2人で昼食をとっていた視聴覚室から、それぞれの教室へと戻る。
優衣のクラスの前で、じゃあ…と手を上げて別れを告げた瞬間、一瞬だけ、翼と高橋さんの姿が見えた。
高橋さんが翼の席に座っていて、楽しそうに手作り弁当を広げている。
その隣で壁にもたれながら立っている翼と目が合いそうになったけど、向こうの方から何も見ていないと言いたげに目を逸らされた。
私も前を向いて自分のクラスへと足を動かす。
一瞬だけ見えた二人の姿。
ほら、何も感じてない。優衣の言ったことはやっぱり勘違いだよ。
時々胸が痛くなったり苦しくなったり、ショックを受けたりしていたのは…うんそうあれだ。
翼が親離れしたのが寂しいんだよ。
ずっと母親みたいに世話焼いてたんだから、子供に距離置かれればショックだって受けるじゃん。
みんなの前では話しかけんな、なんてどこの母親も言われることだし…
彼女が出来てちょっと寂しいとか、自分よりも大切にされててヤキモチ焼くとかもさ。ほら、説明つくじゃん。
駄目だね。こんな親心卒業しなくちゃ。それこそ私が…
「幸せ…逃しそう」
ぐっと無意識に力が入る両手。
何かが目から溢れ出しそうになって何とか持ちこたえたまま教室へと戻った。
玄関の扉を開いてから翼の靴があることを確認して家の鍵を閉める。
閉めたは良いものの、今日一日のもやもやが体を重くしている所為で中々リビングへ進むことが出来なかった。
ぼーっと翼が脱いだ靴を見つめたまま立ちつくす。
学校で言われたことを思い出したら胸がぐっと苦しくなるのに、玄関に置かれている翼の靴を見たらほっとする。
揃えることもせず左右バラバラに脱ぎ捨てられた靴が、私に安心感を与えてくる。
放っておいたら私が綺麗に揃えてくれると思ってるんだろうな。
この泥まみれでどこの田んぼにハマったんだってくらい汚い靴を…って汚ッ!なんだこの靴!
「翼!これ何?!」
「玄関の方に飛んでんのが右足で手前にぶっ飛んでんのが左足」
「違う!何でこんな汚れてんのかって聞いてんの!」
「ほら今日雨すごかったじゃん?」
「降ってねェわ!ちょっとどこ向いてんの!目背けるな!」
一瞬だけこちらを見たかと思えばすぐに背を向けてテレビの方へ向き直る。
そっぽを向き続ける翼にずんずん近づこうとしたその時、他の異変にも気がついた。
途端、自分の顔から血の気が引いていく。
「制服まで泥ついてんじゃん!明日終業式あんのにどうすんのさ?!」
「やっぱ明日までに乾きそうにない?」
「当たり前でしょ!何やったらこんなことなんの?!」
「……。」
辛うじてハンガーに吊るされている制服に唖然とする。
制服を着たままソファに座らなかっただけ良かったものの、吊るされた制服からは泥のような水が滴り落ちていた。
滴り落ちたものが下に置かれていた風呂桶の中で波紋を作る。
空いた口を自分の手で塞ぎながら、翼へと視線を移した。
こうなった理由を一向に話そうとしない翼が変で、思い当たることを片っ端から考えてみる。
そしたら…こうなった理由はすぐに自分の中で答えが見つかった。
「…高橋さん、かばったの?」
「…違うよ」
しばらく沈黙していた背中から、否定の言葉が返ってくる。
でも長い付き合いの私には、それがどうしても「そうだよ」と言っているようにしか聞こえなかった。
どちらにせよ、今の翼にこれ以上怒る気は更々無い。
何も言わずに向けてくる背中が少しだけ、私へ謝っているように見えたから。
「…翼」
「ん…」
「何食べたい」
「……から揚げ」
小さく聞こえてきた声によし!と大きく叫んだ後キッチンに向かう。
冷蔵庫から鶏肉を取り出して、翼を元気づけるために早速調理を開始した。
制服はもう手遅れだしジャージで終業式だなあれは。後で片付けよう。
「翼、風呂は?もう入ったの?」
「…シャワーした。もうご飯食べてAV観て寝るだけ」
「一作業余計だけどわかった。すぐ作るから待ってて」
いつも通りの冗談を言うようになった翼にほっと胸を撫で下ろす。
それと同時に感じたのは、何だかよくわからない複雑な感情。
自分の頭では整理しきれなくて、ポツポツと入れ違いに色んな感情が湧いて出てくる。
高橋さんのことは、こんなになっても助けるんだね。
いじめから守ってて、翼はえらいよ。
自分の所為で高橋さんが傷つけられて、ショックなんだよね。
早く翼を元気づけなきゃ…落ち込んでる翼は見たくない。
帰った時、玄関に翼の靴があってほっとした。
一日中モヤモヤしてて、今だって少しモヤモヤしてるのに…翼が帰って来てるってわかった時はほっとした。
でもなんで…?
