第135話 彼が残したもの

 女性3人が泣いたり落ち込んだりしていたとき、テオがひとり平然とした顔でお茶を淹れていた。

 庶民までもがハーブティーであれどお茶を飲むようになったのは、大疫禍からの教訓だ。生水を飲むことで感染する病気があることから、必ず水は一度沸騰させてから口にするようになった。


 この工房にはカモミールがブレンドしたハーブティーが何種類か置いてある。効果を考えずに香りと味が良くなるようにブレンドしたものや、免疫を高めて病気に罹りにくくする効果があるもの、消化を助ける働きがあるものなどだ。


 テオが淹れたのは夏らしくローズヒップの酸味を主体としたお茶だった。ミントやオレンジピール、乾燥させたりんごのスライスなどが入っていて、爽やかで飲みやすい味になっている。


「とりあえず、これでも飲め」


 4つのコップにお茶を注いだテオは、自分のカップにスプーンで蜂蜜を入れている。いくらか落ち着いてきたカモミールたちも、珍しいテオの気遣いに感謝してお茶を飲むことにした。


「やっぱり、侯爵様には話さないといけないですよね」

「オーナーにもよ。変に隠すことは良くないわ。後ろ暗いところがないなら、キャリーさんの言う通りに早急に動くべきよね」


 ヴァージルの件については、ただ恋人同士が破局したという事では済まされない。侯爵に言いたくはなかったが、ヴァージルはカモミールの口から侯爵にこの計画について話して貰いたがっていたのではないかという節もあった。


 カモミールとキャリーは精製水で目をよく洗い、ついでにもう一度顔を洗ってから侯爵邸に出向くことにした。急ぐ必要があるので化粧などしている場合ではないし、また泣いたりしたら酷いことになる。


 3人は共に一度クリスティンへ行き、カリーナはそこで念のために臨時休業にすることを決めた。出勤している店員に対しては、日給を補償するので店内に待機しているようにと伝えている。


 侯爵邸の門番に、火急の用件で侯爵に目通りをしたいと告げると、カモミールやカリーナと既に顔馴染みの門番は、彼女たちの常にはない切迫した表情に重要な用件であると察してくれたようだ。

 待ったのはほんの少しの間で、すぐに邸内に案内される。通されたのは侯爵の私的な応接間のようだった。


「旦那様はじきいらっしゃいますので、お待ちください」


 応接室に案内してくれたのは、侯爵が工房を視察に来たときに同行していた執事だった。紅茶も出されたが手を付ける気になれない。

 雑談をするような場でもなく、3人は押し黙ったままで侯爵の訪れを待った。


「すまない、火急の用向きと聞いて、できるだけ急いだのだが」


 夏であるというのにきっちりとスーツを着込んだ侯爵は、カモミールたちの向かいのソファに腰を下ろした。

 目配せをしあい、口を開いたのはカリーナだ。彼女は膝の上に手を揃え、執事に目を向ける。


「この度は急な来訪にも関わらず、拝謁を賜り恐縮に存じます。本日わたくしどもが揃って参りましたのは、クリスティンとカモミール嬢、そして侯爵家に関わる、ある陰謀が明らかになったからでございます」


 カリーナは目で執事に「このまま話を続けても良いか」と問うていた。できるならば人払いを頼みたいところだが、侯爵が認める人物である可能性もある。


「旦那様、わたくしは席を外した方がよろしいでしょうか」

「いや、ここにいて欲しい。アルバートが管理する話に関わるかもしれない」


 その言葉で、年嵩の執事が侯爵の信頼する側近なのだと知らされた。


「隣国ゼルストラの間諜が、カールセンに入り込んでおります。その者は魔法使いで、侯爵家をゼルストラに寝返らせるための情報を探っておりました。――そのために、魔法で人の記憶を操作し、わたくしの幼馴染みと偽ってクリスティンに潜入し、侯爵家の担当となって近付いていたのです」


 カモミールは思いきって言葉を絞り出す。侯爵は真摯な表情で彼女の言葉を全て聞き、思いも寄らないことを口にした。


「当家がゼルストラから狙われている件も、間諜が入り込んでいる件も把握している。ただ、誰が間諜なのかまでは絞り込めていなかった。それで、その間諜は誰で、今はどうしているかを尋ねてもいいかね?」

「お披露目会の際に王都へも同行した、クリスティンの店員でありわたくしの幼馴染みを騙っていたヴァージル・オルニーです。……ですが、彼のその名は偽りで、本当の名前などないかもしれないとも言っておりました。かつてはエドマンド侯爵家に養子として入り、侯爵家に仕えることも目的としていたようです。ですが、エドマンド侯爵家に男子が生まれなかったことで、そのまま家督を継ぐことになるのは不都合だったようで、周囲の記憶を消して計画を断念したそうです。

 そして、ヴァージルは、ゼルストラに戻ると言って去りました。……彼が魔法によって封じていたわたくしの記憶が全て蘇り、感情が抑えられずに『私の前から消えて』と言ってしまったのです……早計でした」


 ぎゅっと目を瞑り、カモミールは爪が食い込むほどに手を握りしめた。そっと隣のキャリーがカモミールの手を包んでくれる。彼女の手も冷たくなっていたが、それはカモミールの支えになった。


