第28話 発作

 一言で言うなら質素な空間だった。病室だからと言えばそれまでだが、それ以上に物が少な過ぎる。部屋の中央に置かれたベッドに四つのキャスターがついた移動式の机。それしか置かれていなかった。


 ベッドには吉良の来訪を待っていたかのように、可動式のベッドの背に背中をつけた白坂雪子が座っていた。窓が開いているのか、これまた床と同様ライトグリーンのカーテンを揺らす風が、白坂の長い黒髪を揺らす。


「こん……に、ち、は」


 白坂は何度も唾を飲み込みながら喉奥から言葉を絞り出した。吉良と月岡がじっとしていなければ届かないくらいの極々小さな声。足音を立ててしまえば、掻き消えてしまいそうなほどだった。


 吉良は音を立てないようゆっくりとベッドへ近付くと白坂の顔の前でしゃがみ込み微笑んでみせた。対照的に月岡は扉の側の壁へと背中を預けると、腕を組み仏頂面で鋭い眼光を二人に向けていた。


「すみません、聞きたいことがあってきました。大変だと思うので手短に」


 明らかに研究所で会ったときより体の線が細くなってしまっている。真っ白なシーツの上に投げ出された腕には痛々しい注射の跡がいくつもあり、一本の太い管が点滴と繋がれている。


 だが、それでもやはり他の者と比べて症状は軽い。白坂はまだ吉良の微笑みに弱々しくはあるが笑顔を返せるほどに気力が残っていた。


「……何か、ありましたか?」


 何を聞くか、考えあぐねた末に自然に出た疑問がそれだった。自分でもそんな言葉が出たことに驚き、吉良は慌てて否定した。


「あの、すみません。答えづらい質問をしてしまって、聞きたかったのは、えっと……」


 白坂はポカンと口を開けた。ギラギラと光る黒い瞳が吉良の目から逸らされる。意外な反応に、吉良は掛けようと思っていた言葉を失った。


「大丈夫ですか?」


 そっと伸ばした手が肩に触れる前に、白坂の体が震え始める。一度躊躇い、手を引くと吉良は全身の様子を窺った。


 ひどい寒気でもするようにガタガタと視認できるほどに体の震えが酷くなっていく。呼吸は急に荒くなり、両手で頭を抱え込んでしまった。


 それは、明らかに恐怖だ。吉良の一言が極度に怯えさせる記憶のスイッチを押したように白坂は全身で恐怖を現していた。


「大丈夫ですか!? 白坂さん! しらさ──」


「質問を続けろ、吉良」


 月岡がナイフのように鋭い言葉を投げつける。眉間に皺を寄せ怒っているようにも見えた。


「でも……」


「真相を突き止める。それがお前の仕事だろ。これ以上被害を広げるわけにはいかない。違うか?」


「そうです……が……」


 呻き声が上がる。何かに怯え苦しそうに頭を振っている。目の前の相談者のことを思えばこれ以上、負担をかけるわけにはいかない。


 吉良は俯くと握り拳に力を込め、勢いよく顔を上げた。


「白坂さん……ごめんなさい。何かあったなら教えてください! どんな些細なことでも構いません! 覚えていることを全て!」


 顔が激しく左右に揺れ、黒いロングヘアが乱れた。頭を覆うようにしていた長い両手は耳を覆い、喉の奥底から苦しそうな声が漏れ出る。やがて呼吸も乱れ、荒くなり、手先が痙攣し始める。


 パニック発作か──と慌ててナースコールを押そうとした吉良の手首を枯枝のような手が握り締めた。ゆっくりと目線を上げれば、異様に大きく見開かれた瞳が吉良の顔を覗き込んでいた。


「……病院……病院の、奥、から……」


「病院……?」


 病院とはどこのことなのか。人口減が進み斜陽化が進む南柳市と言えども数限りなく病院はある。それでも吉良は、おそらくは白坂が言っているその病院の外観をおぼろげにではあるが頭の中に浮かべることができた。


