言い伝えだ。それでも、吉良は手の中に収めた鬼灯を握り潰すと、右手を伸ばした。あやかしと吉良の二人の手が触れ合う。


 温かかった。柔らかかった。人間の赤子と何ら変わることのない温度を持っていた。だからこそ、吉良の瞳から二筋の涙が零れた。


「……ごめん、ごめんね」


 何に対する謝罪なのかわからないまま。涙が止めどなく溢れ出てくる。やがて鼻を啜り、喉から声が絞り出される。


 真似をしたかったのだろう。あやかしは真っ平らな顔に口を一つ作った。だが、その口は泣き声ではなく笑い声を作った。存分に生を楽しむような無邪気な笑い声を。


 白装束が吉良の真横を通り過ぎていく。たなびく茶色の髪が吉良とあやかしの間に割って入った。