第2話『笑うゴブリン』

 アステイル大陸、それは、神々に祝福されし理想郷。

 アステイル大陸、それは、妖精が歌う幻想の大地。

 アステイル大陸、それは、明日を信じ生きてゆく者たちの世界。


 かつて世界は神々と共にあった。

 神は奇跡の力で人々を導き、信者たちはそれを崇め敬っていた。

 神の加護の元、様々な王国が生まれ、栄華を極めてゆく。


 だが、いつしか神々は、その教義の違いから対立を始めた。

 小さな波紋は、やがて大きな波となる。

 神々は光と闇の陣営に別れて争い、戦火の中で多くの神、そして王国が消滅していった。


 かろうじて生き延びた神も、その体に癒えることのない深い傷を負っていた。

 次第に朽ちてゆく体を前に、神はその身を捨てて魂だけの存在となる。

 そして、来たるべき転生の時を待ち、長き眠りにつくのであった。


 こうして、神々の時代は終焉の時を迎えるのである。



 それから数百年の時が流れた。


 神を失った世界に過去の栄光はなく、戦いの爪痕だけが未だ深く残されていた。

 各地には闇の神の眷属であった魔物が現れ、人々の生活を脅かしてゆく。


 しかし、その嘆きと悲しみの世界に一筋の光が射す。


 一国の姫であり、神の生まれ変わりとも謡われるエメラルダが立ち上がったのだ。

 姫は、神秘的なその力で闇の魔物を次々と封印してゆく。

 かくして世界の秩序と調和は、エメラルダ姫の絶対的な力で護られることとなるのだった。

 人々は訪れた平和を喜び、これが永遠に続くものだと信じて疑うことはなかった。


 だが、それは突然崩された。


 魔竜王ジャグナスなる者の出現である。

 宰相であったジャグナスは、この世を我が物とせんと、姫により封印されし魔物を解放した。

 そして、古の魔竜と契約を結び、竜の力を手に入れたのである。


 魔竜王となったジャグナスは、更なる力を求めて姫をさらう。

 姫の全てを手に入れるために。

 世界は再び光を失い、魔竜王の闇が支配する。

 姫を救い出し、世界に光を取り戻そうと、歴戦の猛者たちはジャグナスに戦いを挑んでゆく。

 だが、誰一人として、帰って来た者はいなかった……。


 かくして世界は、魔物が跳梁跋扈する暗黒の時代へと突入するのであった。




―――




「や――――っ!!」


 力いっぱい振り下ろした棒は、扉から入ってきたばかりのゴブリンの頭部を、見事にとらえた。


「このっ、このっ、このーっ!!」


 なおも姉はゴブリンの頭を叩き続ける。

 弟を守るという使命感が、恐怖に飲まれそうになる心を突き動かしていた。


「倒れて! 早く倒れてよーっ!!」


 自分の力では、ゴブリンを倒すことはできないかもしれない。

 だが、1分でもいい。

 1分でも、このゴブリンを気絶させることができれば、そのスキに弟の手を取り納屋から逃げることができる。

 もちろん、外には沢山の魔物がいるだろう。

 しかし、今となってはこの中にとどまっていることは無意味だ。

 それならば、魔物の手の届かないところまで逃げた方がよい。

 もっとも、無事に逃げおおせる保証はどこにもないのだが……。


「これでーっ!!」


 姉は飛び上がると、全体重を棒に乗せて振り下ろした。

 振り下ろす力に姉の体重、そして落下の勢いを加えた棒は、寸分違わずゴブリンの頭部に命中する。


 手応えあり!


 ――しかし、そこには微動だにしないゴブリンがいた。

 それどころか、姉を見て黄色い歯をむき出しにして笑ったのだ。

 いや、ゴブリンに笑うという知能はないのかもしれない。

 だが、彼女にはそう見えたのだ。


 薄気味悪い笑みを見せたまま、ゴブリンは無骨な棍棒をなぎ払った。

 とっさに手にした棒で防ごうとするが、棍棒はそんなものなど粉々に打ち砕く。

 悲鳴を上げる間もなく吹き飛んだ体は、隅に重ねてあった藁の山に突っ込んで止まった。


「お姉ちゃん!!」

「うぅ……」


 弟の悲鳴のおかげで、なんとか意識を失うことは免れたが……。


(ダメ……体が動かない……)


 体中を走る激痛、腕に伝わる熱さ。

 若草色の服が、みるみる真っ赤に染まってゆく。

 ゴブリンが、一歩一歩と近付いてくる。

 痛みと恐怖、そして弟を守ることができなかった無念が、涙となって溢れ出た。


 ゴブリンは姉の前でその歩みを止めると、ゆっくりと棍棒を振りかぶる。


 絶望――。


 その二文字が頭をよぎり、姉は強く目をつぶった。


(さよなら……)


 ……。


 …………。


(……あ、あれ? 私、まだ生きてる……!?)


 すでに棍棒が振り下ろされても、おかしくないくらいの時は流れている。


(じゃ、じゃあ、なぜ……?)


 恐る恐る開いた目に飛び込んできたものは、胴を切断され、崩れ落ちるゴブリンの姿だった。


「ひっ……!?」


 短い悲鳴が口から漏れる。

 崩れ落ちたゴブリンの向こうには、白銀の鎧に身を包んだ金髪の青年が立っていた。

 鎧は、外から入り込む光を受けて輝きを放つ。

 その神々しくも温かい光を浴びていると、体の痛みが和らいでゆくような気がする。


「お姉ちゃん!」

「ああ、ヨンカス……」


 姉は、駆け寄ってきた弟を片腕で抱きしめた。

 互いの無事を喜び、頬をすり寄せ涙する。

 殺伐としていた空気を吹き流すかのように、優しい風が二人をそっとなでていった。