第5話『夜空の星につつまれて』

 それから一年の月日が流れた。

 闇の軍団は日に日に勢力を拡大してゆく。

 今やこの世は、魔竜王の支配下にあると言っても過言ではなかった。


 物音に怯え、訪れる夜を恐れ、暗闇に恐怖する日々。

 しかし、その辛い日常の中でも、人々の目から希望の光は失われてはいなかった。

 深い闇の中に浮かぶ一筋の光。

『白銀の勇者』と呼ばれる者の存在である。


 白銀の勇者は、魔物に支配された都市を次々と解放し、人々に希望の光を示してゆく。

 今や彼の手により解放された都市は、十を下らなかった。




「グギャアアアッ!!」


 城内に断末魔の悲鳴が響き渡る。


「白銀ノ……勇者メ……!!」


 直立した竜のような姿をした魔神は、大理石の床の上に崩れ落ちた。


 白銀の勇者と呼ばれた青年は、手にした剣をビッと横に払う。

 刀身についた魔物の体液が飛び散り、下から白銀に輝く刃が現れた。

 取り巻く魔物たちの間に、戦慄が走る。

 その魔物たちを睨みながら、青年は口を開いた。


「ジャグナスに伝えろ! アドニスが来たと!!」




 瘴気が立ち込める暗黒の巨城。

 夜よりも深い闇、魔の巣窟、それが魔竜王が住まう城、ダークパレス。


 しかしこの城は、一年と半年前までは違う名で呼ばれていた。

 そのときの名は、ホワイトパレス。

 エメラルダ姫が治め、アドニスが仕えていた城だ。


 だが、魔竜王の力を手にしたジャグナスは、城を奪うと鋭い爪で大地を引き裂いた。

 城は大陸から切り離され、数多の魔物が巣くう孤島の魔城へと変貌を遂げたのだった。


 その魔竜王の城に、単身で乗り込んだアドニス。

 白銀の閃光が走る度に、複数の魔物の胴体が二つに分かれる。

 その強さは、一年前とは比べものにならなかった。




「ジャグナスはこの先か!」


 アドニスは豪奢な階段の前で足を止めた。

 それは、玉座の間へと続く階段だった。

 城内に入ったときから感じていた、どす黒い邪悪な意志のようなもの。

 奥に進めば進むほど強くなる不快感は、この先からより強く感じられる。


「姫……もう少しです」


 アドニスはつぶやき、そして走り出す。

 魔竜王が待つ玉座へと向かって。


 階段を駆け上がると、目の前に両開きの大きな扉が現れた。

 扉を開け、中に飛び込むアドニスを、自然の光が照らし出す。

 そこは、屋根のない広い庭園となっていた。


 よく手入れされた庭園。

 そのところどころに、魔法の従者ゴーレムたちの姿が見受けられる。

 彼らは、城の主が変わった後も、これまでと同じように手入れをしてきたのだろう。


 アドニスは庭園を進むと、一本の大きな樹の前で足を止めた。

 葉は青々と茂り、いくつもの白い花が頂生し、風に揺れている。


「姫は、この花が好きだったな……」



* * *



 アドニスがエメラルダ姫と初めて対面したのは、親衛隊“姫の騎士”の叙任式のときだった。


「よろしく頼みましたよ」


 心を打つ、透き通るような声。

 直視することすらはばかられるような神々しさが、そこにはあった。


 世は戦乱の時代。

 各地では、神々の遺恨ともいえる魔物の被害が後を絶たなかった。

 封じの力を持つ姫は、王国騎士団を率いて自ら戦場へと赴く。

 アドニスたち姫の騎士は、襲い来る魔物の手から姫を守り続け、エメラルダは数多くの魔物を封印していった。



 それから半年後――。


 エメラルダ姫は、大陸の北部を支配していた魔物の将を封印することに成功する。

 だが、その戦いは熾烈を極め、王国騎士団、そして姫の騎士にも多くの犠牲者が出ていた。


 その帰路、これまでの疲労も蓄積した騎士たちは、うつむき、口数も少ない。

 憔悴しきった表情は、とても勝利者たちのものとは思えなかった。

 そしてそれは、アドニスたち姫の騎士も例外ではなかった。


 その様子を馬上から見ていたエメラルダは、不意に足を止めた。


「……姫?」


 首を傾げる声には応えず、姫は騎士たちへと向き直る。


「この度の戦いでは、多くの者が命を落としました」


 静かだが、よく通る声。


「犠牲となった者たちの中には、家族であったり、親友であったり、そして恋人だった者もいることでしょう」


 姫は胸に手を当て、何かを押し殺すかのように瞳を閉じた。

 表情に、悲しみの影が走る。


「……私も、長い戦乱の中で両親……王、そして王妃と死に別れました」


 騎士たちは、思わず息を呑む。


 しばしの沈黙の後――。

 ゆっくりと開かれた瞳には、強い決意の色が灯っていた。


「……ですが! その犠牲を無駄にしないためにも私たちは進まねばなりません! 魔物の手により王と王妃を失った我が国ですが、まだ私がいます! 私の封印の力があります! そして――」


 姫は、騎士たちに視線を巡らせる。


「そして、貴方たちがいます。これからも私に力を貸してください! この掛け替えのない世界を、愛すべき者たちに託された未来を共に守り抜きましょう!」


 一同から沸き起こる、嵐のような歓声。

 そこに、もはや陰りの色は見えなかった。


「未来をこの手に!」


 馬上の姫は、天に向かって手を掲げる。


「未来をこの手に!!」


 騎士たちも武器を掲げ、そして凱歌をあげるのだった。




 幼い頃から神の生まれ変わりと崇められ、尊敬と畏怖の目で見られてきたエメラルダは、齢十六にして純然たる王者の風格をその身にまとっていた。


 姫ならば、この世に平和をもたらすことができる!


