その日の空は、高く青く澄んでいた。
雲一つない空を見つめていると、その青の中に吸い込まれてゆくような感覚になる。
しかし、それを抑えてくれるのは、高く昇った太陽だった。
輝く太陽は、深緑の木々を照らし出す。
切り立った崖の上に作られた祭壇は、木漏れ日を浴びて白く輝いていた。
その祭壇の前で、古代語の呪文を唱えながら杖を振る老人。
村の長老だ。
名前をジーヤという。
長老の前には、頭を下げ、ひざまずく少女がいる。
ここ、ライナの村の裏山で、覚醒の儀式が執り行われているところだった。
「……これで儀式は終わりじゃ」
「ありがとうございます、長老様」
壇上のナーイは、深々とお辞儀をする。
観客から巻き起こる拍手と歓声に顔を赤らめながら彼女は壇を後にした。
そのまましばらく進み、人だかりから離れたところで近くにあった木にその身を預ける。
「ああ、緊張した~」
背をズリズリとこすって座り込むナーイ。
握り締めていた手の中は汗でぐっしょりだ。
時折吹く風がその熱を少しずつ連れ去り、少女はようやく一息をついた。
「お疲れ様、ナーイちゃん」
そのとき、不意に自分を呼ぶ声。
ナーイは嬉しそうに顔を上げる。
果たして、そこにはシェイルの母、マチルダが立っていた。
今のマチルダは、白銀色に輝く額当てで髪を一つにまとめている。
その額当ては、彼女が冒険者時代に愛用していたものだとナーイは聞いていた。
「儀式、立派だったわ。お父さんも……そして、亡くなったお母さんも喜んでいるでしょうね」
そう言って微笑むマチルダ。
ナーイは、幼い頃に母を亡くしている。
以来、マチルダが母親代わりとして愛情を注ぎ、ナーイもそれを嬉しく思っていた。
祭壇では、二人の男が次の儀式のための準備をしている。
一人は、筋骨隆々で引き締まった体型の男。
その名はレオンという。
元冒険者で、マチルダの夫であり、シェイルの父親だ。
もう一人は、常に笑みをたたえた、とても恰幅の良い男。
名はナイジェルといい、ナーイの父親で、この村の村長だった。
二人の働く姿を見つめながらマチルダはつぶやく。
「それにしても、シェイルはどこに行ったのかしら? 儀式も、後はあの子だけなのに」
「あ……えっと……。おばさま、実は……」
ナーイはおずおずと、それまでの経緯――。
ルナルナを追い掛けて村を出たことを話した。
「そんなことがあったの……」
マチルダは深くうなずきながら、チラリと祭壇の方に視線を送る。
その視線に気付いたレオンが、足早に二人の元へとやって来た。
ナーイに変わり、マチルダが事の経緯を説明する。
「あの子のことだから、ルナルナと走り回って遊んでるなんてことも……」
「だが、シェイルは覚醒の儀式を楽しみにしていただろう?」
「はい……。だから、忘れてることはないと思いますけど……」
あれやこれやと話し合う三人。
「まさか、トラブルに巻き込まれたとか……」
ナーイの言葉に、レオンとマチルダの顔色が変わる。
「村の周辺ならまだしも、山の中には魔物もいるんだぞ!」
「あの子、まさか……」
「うんっ、山の中にはゴブリンがいたよっ!」
「えーっ!? それは大変! わ、私、村の外を見てきます! ……って、あれ?」
背後から響く明るい声に、三人はゆっくりと振り返った。
「シェイル!?」
「たーだいまーっ!」
そこには、シェイルが笑顔で立っていた。
「じゃ~ん、ルナルナも一緒だよっ」
見れば、シェイルの足元には、はちきれんばかりに尻尾を振るルナルナがいる。
「良かった、無事だったのね……」
押し寄せる安堵感に全身の力が抜け、ナーイは、へなへなと力無くその場に座り込んだ。
「えへへ、心配してくれたの?」
「あ、あなたね! 人の気も知らないで……」
「あっ、ナーイ、ちょっと待って」
文句の一つでも言ってやろうとしたナーイを、シェイルはあっさり制した。
そして、大きく息を吸い込むと、口の横に手を当てる。
「ルチーナ、お姉ちゃん帰ってきたよ――っ!!」
裏山中に響き渡るその声。
