天子キリコとの謁見を終え、ももこは何も食べずに部屋に閉じこもった。
そして次の日の夜、ももこはキリコの持ちかけた取引の返事をするために、再びキリコの部屋を訪れていた。
「ではももこ、面を上げよ。そして昨日の返事を聞かせてもらおう」
ももこの後ろには当然アレスとサーシャが控えている。
二人ともキリコの前で平静を装っているが、昨日からのももこの様子を心配していた。
特にサーシャなどは、今すぐにももこを抱きしめてやりたいような、まるで目の離せない妹を心配する姉のような気持ちになっていた。
「…………」
キリコの言葉にももこは答えない。
両手で庇を作ったまま動かない。
「聞こえないのかしら?」
「ももこ……大丈夫か? 天子様にお返事できるか?」
アレスがももこの背中をつついて心配しながら返事をするように促す。
そしてももこが手の庇を解き、顔を上げてキリコの方を見た。
「ふん……どうやら気持ちは決まったようだな」
「…………」
キリコを見るももこの瞳は、決意の色を宿していた。
一晩考えて答えが出たようであった。
「では返事を聞かせなさい」
ももこは振り返らずに、背後にいるアレスとサーシャを気にするように視線をさまよわせた。
当然キリコもそれに気が付く。
『……日本語でなら返事をしてくれるかしら?』
「て……天子様?」
「え……何語?」
『キリコちゃん、ごめんな。ありがとう』
アレスとサーシャは当然、日本語を知らない。
キリコが突然自分たちの理解できない言語を喋りだしたことにも、ももこが同じ言語で受け答えしたことにも驚きを隠せずにいた。
『聞かせなさい。アレスとサーシャが気になるような答えなのかしら?』
そしてキリコは明らかに戸惑っている二人を無視して会話を進める。
相変わらずももこを見下ろし、冷たい視線で睨みつけている。
しかしももこは昨日とは違い、その視線を受け止めて真っ直ぐにキリコを見据えていた。
『ウチは、キリコちゃんには協力できひん。世界征服なんて、ウチはしとうない』
『ふぅん……じゃあ日本に帰れなくてもいいのね?』
『……ウチ、誰かを傷付けてまで帰ろうと思わへん!』
「アレス……これってもしかして……邪神語?」
「ああ……恐らく……」
二人はももこがこの世界に転生してきた日のことを思い出していた。
理解できない言語を喋るももこと、邪神語の翻訳本を片手にコミュニケーションを図ろうとしていた大僧正。
ももこの喋る言葉は邪神語で間違いない。しかしなぜそれを天子が理解し、喋れるのか。
言葉にはしないが、天子に対して沸々と疑問が湧き出ていた。
『……それで、どうするの? 私に協力はしない。日本にも帰らないし邪神教にも帰らない。ももこはこれからどうするの?』
『ウチは……分からへんけど……どっか! どっかに行く! アレス兄ちゃんとサーシャ姉ちゃんには……黙っといてほしい……』
自分がこの街を出て、誰にも迷惑をかけずにたった一人で生活をする。
思慮に欠けてはいたが、子供のももこが精一杯考えた答えであった。
そしてもしそれをアレスとサーシャが聞けば、当然心配をさせてしまう。
それが二人に自分の答えを聞いてほしくない理由であった。
『この世界のことを何も知らないももこが、一人で旅に出るとでも言うの?』
『……そう……』
『ふふ……ははは……あっはっは! 無理よ無理! そんなことできるわけないじゃない!』
『で、できるもんっ!』
『私もももこと変わらない歳だけどね、子供のももこが知らない世界で……いいえ、日本でだって。一人で生きていくことなんて出来るわけないでしょう。ももこ、冷静になりなさい』
『それでも! ……それでもウチのせいで誰かが傷付くなんて……ウチ……』
『誰も傷付けたりなんてしないわ。ももこの命令の力を使えば争いが起きるはずないじゃない。逆らう者を全員、その力で黙らせればいいのよ』
『みんなの気持ちを無理矢理変えるやなんて……みんなの気持ちを踏みにじるんと一緒のことやんか……キリコちゃん、ウチそんなんできひんよ……』
ももこは、大僧正やミモモ、そして白装束達の笑顔と優しい気持ちを思い出していた。
それだけでももこの心はとても温かくなる。
きっと一人で生きていくことは辛いことも多いのだろうとぼんやりと思うのだが、みんなとの思い出だけでももこはこれからもやっていけそうな気になるのだ。
キリコの表情に影が差す。
視線はますます厳しく、そして氷のように冷たくなっていた。
その視線に気付いた時、ももこは言い知れぬ不安に包まれた。
「て、天子様……?」
思わずアレスの口から天子の名がこぼれ出た。
キリコのその表情はアレスですら見たことのないものであったからだ。
『本当に今まで幸せだったのね……ももこ。幸せで幸せで……辛いことなんて一切経験したことがないのね……』
『キリコ……ちゃん?』
『人の気持ちを踏みにじる……ね。ははは……私は今まで踏みにじられてばかりだったわよ? 強制されて踏みにじられて、毎日毎日怒鳴られて殴られて……結局殺されて転生してこの世界にいる……ねぇ、ももこ。散々周りの大人に踏みにじられてきた私が、どうして他の人を踏みにじってはいけないのかしら? 私がやられたようにやり返すだけじゃない!! どうなの? 答えなさい! ももこ!』
声を荒げているが、キリコの表情は冷たく硬い。
そしてなによりも、ももこはキリコのことをとても遠く感じていた。
キリコが何を言っているのかいまいち理解できない。どんな言葉をかけてもキリコには届かないのではないかと思ってしまったのだ。
そしてそう思ったら、ももこは言葉にすることができなくなっていた。
『え……え……キリコちゃん……殺され……?』
『………………ふん、もういいわ。ももこ、最初からあなたに拒否権はないの。同じ日本人だから少しは優しくしてあげようかと思ったけどもういい! あなたも踏みにじってあげる! カノンナ! カノンナ!!』
アレスとサーシャには、もはや状況がつかめない。
キリコもももこも日本語で会話しているのだ。
分かったことはキリコが感情的になってカノンナの名前を叫んだことだけだった。
「カノンナ! カノンナ!! 聞こえないの!? アレス、カノンナを呼んできなさい!!」
「は……、か、畏まりました!」
アレスはキリコに声を荒げられるのは初めてのことだった。
だからアレスはその違和感に全く気付かなかった。
命令されて弾かれたように立ち上がろうとしたアレスの袖をサーシャが引っ張った。
サーシャだけが、その場で冷静だったのだ。
「アレス待って! ……おかしいわ」
「サーシャ? お、おかしいって何がだよ?」
「カノンナが……側仕えのカノンナが呼ばれて来なかったことなんて……今までなかったわ」
言われてアレスもその違和感に気が付いた。
そして静かすぎる扉の向こうから感じるただならぬ気配に、アレスはいつの間にか汗ばんでいた手のひらで剣の柄を握りしめた。
サーシャはその場に立ち上がり扉の方に向かって剣を抜き放った。
「……? ど、どうしたのだ? アレス、サーシャ?」
「天子様とももこはここに……不穏な気配がします……」
「え、え……アレス兄ちゃん? サーシャ姉ちゃん? どないしたん?」
抜き身の剣がももこの視界に映らないように隠して、サーシャは振り返って微笑みながら答えた。
「ももこ、心配しないで。天子様といい子にして待っていなさい」
「サーシャ、いくぞ……」
「ええ」
ももことキリコを残して、アレスとサーシャは部屋を後にしたのだった。