何でこういうタイミングに限って、養護教諭の先生がいないことが多いのか不思議で仕方ない。机の上に“少し席を外してます”というメモがあったが、何処に、どれくらい離れているのやらだ。まあ、夏樹は気分が悪くなっただけで特に手当を必要としているわけではないし良いのだが。
そもそも、高校に入ってから保健室に来たことなど一度も無い。イメージ的に女性の先生なんだろうか、とは思うがそれ以上の印象は一切なかった。若い先生なのか、年輩の先生なのか何も知らない。健康な人間にとって、保健室のイメージなどそんなものだろう。
「おい、大丈夫か。横になっとけよ」
「……大袈裟だっつの。少し気分悪いだけだし」
「いいから。……みんなから離れておく口実も大事だろ。俺も一緒にサボってやるから」
「サボりだと思ってんじゃないか理貴……」
こういう時、親友の気遣いは本当にありがたい。教室から離れたことでほとんど吐き気は収まっていたが、流石に状況が状況なので今教室に戻るのはもちろん、他のクラスメート達の近くに行くのも避けたかった。特に、今は鞠花と顔を合わせたい気分ではない。
一体誰が、何のためにあんな酷いことを。考えれば考えるだけ頭がぐるぐるしてしまい、悲しくて涙が出そうになる。
「……酷いよ、マジで」
思わず、ぽつりと呟いていた。
「俺に嫌がらせしたいなら、机に落書きするとか、物を隠すとかでいいじゃん。なんで、わざわざ猫殺すんだよ。しかも子猫だぜ子猫。最悪。マジで最悪。犯人見つけたら絶対ボコる……」
「お前が泣きそうになってる理由そこなのかよ。お前らしいけど」
理貴は少し呆れたように笑った。
「お前、いじめとか悪口に耐性ありすぎじゃないの。中学の時も似たようなことあったんだろ」
理貴と出逢ったのは高校に入ってからのことである。しかし、小学校や中学校の時のエピソードをお互いに話すのは珍しいことではない。特に、中学校の時は話題が豊富なので、ちょっとした話や愚痴も聴かせることが少なくないのだった。理貴が人とのおしゃべりが大好きな人間だからというのもあるのだが。
「はっきり言って、中一の時にお前が嫌がらせされたの、弟のせいだろうに」
確かに、そういうこともあったな。ベッドに横たわりながら、夏樹は思い出していた。
中学一年生の時。クラスメートの一人が、夏樹を目の敵にして嫌がらせしてきたことがあったのだ。こっそり筆記用具を壊されるとか、机の上に落書きされるとか、鞄に疵をつけられるとかそういう類の嫌がらせである。なんというか、子供じみたいじめだなと思う。何でいじめられるのかわからなかったが、犯人はすぐに割れていた。そいつは夏樹が疵や破損を見つけても大して動じないのを見て、毎回分かりやすく悔しがっていたからだ。
殆ど話したこともない相手。何で自分のことを嫌うのだろうと、それだけずっと不思議で仕方なかった。
理由は嫌がらせが始まって一カ月くらいしたところで判明する。弟の冬樹が廊下で、そいつに怒鳴っているのを目撃したからだ。ちなみに、一年生の時は自分達は同じクラスだったと補足しておく。
『ふざけるな!兄貴は関係ないだろ、何で兄貴を標的にするんだよ!』
人生で、あんなに弟が怒っているのを見るのは初めてだったと思う。まさに相手の胸倉に掴みかかって、ボコボコにする寸前であったのだから。
『お前が恨んでるのはおれのはずだ。兄貴は関係ない!これ以上、兄貴に酷いことしてみろ、ボコボコにして二度と学校に来れないようにしてやる!』
『ひ、ひいいい……!』
相手は、完全にびびっていた。その時は夏樹と周りが止めたので暴力沙汰にはならなかったが、もし止めなかったら本当に相手が顔面崩壊するまで殴っていたかもしれないと思う。体格は同じくらいだったが、運動神経の良さもあいまって弟は夏樹よりずっと腕力があったのだ。
その後、どうしてこんなことになったのか冬樹から話を聴いた。あれだけ怒っていたはずの冬樹は、相手が逃げてからはわんわん子供のように泣きじゃくるものだから、正直話を聴きだすのは大変だったが。
『……あ、あいつ。あいつの部活のマネジが、おれのこと好きだからって……それでムカついて嫌がらせしてやりたかったけど、でも、おれは友達がたくさんいて敵に回すと面倒くさそうだったし、喧嘩も強いからって……だ、だから、兄貴に……!ほんとサイアク、サイアク、サイアク!弱そうだからって、無関係に兄貴にそういうの向けるのマジいみわかんない……!』
まあ、そういうことだ。
そいつが本当に恨んでいたのは冬樹の方だったが、冬樹を標的にするのは面倒なことになりそうだったので、代わりに夏樹に八つ当たりしてたというわけである。ちなみに、そのマネジという少女と冬樹はただの“良いお友達”でしかなく、少女も冬樹と強引に恋人になりたがっていたわけではなかった。むしろ、自分なんか相応しくないけど好きでいるだけで幸せだから近くにいたい、みたいなスタンスだったという。
