第10話『異なる理(ことわり)』


 水の流れによるものか、歪んだ空に浮かぶ太陽は、目で捉えられる程にゆっくりと移動していた。


(水の領域においては、太陽の影響もまた違って来るとか……そういう事っ!?)


 アーリアは、自分の中にある衝動を認識していた。

 夢かうつつか、死を想う時にまぶたの裏に浮かんだ、おそらくは誕生の記憶の断片。

 自分は望まれて生まれて来たのだと……

 だったら、あの人に会いたい!

 母親という存在に。

 まだ生きているのなら。

 しかし、百年の半分、五十年でも人はほとんど死んでしまう。ここに居たいという気持ちもある。でも、それでは絶対に会えない! 万が一、可能性があるのなら……


 目の前で、また一日が過ぎて行く。


 右の拳を心臓の上に置き、ぎゅっとドレスの胸元を握り締める。

 唇は、声にならない呟きをもらす。


 会えるとは限らない。

 何の手掛りも無い。

 でも、諦めたら絶対に会えない!


 望まれて生まれたなら、今、生きている事を伝えたい!!


 くっと胸がつまる。息が苦しい。ここを出て行ったら、生きていけるかすら判らない。また、どんな危険が待ち受けているか。もしかしたら、もう二度とここには来れない。アウリーリンやそのお友達に会えなくなるかも。それでも……それでも!!


 気が付くと、傍らに誰かの気配が。

 歪む表情で見やれば、そこにはやはり、アウリーリンの穏やかな姿があった。

 さとられてしまっただろうと思っていた。

 これだけ、水面の向こうを眺め続けてしまえば……


 ふと彼女の手元を見れば、そこにはアーリアの旅装束らしき物と、見慣れないマントが折りたたまれてあり、更には刃渡り30cm程はあろう鞘付きの小剣が乗っていた。

 そして、何事か口にしながら、アウリーリンは小さく頷いた。


「アウリーリン……」

「ありがとう」

「うん……ありがとう……」


 少しはにかみ、礼を言う。

 アウリーリンのドレスを脱いで、畳んで返す。それから手早く自分の衣服を身にまとうと、その上からマントを羽織った。質の良い、少し厚手のマントだ。


 何か物言いたげなアーリアに、アウリーリンは答えなかった。

 そのマントと小剣は、随分前に流されて来た人族の男性の物。勿論、その人物はとっくの昔に輪廻の輪へと逝ってしまっていたのだが、それをとっておいた物だ。

 言われも何も判らない。でも、それがアーリアのこれからに役立つ物だろうと思い、持って来たのだ。


 刀身に不思議な文様が浮かぶ小剣は、刃こぼれ一つ無い真新しい物と思えた。

 それを鞘に戻して、腰に引っさげると、ちょっと重さで体が左に傾いた。それを、リュートの位置で調整し、マントで覆い隠した。


「どうかな?」


 マントで前を隠した様を、アウリーリンの前でくるっと一回転させて見せた。

 うんうんと頷かれ、何か言われるんだけど、何だか良く判らない。でも、たぶん、似合ってるよと言ってくれてるんだろう。そんなニュアンス。




 地上に出るのは、思ったより簡単だった。

 もしかしたら、自力で泳げれば出れたのかも?

 辺りは見慣れぬ風景。少し下流なのかも知れない。

 初夏の緑あふれる世界が、やや冬の到来を待つ色合いへと変貌をとげていた。

 予測していた事だから、大して驚かない。それよりも、水から出た筈なのに、一滴も濡れて無い自分にびっくりだ。また魔法みたい。


「アーリア……」


 ほっそりとした青みがかった指が、そっと私の目の下を拭う。そこだけが、少し濡れているみたい。

 その柔らかで安堵感を感じさせてくれる指にされるがまま、瞳を閉じ、絶対忘れない様にと心に記した。

 その指が離れた時、頭の左側にすっと髪をすかれる感触が。


「え? 何かな?」


 手を伸ばして、触れてみれば、何かや硬い物が髪へ差し込まれていた。

 アウリーリンの髪をすく仕草を見れば、それが何なのか判った。櫛だ。

 手にしてみれば、いかさま左様。

 虹色に輝く、乳白色の貝の櫛。

 あまりの美しさに息をのみ、アウリーリンを見た。


「貰っちゃって、いいの?」


 アウリーリンは頷くと、そのまま、スッと川の中へ。


 そこには川のせせらぎだけが残った。


「ありがとう。アウリーリン。私、行くね」


 唇をきゅっと結び、水面に語りかける。きっと彼女の事だから、聞こえてるに違いない。


「きっとまた、会えるって思うから。じゃあ、またね!」


 一度だけ手を振り、くるっときびすを返すと、アーリアは振り返らずに歩き出した。