 誰もがそう思っていた。


 だが……。


 帰還後に、ふと訪れた深夜の庭園。

 そこで一人たたずむ姫の姿を見たときから、アドニスの思いは覆されることとなった。


 白い花が頂生する大きな樹。

 寝衣のままのエメラルダは、その幹に体を預けて夜空を見上げている。

 アドニスの存在には、気が付いていないようだった。

 空で静かに輝く星々と、所々に設置された魔法の灯りが、憂いを帯びた表情を淡く照らしだす。


「お父様……お母様……これでよろしいのですよね?」


 悲しみに沈む声が聞こえた。


「わかってます……。私は上に立つ者として、決して人に涙は見せません。……でも、人の死が辛いのです。戦いが怖いのです。心が痛いのです……」


 そこに、これまでに見た強い姫の姿はなかった。

 それは悲しみと重圧に押し潰された、一人の少女の姿だった。


 小刻みに震えるその体を前に、アドニスは思わず拳を握りしめる。

 しばしの後、アドニスは意を決すると一歩進み出た。


「エメラルダ姫」

「アドニス!?」


 不意にかけられた声に驚いた姫は、慌てて後ろを向くと目をこする。

 そして、精一杯平静を装って口を開いた。


「い、いつからいたのですか?」


 しかし、その声は装いきれず、上ずったものになっている。 

 アドニスはその問いには答えず、目を細めて姫を見つめた。


「姫……泣いてもいいのですよ?」

「な、何を言うのです! 私は泣いてなど……」

「辛いときは涙を流していいんです。その先にはきっと、求める幸せが待っていますから」


 アドニスの言葉に、姫は胸に手を当てた。

 その口が開く。

 が、姫は言葉を飲み込むように、ぐっと口を閉じた。


 訪れた沈黙。

 風が葉を揺らす音だけが聞こえてくる。


 その風を胸いっぱいに吸い込むと、姫はアドニスに向き直った。


「ありがたいお言葉ですが、それはできません。私は世界に平和が訪れるまでは、人に涙は見せないと誓ったのです」


 そう言って、そっと微笑みを見せる。


「そうですか。……でしたら」


 アドニスは古代語の合言葉キーワードを唱えた。


「『我が命に応じ、灯りよ消えろ!』」


 その言葉で、庭園内の魔法の灯りは瞬時に全て消え失せる。

 不意に訪れた暗闇。

 夜空の星明かりのみが、辺りを照らしている。


「アドニス、何を……」

「これでもう、私の目に姫は見えません。今、姫を見ているのは夜空の星たちだけです」

「アドニス……」

「だからもう、我慢などしなくてよいのです」


 その言葉に、エメラルダの瞳から一滴の涙が頬を伝った。


「あ……」


 思わず頬に手を当てる。

 両の目からあふれ出す滴は、姫の手を濡らしてゆく。


 姫は後ろを向くと、樹の幹に額をつけた。

 アドニスも姫に背を向け、夜空を見上げた。


「う……っく……ううっ……お父様、お母様……。もっと話がしたかった……。もっと感謝を伝えたかった……。もっと愛してるって言いたかった」


 ずっと抑えていた想いが、言葉が、せきを切ってあふれ出る。


「お別れの言葉すら、言えなくて……。私は……私はーっ! ……わぁぁぁぁぁぁっ!!」


 姫は泣いた。

 ひたすら泣き続けた。

 その声は、夜の中に吸い込まれてゆく。


 王と王妃。

 きっと二人は、今でもあの空から姫を見守っていることだろう。

 見上げた夜空では、星が静かに瞬いていた。



「ありがとう……ございます」


 しばしの後、口を開いた姫にアドニスは向き直る。

 そこには、目を腫らした――。

 だが、澄み切った表情の姫がいた。


「辛くなったら……またお願いしてもよろしいでしょうか?」

「いつでもどうぞ」

「ふふっ、ありがとう」


 そう言って姫は微笑んだ。


「それにしても、アドニスには泣かされてしまいましたね。城の皆が聞いたらなんと言うことでしょうか」

「ひ、姫、それは!」

「ふふふ、冗談ですよ」


 エメラルダ姫は笑いながら身をひるがえす。

 その動きに合わせ、寝衣の裾がふわりと舞った。



 それからしばらくして、姫は魔竜王の封印に成功する。

 多大な犠牲の上に、ようやく手にした平穏のとき。 


 だが――。

 それは、ジャグナスの裏切りによって、もろくも崩れ去るのだった……。