なんで翼は…彼女の所じゃなくてこの家に帰ってくるの…?
「翼…」
「ん、何…?」
「いつも私より先に帰ってるけど、高橋さんとデートとかしなくて良いの?」
「高橋まだ受験終わってないから」
「そ、そっか…」
なんだ、そりゃそうか。
受験の間は一緒にいるのも控えて勉強するもんだもんね。
そりゃそうか…
ふわっと明るくなっていた気持ちが、翼の返事を聞いた途端に急降下する。
一喜一憂する自分の感情に追いつけないまま、次の話題へと切り替えた。
「あ!今日昼休みに教室で高橋さんといるとこ見たよ!仲良さそうじゃん高橋さん笑ってたし」
「うわ、見んのやめて。ひなに見られんの恥ずい」
「はは!ごめんごめん。高橋さん弁当持って来てたじゃん!手作り弁当?翼食べたの?」
「食べたよ。ってかひな食い付き過ぎ高橋の話題」
前の話題のメインが高橋さんだっただけに、どうしても次の話題も高橋さん繋がりになってしまう。
今は地雷だったかな…と反省の意味も込めて、冷蔵庫からちくわを一本取り出して翼の方へ持って行った。
何でも食べる翼には、これで多少機嫌がとれるはず…
「から揚げが出来るまでこれを…」
「いくら跪いて差し出されてもちくわじゃんそれ」
「文句言うなら私が貪り食ってやるわ…!」
機嫌を取り損ねた腹いせにガブーッとちくわへ齧り付く。
見事に一口で3分の2のちくわを消滅させた。
その光景を呆れたような目で見ていた翼が、プッと吹き出して今日初めての笑顔を見せる。
「ひなはバカだよなぁ貧乳だし」
「貧乳関係ないだろ今の行動に!!」
「まあいいや、悩むの止めた。やっぱちくわちょうだい」
私の手首を掴んで残りの3分の1に翼が齧り付く。
勢い余って指まで噛んだ瞬間、この世の者じゃないような声が出た。
すかさず空いた方の手で翼に鼻フックをお見舞いする。
その後も、子供の頃へ戻ったみたいに格闘技をきめ合って大笑いした。
こんなに2人で騒いだのは久々だ。
さっきまで落ち込んでいた翼はいつも以上に元気になっていて、私も少し嬉しくなる。
八の字固めが終わってからグタッと翼が上向きになって寝転がった。
「あー、疲れた…そういや高橋の作った弁当あんま食ってないから腹減った」
「え…?何であんまり食べなかったの?」
「なんか…」
普段ひなの作ったやつ食べ慣れてるから、あんま口に合わなかった。
そう言われた瞬間、また心臓の辺りがぎゅっと痛くなった。
翼の表情を見れば何も深い意味がないことは明白で、それどころか高橋さんに対する悪気もない。
子供と同じような感覚で言われた言葉なのに、胸の痛みはどんどん強くなっていく。
「他の人の料理とか食べる機会なかったけど、ひなって料理上手かったんだな」
「ッ…別に、上手くない、し…」
この胸の痛みがどういう意味なのかなんて…
「ひな、腹減ったから早く作って」
「は、早く食べたいなら翼も手伝って!」
…気付きたくもなかった。