でも、女の子のことがひそかに好きだったそいつは、“彼女に好かれている”というだけで冬樹のことが気に食わず。
結局恨みが巡り巡って、夏樹の方に来たのだそうだ。ある意味、そいつの狙いは正しかったのかもしれない。自分が標的になるより、よほど冬樹はショックを受けていたようだったから。
――実際。俺も、自分がいじめっぽい目に遭ったことよりずっと……冬樹が泣いたことの方がショックだった。俺は冬樹より喧嘩も強くないけど、それでも……俺が、あいつをボコってやりたいと思ったくらいには。
自分へ向けられた悪意は、ある程度己の裁量で片づけることができても。己の大切な人に向けられた悪意や、とばっちりが別の方向に向いた時にはどうすればよいかわからなくなってしまう。そういうこともあるのだ、人間は。
「……冬樹だって、悪くなかったよ、アレは」
夏樹は保健室の天井を見上げて言う。白い天井に、つぶつぶとした黒いゴマ粒のような模様が散っている。あれには何か意味があるんです!みたいなことをテレビ番組で言っていた気がするが忘れてしまった。幼い頃、ヒマになって天井を見上げて、意味もなくつぶつぶを数えたりしたことがあったような気がする。
「でも、あいつが泣いたのは、俺のせいだったし。……俺がただ無視するだけじゃなくて、一人で解決できてれば……冬樹を泣かせないで済んだのにって思ったら、すごく悔しかったつーか」
「夏樹お前な、本気でそう思ってる?」
「思ってるよ。だって俺はあいつの兄貴だ、本来兄貴が弟を守るのは当たり前だし、友達だって守るのは普通のこ……いっで!」
次の瞬間、目の前に火花が散った。理貴に、思いきり額にデコピンをされたのだと気づく。彼は心底呆れ果てたという顔で、“ズレまくりだばーか!”とため息をついた。
「あのな、多分お前がもっと早く相談してたら、冬樹クンはそんなにショック受けなかったと思うんですよ。そう考えるのは俺だけでしょーか」
「え」
「冬樹クンが怒ってたのは、お前に対してもあったんじゃないかってこと。だって相談してもらえなかったんだぞ。それってさ、兄弟なのに……頼りにならないと思われたみたいじゃん?中一の時は同じクラスだったんだろ。なら余計にだよ」
「そ、それは……」
頼りにならなかったんじゃなく、頼りにしたくなかっただけだ。――でも、ひょっとして。それは相手にとっては、大して違いなどなかったりするのだろうか。なんとなく気づいて、少しだけ罪悪感を抱いた。
「俺が冬樹クンの立場だったら、泣きはしなくてもお前に怒ると思うんだよなあ」
なんて、理貴に言われてしまっては余計に。
「自分より、誰かのために悲しんだり怒ったりできるのはお前の良いところだと思う。冬樹クンの事故の秘密だって、今更だけど調べたいって思うのは冬樹クンのためなんだろ」
「そりゃ……本当は三年前に調べるべきだったし、三年前にあいつの悩みに気づけなかったのは俺なわけで……」
「ほれみろ、お前だってそうなんじゃん。冬樹クンが自分に相談してくれなかったのが残念だとか、悲しいだとか、悔しいだとか思ってんじゃん。で、今になって滅茶苦茶後悔してショック受けてんだろ。……そういう気持ちがわかるなら、お前が同じことを繰り返したら駄目だろ」
だからさ、と彼は続ける。
「俺や、他の奴にももっと頼れよな。お前が潰れたら、一体誰が俺のお楽しみホラー鑑賞会に付き合ってくれるんだ?」
「……お前マジで怖がりなのになんでホラー鑑賞会したがるの。ていうか、理由それなの」
思わず吹き出してしまった。理貴は、なんとなく冬樹に似ているところがある。友達想いなところ。友達がたくさんいるところ。そして、誰かのために一生懸命になってくれるところ。
だから自分は、彼のことが大好きだし、みんなもきっとそうなのだろう。
「……さんきゅ」
夏樹は小さく笑って、お礼を言った。
「じゃあ、さ。ちょっと相談に乗って欲しいというか。まあ……頼らせて頂いてもよろしいでしょーか?」
「おう、最初からそう言え。ていうか、ちょっと落ち着いてきたか?」
「うん、まあ、なんとか」
やっぱり、寝ている場合ではないような気がする。上半身を起こして、うーん、と伸びをした。
「とりあえず、今朝のことから教えて欲しいんだよな。俺、ショックで自分の机の上の猫しか見てなくて。……お前、何か知ってたりする?」
あの死骸は、一体どのタイミングで、誰が置いたものなのだろう?
そして、何の目的であんなことをしたのだろう?
まずはそこから冷静に考えなければなるまい。