しばしの後、小さな体が人混みを掻き分けて飛び出してきた。
「シェイルお姉ちゃん!!」
「ルナルナも、ちゃんといるよっ!」
ルナルナは嬉しそうに吠え、ルチーナの元に元気に走り出す。
腕を広げるルチーナ。
その腕の中に飛び込むルナルナ。
一人と一匹は、頬をすり寄せてお互いの再会を喜びあった。
「もう、遠くに行っちゃダメだからねー?」
強く抱き締めるルチーナの頬を、ルナルナは愛しそうに舐める。
その様子を見つめる人々の顔に、優しい笑みが浮かんだ。
「お姉ちゃん、ありがとー! ホントにありがとー!」
「あははっ、どういたしまして」
シェイルは、満面の笑みで手を振った。
「って~、ナーイ、途中になっちゃってごめんね。何の話だった?」
「……ううん。何でもないわ」
たずねるシェイルに、ナーイは「ふふっ」と笑って首を横に振る。
(だって、この二人の笑顔見たら文句なんて言えないじゃない……)
ナーイは、胸にそっと手を当てた。
「シェイル、よく頑張ったわね」
不意に背後から掛けられる声。
シェイルは笑顔で振り返る。
「お母さん!」
照れくさそうに笑うシェイルの服や鎧、そしてむき出しの腕や足には無数の傷が見えた。
「じっとしてて……」
マチルダ優しく微笑むと、腰に下げていた水筒の口を開ける。
「『麗しき水の乙女ウンディーネ!』」
凜とした声の精霊語が響く。
その声に呼応し、水筒の口から水の塊が吹き出した。
水塊は、青く透き通った髪の長い女性へと姿を変える。
水の精霊ウンディーネだ。
「『ウンディーネよ、優しき水の力を今ここに!』」
マチルダの言葉を受け、水の乙女は手を伸ばした。
その手から青い滴が流れ落ち、優しい潤いがシェイルの体を包んでゆく。
〈
「ありがとう、お母さん!」
「いつでも癒してあげるけど……。でも、くれぐれも無茶はダメよ?」
「無茶……」
遺跡内での出来事を思い出し、シェイルは思わず苦笑いを浮かべた。
そんなシェイルの背を、レオンは大きな手で優しく叩く。
「さぁ、早く行け。祭壇で長老がお待ちかねだぞ」
「今年の覚醒の儀式は、シェイルで最後なのよ」
「シェイル、しっかり!」
「うん、ありがとう! 行ってくるねっ!」
シェイルは三人に笑顔で応えると、踵を返して走り出した。
小さくなってゆく背中を、父と母はじっと見詰める。
「まだまだ子供だと思っていたのにな」
「シェイルが冒険者として旅立つ日も、そう遠くはないかもしれないわね」
高く青く澄み渡るリノイの空の下で、様々な想いが交差していった。
* * *
「遅れちゃって、ごめんなさいっ!」
祭壇に着いたシェイルは、勢いよく頭を下げた。
たとえどんな理由があろうと、儀式に遅れたことは事実だ。
叱られる覚悟はできている。
そんなシェイルを見つめ、長老は長い白髭をなでた。
ややあって、その口が開かれる。
「話は聞いておる。シェイルよ、村を代表して、そしてルチーナの祖父として礼を言うぞ」
「い、いえ、そんな……」
シェイルは、ゆっくりと頭を上げた。
そこには、優しく微笑む長老の姿があった。
「覚醒の儀式も、残るはシェイルだけじゃ。さあ、壇上に上がるのじゃ」
「はいっ!」
シェイルの真っ直ぐな返事はライナの木々に、リノイの山々に、そして、高く澄んだ青空に吸い込まれていった。
人々が見守る中、儀式は執り行われている。
ひざまずき、瞳を閉じるシェイルの前で、杖を振り、一心不乱に古代語の呪文を唱える長老。
長老が語気を強めると、それに合わせてかがり火も揺れる。
観衆が固唾を呑んで見守る中、不意に長老の詠唱が止まった。
「シェイルよ……。これより、お前の前世の魂を呼び出し降臨させる。そして、前世の魂と現世の魂を融合させれば儀式は完了じゃ」
(いよいよなのね……)
「では、行くぞ……」
再び始まる長老の詠唱に、シェイルは汗がにじむその手を強く握り締めた。
ゴクリと唾を飲む。
心臓は、興奮のあまり必要以上に強く脈打っている。
(あたしの前世は……きっと白銀の勇者アドニスだーっ!)