 内田紗奈の胃の中から摘出された燃えたようなガラス片。椿杏が行って帰ってきた場所。水子霊にとって親和性の高い場所。曰くつき。そして、病院。


 これらを線で繋げられる場所は南柳市において一箇所しかなかった。


 見当はついたが、ひとまず吉良は掴まれたままの白坂の手を丁寧に放そうとする。白坂の手首を触るが、氷でも触っているかのようにひどく冷たい。


 白坂は、どこから湧いてくるのかさらに手に力を込めた。放されないようにしようとでもいうように。


「……病院の奥……奥から……声が……声が……」


 真っ直ぐに見つめたままの瞳が異常を伝えていた。吉良がやや乱暴にぐいっと腕を引っ張るが、軽い痛みが襲った。


 白坂が爪を立てているのだ。


「──落ち着いて、手を放してください。白坂さん。大丈夫です……ここは安全」


「声……声……赤ちゃんの声……いっぱい……声」


 まずい──と吉良は直感した。病室に入る前は噛み合っていた会話が歯車がズレていくようにどんどん噛み合わなくなっていく。


 こうした様子は今まで何度も見てきた。


 怪異を目の当たりにして眼前の現象が常識で測れなくなった際に自己防衛のために起こる場合もあるが、あやかしに取り憑かれている場合はむしろ、異変の現れとしての兆候の方が多かった。


 目で合図を送るまでもなく壁に寄りかかっていた月岡も空気の変化に気づき動き始めていた。


 しかし、月岡が白坂の体を取り押さえるよりも前に──つまり急激な変化が生じる。


「声……声、声、こえ、コえ、コエ、ゴエ──」


 爪が食い込んでいく。体は前傾姿勢になり、極限状態まで筋肉と脂肪のなくなった体が更に痩せ衰えていく。唯一正常を保っていた黒髪の色素が急速に失われていき、白髪と化していく。


 吉良を見ていた瞳は上下左右に揺れ動き、焦点がまるで合わなくなる。やがて白目を剥いてベッドの上へと上体が仰向けに倒れ込み、すかさず起き上がると。


「あぁああ、あぅああ、アァアア、アアアアァアア、アァァアアアアャアアアアヤアアアアア!!!!!!!!!」


 赤子のような叫び声を上げて、大きく口を開けると吉良に向かって飛びついてきた。


「やめろっ!」


 間一髪、月岡が後ろから両脇の下に腕を入れると急変した白坂の動きを無理矢理に静止させた。それでも、白坂の手は吉良の手首に食い込んだまま放すことはない。


「月岡さん! ナースコールをっ!」


 月岡はなぜか黙ったまま眉間にシワを寄せていた。聞こえていないのかと思い、吉良は白坂の指を剥がしながらもう一度呼びかける。


 返ってきたのは舌打ちだ。


「わかってる! だが、今腕を放すことはできない! 椿のばあさんのときも思ったが、こいつの力、尋常じゃない!」


 月岡の腕から逃れようと歯を食いしばりながら白坂──もうすでに人の姿から餓鬼の姿に成り果てようとしている──は、唸り声を上げて全身に力を込めていた。


 吉良の手首もますます拗られるように力が強く込められ、吉良は苦痛の声を発した。


 なんとか逃れなければ──と怨念のような力の籠もった指を一本一本剥がしていく。その間も餓鬼憑きは目の前の獲物に飛びかかろうと右に左に体を捻る。


 獣のような咆哮とともに口から飛ばされた唾が吉良の眼鏡にべたりとついた。


「早く……逃げろ! このままじゃ持たねぇ……」


 なんとか動きを封じている月岡の腕が震え始めた。吉良は指を剥がすのを諦めて思い切り後ろへ仰け反ったが、手は岩のように硬くびくともしない。


 餓鬼憑きの口が大きく開かれ、強烈な腐臭の臭いとともに中から鋭利な犬歯が覗く。


 最悪な事態が頭を過った。暴れ出せば餓鬼は歯を突き立てて顔ごと食い破ろうとしてくるかもしれない。一度人を食った餓鬼はさらに凶暴化する危険性がある。変化は他の個体にも波及し、更なる暴走が始まる。


 餓鬼憑きが見境なく人を襲い始める。その先は──まさに地獄絵図だ。


 そうなるわけにはいかない。そうさせるわけにはいかない。もう一度腕が引き千切られるのを覚悟に後ろへ体重をかけたそのとき。


 急に体が軽くなった。


「吉良!!!!」


 月岡の腕から抜け出した餓鬼憑きの愉悦に震えた顔が、吉良に近付いてくる。