第12話 問われる覚悟

「死亡が確認されたのは本日午前6時17分。死因は栄養失調。つまりは餓死だ」


 エレベーターの中は相変わらずタバコの匂いで充満していた。病院へ来る途中、月岡がずっとタバコを吸いながら運転していたために、吉良の髪や服に匂いが染み付いてしまっていたためだ。


 そんな匂いなど微塵も気が付いていないのだろう。月岡はメモ帳を捲りながら、雨平から報告を受けたばかりの状況を伝えていた。


「死亡したのは、異食で病院に搬送された中学一年生の少女。原因不明の極度の飢餓状態で点滴を継続するものの栄養素がほとんど行き渡らずに、今朝方になって容態は悪化。手の施しようがなくそのまま死亡に至った」


 はやる心とは裏腹にエレベーターは危険防止のためにゆっくりと上昇していく。


 吉良は無意識に、音が出ない程度に手すりを右手で何度も叩いていた。


「死亡する直前。少女は飛び起きて、体についていたものを全部噛み千切ろうとした。両親や医師、看護師が止めに入ったにも関わらず、強い力で跳ね除けて自由になると点滴から針から医療機器まで全てを食べようとした。再度止めに入った看護師も噛み付かれ出血。少女は最後、奇声を上げてそのまま床に倒れ込んだところで心肺停止状態になった。その声はまるで生まれたての赤ん坊のような声だったらしい。ひとまずはまあ、以上だな」


 手帳を閉じてポケットに仕舞い込むと、ちょうどタイミングよくエレベーターの揺れが止まった。扉が開くと制服姿の警察官らが忙しそうに動き回っていた。


「行くぞ」


 タバコの匂いとともにピリピリとしたムードを漂わせながら進む月岡の後ろを吉良は俯きながら歩いていった。


 行き交う人々との歩く速さ、歩幅の違いをぼんやりと考えながら。


 病室の前に立っていた一人の屈強そうな警察官が、何も言わず中へ入ろうとする月岡を止めた。


「何ですか?」


「捜査だよ。見てわかんねぇのか? あやかし対策の月岡だ」


「月岡さん……まだ雨平を部下のように使っているんですね。いいですか。今は本部が調査中です。どうかお引き取りを──」


 月岡の拳が扉を叩いた。


「本部だ? さっさと投げ出してこっちへ押し付けてきたくせしやがって今さら何を偉そうに。てめぇらじゃ解決できないだろ! どけ!」


「月岡さん。もう、あなたの命令に従う義務はありません。それに」


 警察官の帽子に隠れた目がちらりと吉良を見た。


「事件に関係のない一般人を入れるわけにはいきませんから」


 一般人。確かにそう見られてもおかしくない。誤解を解こうと顔を上げたそのとき。月岡が目の前の警察官の胸ぐらを掴んだ。


「何の冗談のつもりだ? こいつはあやかしの専門家で、捜査に協力してもらってんだ。記録はきっちり残している。お前だってわかってるはずだろ?」


「もちろんわかってますよ。だから言っているんです。捜査の邪魔だと。あやかしだかなんだか知りませんが、もう人が死んでるんですよ? 事件を解決できていないのはどちらでしょうか?」


「てめぇ!」


「殴るんですか? あのときのように! 聞いていますよ。そんなんだから異動させられたんですよね! 誰があんたなんか信用すると思いますか? あんたが関われば、事件はめちゃくちゃになるだけだ!」