「シェイル、目を閉じたままニヤケてる……。まぁ、何を考えてるかは、だいたい想像つくけれど」
儀式を遠くから見つめていたナーイは、呆れたようにため息をついた。
「それに、降臨させても、前世が誰かなんてわからないのに……」
顔が緩みっぱなしのシェイルはそのままに、長老の呪文が響き渡る。
「『――天よ地よ! 古より我々を見守り続けるものよ! 今その記憶を紐解き、シェイルの前世の魂が現れんことを!』」
(……ん? 周りの音が……小さくなってく……)
人々の声、鳥たちのさえずり、草木のざわめきが、次第に遠く小さくなってゆく。
その感覚に不安を覚えたシェイルは、そっと瞳を開いた。
「……あ、あれ?」
しかしそこは、木漏れ日輝くライナの裏山ではなく、何も見えない闇の空間であった。
「どーなってるのーっ!?」
『落ち着くのじゃ、シェイル』
闇の中、不意に長老の声が響く。
「ちょ、長老様!? これは……?」
『ここはお前の心の中……。ワシはお前の心に直接話し掛けている』
「あたしの心の中!?」
シェイルは驚く。
「あたしって、こんな真っ暗な心の子だったのか……」
そして、がっくりとうなだれた。
『……勘違いするではない』
長老は、少し困ったように言う。
『確かにお前の心の中ではあるが、ここはほんの一部分じゃ。ここは前世の記憶と魂が眠る場所、現世との繋がりの場所なのじゃ』
「あたしの前世が眠る場所……」
シェイルは顔を上げると、ゆっくりと辺りを見回した。
「……なーんにも見えない」
『もっと意識を集中するのじゃ。目で見るだけではなく、全身で魂を感じるのじゃ』
シェイルはうなずくと、ゆっくりと息を吸い込み、目の前の空間に手を広げた。
何一つ見えない暗闇。
だが――。
「風を……感じる……」
『そうじゃ、それが前世の魂の息吹きなのじゃ』
息吹きはシェイルを包み込む。
それは、とても優しく懐かしい感じがした。
トクン――……。
トクン――……。
と、その風に乗って音が聞こえてくる。
「この音は……?」
『それが、魂の鼓動じゃ』
その温かくも力強い音は、逸るシェイルの心をそっと落ち着かせてくれた。
『前世の魂は、お前と共におる。魂を同調させ、目の前にあるものを見つめるのじゃ』
「……やってみる」
シェイルは、静かに目の前の空間を見つめた。
「こんにちは、前世のあたし……」
そっと手のひらを上に向けた。
息吹きが、鼓動が強くなる。
「大丈夫……何も怖いことはないよ」
その瞬間、手の上に小さな光が生まれた。
光は風を巻き、鼓動と共に大きくなり――。
やがて
その輝きに威圧感や嫌悪感はなく、それはむしろ、温もりを感じさせてくれるものだった。
「あなたがどこの誰で、どれだけの時を越えて来たのかはわからないけれど……」
目の前の魂に、シェイルは優しく微笑んだ。
「おかえり、あたし――」
その瞬間、魂は一際強い輝きを放ち、シェイルの中に吸い込まれていった。
シェイルは胸に手を当ててみる。
そこには、新たな鼓動が響いていた。
「懐かしい感じ……。あたしは、この温もりを、よく知っている気がする……」
淡い金色の輝きに包まれたシェイルに、長老の静かな声が響く。
『それでは、これより儀式は最終段階に入る。その魂を融合させ、儀式は終了となる』
「は、はいっ!」
『それでは、始めるぞ――』
長老がそう告げた瞬間、地を揺るがす激しい爆発音が轟いた。
それと共に、暗闇の空間が砕け散る。
「きゃわわわわわ――っ!?」
不意に足元がなくなり、果てしない穴の中に落ちてゆく感覚。
「あ、あたし、落ちてばっかりいる気がする――っ!!」
シェイルは叫ぶが、その意識は次第に薄れてゆく。
