第13調査大隊の旗艦である、巡航艦フェニックスの生活区にあるトレーニングルームの利用可能時間は朝の8時から夜の10時までである。
「ユリアちゃーん!」
物理キーを振り回しながら満面の笑みで手を振ってくるツェツィーリヤを見て、ユリアは寝ぼけ眼をこすった。ちらりとバングルで時間を確認すれば、時計は午前5時を指している。
「元気ね……イリヤさん……」
「なーーーんであのイカレ副官の野郎がいやがるんだ?」
「ユリウス、ツェツィーリヤさんは女性だよ。あと上官だからね」
「知りませんそんなのー。ぶーぶー」
あからさまな悪態はツェツィーリヤの耳にも届いたようだった。エメラルドグリーンの瞳を氷点下の温度に落として、ツェツィーリヤは心底嫌そうな顔をユリウスに向ける。
「どうしてこのシスコン野郎がいやがりますの?」
「すみません、ぼくがご一緒してくださいと頼ん」
「おーまーえーがー、ユリアちゃんに何するかわかんないからですぅー」
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ツェツィーリヤはそんなユリウスを生ゴミの中の蛆虫を見るような目で一瞥してから、その台詞は完全に無視して幼い二人に優しい笑顔を向ける。
「初めまして、ツェツィーリヤです。ハイドラ君、QPちゃん。二人とも、頑張りましょうね」
その少し甘い調子の声に、ユリウスは鼻に皺を寄せて舌打ちをした。
「あーやだやだ、ロリショタ属性もお持ちですかぁ上官殿」
「失礼な人ですね。なんでもフェティシィズムに結びつけるその感性こそお下劣ではなくて?」
「言っとくけど俺はこいつらのお兄ちゃんだからな! 変な虫がつかねーように見てやる義務があんの」
「はぁああ!? 何言ってますの、頭沸いてるんですか? てか言い方気っ持ち悪っ……」
「あー、ちょっとちょっと」
仲の悪い犬のようにキスもできそうな距離感で睨み合っている
「それ以上続けるなら二人とも帰ってもらいますけど」
「「ごめんなさい、ユリアちゃん」」
躾の良い犬のようにピシッと言う事を聞いた二人を見て、QPがひそひそとユウに耳打ちする。
「ねえ。あの方たち、本当は仲がいいんじゃないですか?」
「あはは、そうかもね……」
苦笑いを交わしているユウとQP、そしてハイドラを振り返って、ユリアは肩を竦めた。
「ごめんね、二人とも」
「いえ、理性の制御の効かない大人を見ているのはなかなか興味深いので」
制御の効かない大人たちは凍りついた。生真面目な様子でそう返したハイドラに、QPが苦いものを食べたような顔をする。
「ハイドラ君、そういう事は思ってても言わないほうがいいよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
「なんだかQPのほうがお姉さんみたいね」
くすりと笑ってユリアが言うと、QPはえっへんと薄い胸を張ってみせた。
「わたしは培養槽を出てまだ半年ですけどね、
「それ、さり気なくぼくのことを常識知らずって言ってるよね」
「そういうのわかってきたの、えらいぞーハイドラ君」
少し憮然とした表情でQPに額をつつかれているハイドラを見て、ユウは頬を緩めると、パンパンと両手を打ち鳴らした。
「ほらみんな、ここで油売ってたら何のために早起きしたか分からないよ」
「すみません、私としたことが。今開けます」
正気を取り戻したツェツィーリヤが物理キーを使ってトレーニングルームの扉を開く。隊員のオーバーワークを防ぐため、時間外の利用は厳しく制限されており、時間外の利用には士官の生体認証と物理キーが必要な仕組みだった。