 急に怒鳴られた月岡の怒りの形相の中に一瞬哀しみの表情が浮かんだような気がした。見開かれた瞳が三日月を描くように細まり、やがて閉じた。


 月岡は掴んでいた手を放す。


「ここで無駄なおしゃべりをしている場合じゃねぇ。悪いが入らせてもらうぞ」


「話を聞いてたんですか? 入れるわけがないでしょう!」


「黙ってろ」


 見開かれた瞳は鋭利な刃物のように鋭く冷たい色をしていた。底知れない殺気のような塊が、瞳の奥に宿る。


「悪いな。行くぞ、先生」


 月岡に睨み付けられたことで肝を潰されたのか、優に180センチ以上はありそうな巨体の警察官は黙り込んでしまった。


 吉良がおずおずと横を通り過ぎようとしたとき、耳の中にひどく小さな呟きが飛び込む。「きつね」と。


 ──狐? 吉良は思わず警察官の顔を確認しようとしたが、月岡に止められた。


「関係ないことは気にするな。先生にはまだ、やってもらわなきゃいけないことがある」


「え、ええ」


 月岡は周囲の視線を気にすることなく、高い靴音を鳴らしながらベッドへと近付いていった。


 側で写真を撮っていた鑑識らしき人が驚いて立ち上がる。


「あの、ちょっと」


 穏やかな制止の言葉も無視してベッドの血溜まりに手を入れると、探るようにシーツを撫で回す。


「血が別の液体と混ざって通常よりも滑らかになっている。相当な量だ。二本の点滴が繋がれていたはずだ。引き千切ったんだろうな。あるいは噛み切ったか。体の負荷も気にすることなく。それに、メチャクチャだ。シーツだけじゃねぇ。棚も机も椅子も全部が。相当暴れたらしい。先生、どう思う?」


 ベッドは横に傾いていた。月岡が触ったことで軋み、上向きになった二つの車輪が意味もなくクルクルと回転している。木製の棚は板が何枚か割れており、机はネジが取れて上部が半分外れていた。そして、あちこちに不自然に開けられた穴があった。報告通りだとすればかじった跡。