「あたしは……前世の魂と出会えたんだ……。これから……よろしく……ね……」
そしてシェイルは、意識を失った。
「イル……シェイル……!」
「う……」
急激に聞こえて来る外界からの音。
小鳥の声、草木のざわめき、そして自分を呼ぶ友の声に、シェイルはゆっくりと瞳を開いた。
「シェイル、気が付いた!」
ナーイの顔に笑みが浮かぶ。
「ここは……」
シェイルはゆっくりと体を起こす。
その瞳に映る景色は、見慣れた裏山のそれだった。
「あたし……帰ってきたんだ……」
まだ少しボーっとする頭を、左右に振る。
「もう少し、優しく終わってくれればいいのに……。あたし、また落ちたじゃん」
唇を尖らせるシェイルに、長老は言う。
「儀式が終わったわけではない……」
「そうなんだ……って、えっ!?」
驚き顔を上げると、長老は険しい表情で遠くを見つめている。
「どうしたんだろ……?」
シェイルは、首をひねりながら振り返った。
そして、次の瞬間、言葉を失う。
その瞳に映るもの、それは、激しく燃えるライナの村の姿だったのだ。
「なに……あれ……」
かろうじて、かすれた声が出た。
一同が見つめる前で次々と爆発が起こり、それと共に火柱が立ち上る。
「村が……燃えてく……」
ナーイは、シェイルの袖をキュッと掴んだ。
「長老様ーっ!!」
そのとき、一人の村人が裏山の道を駆け上がってきた。
「はぁっ、はあっ……。む、村が……。村が、ダークエルフに襲われました――!!」
「ダークエルフじゃと!? それが何故に村を!!」
全力疾走してきたのであろう彼は、息も絶え絶えになりながらも首を横に振った。
「わかりません……。ただ、赤い髪の娘を出せと叫んでいます!」
「あ、あたしーっ!?」
その場にいる者たちの視線が、一斉にシェイルに集中する。
「シェイル、あなた、何をやったの!?」
「あ、あたし、何もしてないよー!」
厳しい視線のナーイに、シェイルは両手を振って否定した。
「――とにかく、俺が村に戻る! 村に戻れば、詳しいこともわかるだろう!」
腰の剣を確かめ、レオンは叫んだ。
「うむ……。ならば、ワシも行かねばなるまい!」
「わ、私も行きましょう!」
長老と村長も後に続く。
その言葉に、レオンは力強くうなずいた。
次にレオンは、マチルダに視線を向ける。
「マチルダは、ここに残ってみんなを守ってくれ!」
「わかったわ……。気を付けてね、あなた!」
レオンは最愛の妻に微笑むと、シェイルを見た。
「お父さん、あたしも一緒に……」
「ダークエルフは危険すぎる! お前は母さんと、ここにいるんだ!」
何か言いたげなシェイルの肩に優しく手を置くと、レオンは踵を返して走り出す。
その後に村長、そして長老が続いた。
「大丈夫かな……。相手は、あのダークエルフだもんね……」
小さくなる三人の背中を見つめてつぶやくナーイに、シェイルの肩がピクッと動く。
「一般に禁じ手って言われる毒だって、平気で使うって言うし……」
「ナーイ、あのね……」
「うん?」
シェイルは、勢い良く顔を上げた。
「あたしも、村に戻るからっ!」
そう言うが早いか、シェイルは身をひるがえして走り出す。
「ちょ、ちょっとシェイル!! あなた、レオンおじさまの言葉、聞いてなかったのー!?」
ナーイの口をついて飛び出した驚きの言葉が、シェイルの背中に突き刺さる。
「聞いてたよっ!!」
「だったら何で……」
「だって……そのダークエルフは、あたしを狙って来たんでしょ? みんなを危険な目に合わせてるのに、あたしだけ安全なとこにいるなんて……。そんなことできないっ!」
シェイルは、そっと左肩に手を当てた。
そこは、先ほどレオンが触れた箇所であった。