「ゼルストラに戻ったか……何か情報を掴んでいた素振りはあったかい?」

「いえ、成果は出ていないと申しておりました。『ジェンキンス侯爵の王家への忠誠心は強くて、この土地を守ることへの意識は固い。今のところ寝返りを促せる決定的な事柄は見つからない。――だからこそ、狙われた』と」


 昨夜のヴァージルの言葉は、ただ一度聞いただけなのにカモミールの中に染みついていた。カモミールの言葉を聞き、侯爵は厳しい顔で頷く。


「当家は、前回の戦争で武功を立てすぎた。ゼルストラにとっての最大の敵は、このジェンキンス侯爵領なのだ。彼の国は表面上の友好関係を我が国との間に築きながら、常に失った領土を取り戻し、あわよくば我が国の領土を切り取ることを考え続けていた。今はフォールズ辺境伯領が国境を守り、兵がそこに集中している。なれば、私を寝返らせれば挟撃は容易になり、しかも最も危険にさらされるのは周囲から包囲を受けるこの地だ。

 これは、あの戦争の後から当家に代々伝えられた心得でもある。最前線でなくとも、常に備えを怠るなと。平和を甘受するのは良いが、その平和のために払われた犠牲を決して忘れてはならぬ。そのための、タイムの丘でもあるのだ」


 やはり侯爵に隙はなかったとカモミールは安堵の息をついた。けれども、侯爵が続けた言葉に身を強ばらせることになる。


「付け入る隙がない――確かにそうだろう。ならばどうするか? 私が抗えぬ弱みを作ればいい、そう考えるはずだ。その場合狙われるのはジョナスであり、アナベルであり、マーガレットだ。

 家族を人質に取られる可能性も常に警戒している。そして、最悪の場合は切り捨てる覚悟も。――家は必ずしも血によって存続するものではない。しかるべき資質を持ち、必要な教育を施した者を跡継ぎとする道もあることは、この家に生まれた以上叩き込まれているのだ。そして、ジョナスもマーガレットもそれを理解している。アナベルは幼いからまだ理解はできないだろうが」


 カモミールは言葉を失っていた。カモミールだけでなく、カリーナとキャリーもただ侯爵の覚悟の前に無言だった。

 護国の英雄・ジェンキンス侯爵家。その血筋の中にはとてつもない覚悟が受け継がれていた。


「侯爵様……ヴァージルは、いっそわたくしが侯爵様に話して欲しいと思っていたようです。5歳でエドマンド男爵家に入ったことで、それまで向けられなかった愛情を注いで貰えて幸せだったと言っておりました。彼は今でも男爵様や男爵夫人、そしてイヴォンヌ様から受けた愛情を尊いものだと思っていて、慕い続けていたのです。

 ゼルストラなんて思い入れもないし、裏ギルドが潰れてしまえばいいとも思っている――わたくしにはそう言いました」

「ならば、ヴァージルこそ取り込む隙が大いにあるとも言えるな。フォールズ辺境伯領に知らせを出そう。彼が国境を越える前に捕捉できるといいのだが。

 とにかく、よく報告してくれた。まさか魔法使いを投入されているとは、さすがに我々も気づいていなかったよ。しかも記憶を操作するとは厄介だな――」

「わたくしどもに対する処置は、どうなりますでしょうか」


 顎に手を当てて悩み始める侯爵に、カリーナが恐る恐る声を掛ける。それを聞き、侯爵はなんでもないことのように笑った。


「気にすることはない。魔法使いの力の前では普通の人間は無力だ。カリーナ女史もカモミール嬢も、被害者と言えるのだから。なにより、迅速に知らせてくれたことを評価しよう。こちらも王都にいるマーガレットに電報を打ち、社交界でそれとなく備えをさせるような噂を流させることにする」


 初めて会ったとき、侯爵は軽い気質の人物に見えた。

 けれど、彼を知れば知るほどそれは表面上のものであって、実に思慮深い人物だと認識を改めざるを得ない。


 不要な混乱を招くことを防ぐため、ヴァージルのことは他には漏らさないようにとの命が下された。

 執事のアルバートは侯爵の護衛でもあり、情報管理を行っているらしい。ゼルストラの裏ギルドがカールセンに送り込んだ人間についての情報もいくらか掴んでいた。



 ゼルストラへの対策は侯爵に任せ、カモミールたちは普段の生活に戻ることになった。

 他言無用とは言われたが、タマラとガストンにだけはヴァージルのことを説明している。ふたりは声も出ないほど驚いていて、特にタマラは心を痛めたようだ。


 胸に空いた穴から目を逸らしながら、無理矢理普通の生活を送る。

 そして、1週間ほどが過ぎたとき、カモミールの元に郵便が届いた。


 妙に厚みがあり、何だろうと思ったが差出人は侯爵家の侍女であるメリッサだった。

 心臓が耳の側にあるのではないかと思うほど、自分の鼓動がうるさい。

 メリッサから届くものと言えば、心当たりはひとつだ。


 震える手で包みを開封すると、出てきたのはやはりピンクのバラを元のように組み立てた立体的な押し花だった。

 王都の劇場で、愛を告げるヴァージルから手渡された一輪のバラ。添えられた手紙には、苦心したので遅くなってしまった詫びと、カモミールとヴァージルの幸せを祈っているというメリッサの温かい言葉が添えられていた。


「ヴァージル……」


 バラの花を胸に抱きしめながら、ヴァージルが去った夜のようにカモミールは泣いた。

 この傷が癒えるまで、どれほどの時間が掛かるか、想像も付かなかった。