他のメンバーへの紹介の前に親交を深めておきたいという先輩達の希望により、誰とも鉢合わせることのない早朝にトレーニングと称した交流会が敢行されることとなったのだった。
ツェツィーリヤが壁のスイッチを操作すると、照明が点灯するのと同時に体がズン、と重くなる。火星の重力は地球のおおよそ三分の一である。長らく地球の重力環境下で進化してきた人類において、地球と同等の重力環境下であることが一番トレーニングにとって効果的であるとされ、トレーニングルームは地球重力に準じる仕様となっていた。
重くなった体を慣らすため、念入りに体をほぐしながら、ツェツィーリヤは改めて自己紹介をする。
「さっきは中途半端になってしまってごめんなさいね。私はツェツィーリヤ、シキシマ艦長の副官です。気軽にイリヤと呼んでいただいて構いません」
「ありがとうございます、イリヤ副艦長」
「いやだわ、ただのイリヤでいいのよ。あなた達の事はなんて呼んだらいいかしら」
そう尋ねられ、QPは頬に指を添えてうーんと唸った。
「QPのままでもいいですよ? あ、でもエンジェルズが来たら紛らわしいのかな」
「エンジェルズ?」
隣で背中を伸ばしていたユリアが、聞き慣れない単語に首を傾げる。
「クローンなので。20人くらい後追いでQPが合流するんですよ」
「20人……そりゃ紛らわしいわね……」
ツッコミを諦めた表情で呟くユリアに、QPはくすくすと笑った。
「クピドって呼んでくれる人がいるんです。だからクピドでお願いします」
「あら可愛い。天使ね」
「ジャパンのマヨネーズが由来だと聞きました」
ユリアとツェツィーリヤは顎を落とした。命名者はどこのどいつだ。由来さえ聞かなければ可愛らしいQPの見た目にぴったりな名前だけに、余計にたちが悪い。
ツェツィーリヤは一瞬躊躇う素振りを見せたが、肩を落としてそれを受け入れた。
「ではクピドちゃんと呼ばせていただきますわ、可愛い天使さん。それでハイドラ君は……その、
そう言って気遣わしげに眉を下げたツェツィーリヤを、ユリウスがせせら笑った。
「はっ、なーんも分かってないな上官殿は。いいか、ハイドラはな——」
「やめて、ユリウス兄さん。ぼくが自分で説明します」
顔面で嘲りと得意げを絶妙に混ぜ合わせながら講釈を垂れようとしていたユリウスが、ハイドラのその一言で呆気に取られたように目を瞬かせて振り向いた。
「兄さんって言った?」
「言いましたよ、ユリウス兄さん。ありがとう、でもこれは大事なことなので、自分で」
「うん……うん、そうだよなハイドラ。ごめんな」
一瞬で“兄”を黙らせたハイドラはツェツィーリヤに向き直る。
「これはぼくが常に、自分が内に化け物を飼っていると言い聞かせるための名です。母がこの命の他にぼくにくれた唯一のものであり、ぼくの戒めです。だからぼくは
ツェツィーリヤは押し黙った。短い沈黙のあと、彼女は少し眉を下げて微笑む。
「……失礼なことを言いました、ハイドラ君。よろしくお願いしますね」
ユリウスが目を
「そこで“でも”が出なかったことだけは褒めてやるよ」
「何故ここであなたが上から物を言うのです? 本当に腹の立つ人ですね」
「ぼくは兄さんとイリヤさんが仲良くしてくれると嬉しいです」
再び睨み合った二人を、ハイドラは一言で黙らせた。呆れ顔の三段活用があるとしたら、その三段目にいるような顔をしているユリアに、ひそひそとクピドが言う。
「(ちなみに|あれ《兄さん呼び》は私の入れ知恵ですよ)」
ユリアはなんとも微妙そうな顔をした。
「あんた意外と食えないって言われない……?」
「研究所育ちで、まともな情緒浴びると思ってます〜?」
そう言ってカラカラと笑ったクピドの姿に、
それが性格面だけでないことは、すぐに彼女たちの知るところとなった。