第19話 拭いきれぬ過去

 父ボルツとリティスの実母は、完全なる政略結婚だった。

 ボルツに結婚前から愛人がいたことを知ったのは、八歳の時、母が死んだ直後のこと。既に子どもが二人いたことも同時に知った。

 その後愛人は侯爵家の後妻に収まり、思う存分権力をふるった。

 ……そこから王家主催のお茶会へ出かけるようになるまで、リティスはほとんど人として暮らしていない。

 父もリティスには興味がないのか、一度として庇ってくれなかった。

 いないものとして扱われている横で、幸せそうに暮らす家族。

 義弟にも義妹にも罪はない。

 分かっていても、幼心に辛かった。

 両親に愛されて育った、美しいユリア。

 無邪気で天真爛漫で、周囲の者も虜にならずにいられない。

 そうして誰からも愛されてきたから、自分が望めば手に入らないものはないと、当然のように思っているのかもしれない。

「お義姉様、閨係としてアイザック様のところにいらっしゃるのでしょう? お父様から聞いたの。それは全て、私のためなのだと」

「……え?」

 出会い頭にそう切り出され、リティスは凍り付いた。

 幸せそうに微笑むユリアの言葉が、うまく噛み砕けない。

 彼女は何を言っているのだろう。

 リティスが呆然としている間に、周囲の使用人達が口々に騒ぎ出す。

「ユリアお嬢様。あの者とみだりに話されてはならないと、奥方様から言い聞かされているでしょう?」

「またお叱りを受けてしまいますよ」

「ほら、大食堂に行きましょう。今日は、シェフがユリアお嬢様のため腕によりをかけて作った、シフォンケーキが用意されているそうです」

 ユリアは頬に指を添えて少し考えると、名案とばかりに琥珀色の瞳を輝かせた。

「そうだわ! それなら、リティスお義姉様も一緒にシフォンケーキを食べましょう! お母様には内緒で、ね!」

 誰にでも分け隔てなく、可憐で、心優しい。

 使用人達も、ユリアには敵わないと言いたげに、困ったように微笑んでいる。

 おそらく義母も彼女を許すのだろう。そうして、怒りの矛先をリティスに向けるのだ。

 ユリアはこちらに歩み寄ると、何の躊躇いもなくリティスの手を握った。

「ね、お義姉様! 久しぶりに我が家へ帰ってきたんですもの、せっかくだしヴォルフも呼びましょう! きっととっても楽しいわ!」

 ヴォルフというのは義弟の名だ。

 彼は今年で十一歳になっているはずだが、果たしてリティスについてどのように聞かされているのか。義母から教育を受けているに違いない。

 リティスは失礼にならない程度にやんわりと義妹の手を外し、小さく首を振った。

「あの……ユリア。気持ちはとても嬉しいのだけれど、今日はお父様に呼び出されているの。残念だけれどケーキはまた今度の機会にして、今は先ほどのあなたの言葉について、詳しく聞きたいわ」

 ユリアが閨係のことを知っているとは思わなかったし、それを話したのが父だというのも寝耳に水だ。

 そして、リティスがユリアのために閨係をしているというのは、どういうことなのか。

 彼女は不思議そうに目を瞬かせ、首を傾げた。

「あら、お義姉様は聞いていないの? アイザック様と結婚するのが私だからよ!」

「……………………え?」

 やっぱり理解できなくて、間抜けな声が漏れる。

 再び呆然とするリティスを置き去りに、ユリアはうっとりとした眼差しであらぬ方向を見上げた。

「アイザック様って、本当に素敵な方よね。きらきらした銀色の髪に、海のように澄んだ青色の瞳……お友達もみんな格好いいって言っているわ。あんな方と結婚なんて、何だか他の子達に申し訳なくて……」