「どう思う……それは……」


 一言で言えば惨状だった。尋常ではない力で暴れ回った様子が色濃く残ったまま。月岡が触ったベッドシーツからはまだ血が垂れ落ちていて、薄緑色の壁にまで飛び散っている。


 殺人事件でも起こったかのような有様だった。


「……わからない」


 吉良の口からかろうじて出た言葉はそれだけだった。血に消毒液に腐敗臭にタバコ──様々な匂いが入り混じったこの部屋からは、何のヒントも得られなかった。


 吉良が得られた情報はただ一つ。間違いなくここで人が、少女が、あのとき目にした内田紗奈という名の少女が死んだというおびただしい数の証拠だけだ。


「何を……やっているんですか……?」


 震えるような掠れた声に吉良の顔は強張った。聞き覚えのある声だった。今、ここでは聞きたくない声だった。


 振り返ると少女の母親が立っていた。髪は乱れ、全身に血を浴びている。腫れぼったい目は張り裂けんばかりに大きく見開かれ、全身が小刻みに震えていた。


「なんでこんなところにいるんだ!!」


 近くにいた警察官の手を振りほどくと、母親は一気に吉良に近寄り掴みかかろうとした。


「やめろ!」


 月岡が間に入り両腕を止める。続いて後ろから警官が止めに入り、何人かで羽交い締めにする。


 それでも抵抗は続けられた。


「助けるって言っただろ!! 私の子はどこだ! 返せ、返せ返せ!!」


「お母さん! 娘さんはもう亡くなったんです! ご覧になったでしょう!」


「うるさい!! あの子が死ぬわけない! あんな、あんな酷い……」


 急に動きが止まった。ぶつぶつ呟きながら床に突っ伏すと今度は何度も何度も拳を床に叩きつける。


「死んだ……死んだ……死んだ」


「やめなさい! 血が!!」


 固い床だ。何度も叩けば皮は破れ血が滲む。それでも止むことなく、同じペースで拳が打ち付けられる。


「あの子は死んだ……死んだの? あんな酷い……あの子が……あんな酷い……うわああぁァァぁァァぁ!!!!」


 振り上げた拳が思い切り振り下ろされた。床に着く直前に誰かの手がそれを受け止めた。


 月岡の大きな手だった。


「もうやめろ。それ以上自分を傷つけても無意味だ。終わりは終わり。もう戻ってきやしない」


 母親の体の震えが静まるのを待ってから月岡はゆっくりと手を離した。


 即座にガッチリと腕や肩を抑え込んだ複数の警官によって部屋の外へと連れて行かれる。


 その間。吉良は目の前で起きたことをただ見ていることしかできなかった。


 短く息を吐いて立ち上がると、月岡は吉良の方を見た。呆れたように目を瞑ると、頭を掻きながらまた溜息を吐き出す。


「言ったろ先生。覚悟はあんのかって。だから聞いたんだよ。人が死ぬってのは、こういうことだ」


 吉良の頭は鈍器で殴られたように揺れていた。ふと、頬に何かを感じて触れると、べっとりとした黒ずんだ血がこびりついていた。


 指先を伝い手の甲を進み、腕まで垂れていく。やがて肘にまで到達した血は、ピチャッピチャと床に落ちていく。


 広がる波紋が。少しずつじわじわと侵食していく。


「おっ、おい! 大丈夫か!? 吉良──」


 滲んでいく、薄くなる、血の色が。


 最後まで意識の中に残ったのは、血が滴り落ちる音だけだった。





 ぐるりと目が回った。この上ない気持ち悪さが込み上げてきて、吉良は急激に目覚めた。


 染み一つない真っ白な天井から誰かの笑い声が聞こえる。ほのかな甘い香りがタバコの強い匂いに混じって消えた。


 身を起こすと、そこには月岡の姿があった。ソファに座って製菓雑誌を読みながらタバコの煙をプカプカさせていた。


「……どうなって……」


 雑誌読んでいた視線が上がった。


「起きたか、先生」


 辺りを見回す。見覚えのある部屋だ。ソファを挟んでコーヒーテーブルが置かれ、コーヒーの木、ポトスといった観葉植物が月岡の後ろに並んでいる。


「ここは、家?」


「そうだ。倒れたから連れてきた。あの病院よりかはこっちの方がマシだろう」


「……ありがとうございます」


 頭が割れるように痛い。頭だけじゃない。脚や腕に鈍い痛みが走った。


「そうだ……頭が重くなって目が霞んで……」


「助けに入らなきゃ顔を強打。そのまま入院だったな。まっ、その方が頭は冴えたかもしれねぇーが」


 「……そうですか」と呟くと、吉良はテーブルに置かれた少し歪んでいるメガネを掛けた。


 視界がクリアになると同時に、倒れる前の景色が鮮明に思い出される。


 喚き散らす声に、どす黒い血の色。


「……すみません」


 自分でも情けないと思うくらいくぐもった声が出た。


 血は苦手だった。初めてのことではない。この仕事を始めて何度も血は見てきたし、人の死も見てきたつもりだった。だから覚悟はしていたはずだったのに。


 雑誌が乱暴に閉じられる。


「何に対しての謝罪だ?」


 タバコをくゆらせる。煙は上へと上がり、空気と混ざり消えていく。


 上階からはまた、笑い声が聞こえた。ただ楽しそうな無垢な笑い。


「原因が特定できていないこと。それからこんな、迷惑までかけてしまって」


「ああ、そうだな。迷惑だ。捜査は中断するし、無駄な体力とガソリンを使ってしまった」


「……すみません」


「謝るだけなら誰にでもできるんだよ、先生」


 真正面から視線がぶつかった。芯のある強い眼差しは漆黒のように深く。見ているだけで妙な緊張が体を支配する。


「どうするかじゃねぇのか? 何ができるかじゃねぇのか? 今も本部は捜査を進めてる。あの寺では柳田が一人でたたかっている。あやかしに取り憑かれた大勢の人間が恐怖におののきながらたたかっている! これからあんたはどうするんだよ、先生!」


 吉良は視線に耐えかねて下を向いてしまった。言い返す言葉を探してみるも、何も浮かんでは来ない。


 あの母親の憎しみに満ちた顔が頭をよぎった。


 月岡は深く吸った煙を噛み締めるようにゆっくりと吐くと、携帯灰皿に捨ててソファから立ち上がった。


「もう一度聞いておく。覚悟はあるのか? 答えはまた今度聞かせてくれ」


 扉が開かれ、また閉められる。車のエンジン音が聞こえると、すぐに発車し遠く離れていった。