 夢見るような瞳でありつつ、結婚への不安を覗かせるユリア。結婚前の繊細な乙女心というものだろう。――アイザックと結婚するというのが妄想でなければ。

「えぇと……殿下との結婚……というか、婚約は……もう内定しているの?」

「それはまだだけど、お父様がそう言っていたのだから間違いないわ!」

 ユリアは清々しいほど真っ直ぐな笑顔で、思わずリティスも空笑いを返してしまった。

「結婚式には、絶対にお義姉様も招待するわ! 大切な家族だもの!」

 実に無邪気で、アイザックと結婚する未来を疑いもしていない。

 ユリアはとても幸せそうだった。それに、ずっといないもののように扱われてきた義姉を、当たり前のように家族の括りに入れている。

 やはり、悪い子ではないのだと思う。

 ただ、絶対的に周りが見えていない。

 致命的に世間を知らない。

 これまでは失敗しても、『仕方のない子だ』と、そうして許されてきたのだろう。

 リティスは、一度レイゼンブルグ家を出たことで、家族を客観的に見ることができるようになっていた。

 ――この子がレイゼンブルグ家を出たら……たいへんなことになるんじゃ……。

 何だかくらくらしてきた。

 ユリアには、社会性というものが身についていない気がする。

 王族どころか、どこの貴族家に嫁ぐにしても混乱を招く予感がした。

 アイザックとの結婚という点に衝撃を受けるより、義妹の今後への心配が先に立つ。

 リティスはつい身を乗り出していた。

「ユリア、あのね……」

「――それ以上、私の娘に近寄るな」

 厳しい声音に打たれ、全身が強ばる。

 温度のない命令。

 無機質な低い声は、リティスの気持ちをあっという間に萎ませてしまう。

『あなたにとって、私は娘ではないのか』。

 そんな質問さえ無意味に思えて、心まで凍えていく。

「遅い。あまり私を煩わせるな」

「たいへん申し訳ございませんでした……お父様」

 リティスがゆっくりと振り返った先には、壮年の男性が立っている。

 レイゼンブルグ侯爵。リティスの実父でもある、ボルツ・レイゼンブルグ。

 上質なジャケットをまとった、貴族然とした佇まい。

 苛立った時に綺麗に整えられた口髭を撫でるのが癖で、それを目にする度リティスは怯えて縮こまっていた。怒りが過ぎると、彼が愛用しているステッキで、強かに打たれることもあったから。

 せっかくの覚悟も、アイザックからもらった勇気も、ボルツを前にすると駄目だった。

 怖くて、こわくて。

 幼いリティスが、恐怖に震えている。

「お父様ったら。今は私がお義姉様とお話をしているのに……」

「お前は部屋に戻っていなさい。我々はこれから、大事な話をしなければならないのだ」

「……じゃあ、食堂に行っています。お父様の分のシフォンケーキ、残しておいてあげませんからね」

「意地悪を言わないでおくれ。あとで必ず行くから、話の続きもその時にしよう」

「お父様こそ意地悪。私はお父様ではなく、お義姉様とお話したいんです」

 それでも、ユリアもさすがに家長には素直に従うようで、ボルツに食い下がることはなかった。

 彼らの会話が、どこか遠く聞こえる。

 いつも家族の輪から弾かれた時に存在していた、疎外感。リティスの周囲にだけ、透明な薄い膜が張っているような。

 ユリアは最後に、リティスを振り返った。

「お義姉様、またぜひ遊びにいらしてくださいね! 約束ですよ!」

 明るい彼女が使用人達と去っていけば、その場には重い静けさが立ち込める。

 ボルツはリティスに声をかけることもなく歩き出す。

 リティスもただそれに従った。

 父は適当な小部屋に入ると、おもむろに用件だけを切り出した。

「――第二王子殿下とユリアを婚約させる。お前も協力しなさい」

 ユリアの発言から、内容はある程度は察していた。

 ボルツは義妹に相応しい相手として、アイザックを選んだ。

 そこで、彼の閨係を務めているリティスを、二人の仲を取り持つよう呼び出したのだ。

 ボルツはもしかしたら、クルシュナー男爵家に嫁いだあとのリティスの動向も、把握していたのかもしれない。そうでなければ、第二王子の閨係が誰なのかといった詳細を知り得るはずがない。

 勝手な行動をしないよう、使用人に監視させていたのだろうか。レイゼンブルグ家の不利益となる事態を避けるために。

 ――そんな理由で、わざわざ私を気にかける? 何だかしっくり来ないわ……。

 けれど違和感は、ボルツが振り向いたことで掻き消される。

 鋭い眼光を向けられただけで、リティスは委縮してしまった。

「お前のようなつまらない人間が、可愛い義妹の――ひいてはレイゼンブルグ家の役に立つ時が来たのだ。拒むことは許されないぞ」

 名前すら呼ばれない。

 それでもリティスは頷いた。

 ずっと虐げられてきて、父の命令に背いたことは一度もなかった。

 逆らうことなど考えられない。

「はい……お父様」

 いつも周囲から愛されてきたユリア。

 冴えないリティスと違って、誰だって彼女を求めるに決まっている。アイザックだって彼女を一目見た途端に惹かれるだろう。

 所詮、リティスはただの閨係。

 何度も自分に言い聞かせてきたではないか。

 はじめから、彼と結ばれることはないのだと――……。


 ごとごと、ごとごと。

 抜け殻のようなリティスを乗せた馬車が、王宮に向かって動き出す。

 もう、涙すら出なかった。

 それでも、最後に望むことがあるとすれば。

 ――アイザック様と……今度こそ。

 アイザックとの甘い一夜を実現する。

 最後に思いを遂げてみせる。

 リティスは強く強く、覚悟を定めた。