第110話 勇気ある者

「ひとりでも多くの人たちに石けんを使って貰うには、まず一番効果を実感しやすい高級なライン、そして同じように効果を肌身に感じられる労働者向けに作るのがよいと考えました。

 家庭の中で稼ぎ手である人が使って『これはよい』と感じた物なら――そしてそれが手軽に手に取れる価格であるなら、それは家族も使う物になるでしょう。いずれは石けんのブランドのみを独立させて運用することも視野に入れております」


 カモミールが話し終えると、マシューが侯爵に向かって礼をした。「僭越ながら」と前置きをして話し始める。


「マルセラ石けんには水とオリーブオイル以外は使ってはいけないという決まり事がございます。

 マルセラ石けんを名乗らなければ、様々な副材料を入れることも可能です。例えばこの石けんですが、夏の労働者向けと言うことで、皮脂を落としやすくするクレイ以外に、ミントの成分を入れることを検討しております。

 これから1リットルの油脂を石けんにいたしますが、それを3つに分け、ひとつには何も入れず、ひとつにはミントの精油を、最後のひとつにはメントールという成分のみが結晶化した物を砕いて混ぜる予定でございます。

 うまく行けば、体を洗った後に清涼感を感じ、風呂上がりの暑さを緩和できる物になりまする」

「風呂上がりの暑さを緩和、と。それは面白い。石けんとは奥が深いものなのだな、今までは『必要な物』『使いにくいがこんなもの』と思って使っていたが、カモミール嬢の持ってきてくれた石けんを使ってから私も認識を新たにしたよ。

 確かに、病気の予防としても入浴は必須の物であるし、様々な種類の中から自分に合った物を選べるならそれは良いことだろう。――ふむ、石けんのブランドのみを独立運用と言ったが、新しい工房用の土地などが必要になったら言いなさい。カールセンの中では厳しいかもしれないが、日帰りで通える近場でなら支援もできる」

「ありがとうございます。――ですが、わたくしの工房ばかりそのように目を掛けていただいて、他の工房との不公平感が出たりはいたしませんでしょうか」


 都市外の土地と聞いて「その手があったか」とカモミールは思った。けれど、基本的に侯爵領の中で都市の外に勝手に建物を建てることはできず、侯爵の許可が要る。

 それをしないと、街道を塞ぐ形で家を建て、通行料を取ろうとする不届き者などが現れるからだ。


 石けん作り――特に冷製法は熟成の期間が長いので、作成してから出荷するまでの石けんの置き場が場所を食う。今までは屋根裏に置いてきたが、あまり作成数は増やせない。

 そのために、人を選んで外注という方法も考えているのだが。


「現在この石けんは領内でしか作られていない。王都で購入した貴族が自領で手に入れるのは不可能だ。それは輸出品になり得るということだよ。マルセラ石けんならばどこでも手に入るし、実績があるから使い続ける人間も多いだろう。

 けれど、この石けんの使い心地の良さを知ってしまったら、戻れるだろうか? 私としては戻れないと思う。ならば、今後の生産量は増やす一方になるだろう。この工房だけでは手狭だと思うので、将来を見越してこのような提案をさせて貰った。

 後は、どうやってこの冷製法の石けんを広めるとっかかりを作るかだが」


 侯爵は冷製法の石けんを領の推奨産業として扱うことも視野に入れているようだ。カモミールは急に話が大きくなって内心焦りを感じていたが、この工房だけでは手に余ると思えば石けん職人を雇い入れればいい話だ。

 材料次第でマルセラ石けんと同等、もしくはそれ以上の利益を出すことも可能とキャリーが試算をしているし、石けんは消耗品だから手堅い商売である。


「まずは、当工房と取引のあるアイアランド鉱工商会の鉱夫寮に持ち込み、試供品を無償で使って貰うということを考えております」

「アイアランド鉱工商会にも話は通っておりまして、最初だけにせよ無料で石けんを置いてくれるならありがたい、との答えも貰っております」


 キャリーがカモミールの言葉に補足した。その話はまだ聞いていなかったのでカモミールはキャリーの行動の速さに驚くばかりだった。確かに、福利厚生の一環として寮の風呂の石けんは商会が買って置いているので、無料で貰えるならとふたつ返事しそうである。


「なるほど。実際に使って貰って広めると言うことか。ならば、カールセン内の公営の浴場に置く許可も出そう。ただし、私が出すのは許可だけで、実際の石けんは工房の持ち出しになるからあまりやり過ぎないように」


 思わずカモミールとキャリーとマシューは顔を見合わせた。共同浴場に置けるなら、告知さえすればこの石けんは広まるだろう。

 全ての浴場に置く必要はない。数カ所選んで置けば、話を聞いた人間は興味があれば試しに来るだろう。その上で、既存のマルセラ石けんがいいというならば、それを選ぶのも自由なのだから。


「侯爵様のご厚意に感謝いたします。その際には事前にご連絡を差し上げることにいたします」


 石けんに使う油の温度もちょうどよくなったので、そこからは実際に石けん作りを見てもらうこととなった。

 先に皮膚に付いたり目に入ったりしては危険な薬品を扱うことを知らせ、長い手袋と眼鏡をしたテオが石けんを攪拌する。テオには本来必要ないのだが、これをしないのも不自然なのだ。


 金色だったオイルが、薬品を入れるにつれて不透明になっていき、まるでカスタードクリームのようにとろりとしてくる。侯爵は少し離れた場所からそれを興味深そうに見ていた。

 薬品が全て入ると、長い攪拌の時間になる。視察の時間中に型入れまで見せたいので、一番力があるテオが続けて攪拌をすることになっている。


「ここから攪拌で化学反応を進めて参ります。ですが、時間が掛かりますので侯爵様にはその間別の仕事をご覧いただきます」


 テーブルの上に並んでいたボウルやメスカップは、既にキャリーが流しに移動している。洗うときも多少危険なので後で洗うつもりだ。


 カモミールがテーブルに並べたのは、様々な精油と試香紙ムエツトだ。これから香水の調香を見せるつもりである。


「現在ヴィアローズには男性向けの商品はございません。ですが、男性向けの香水は確実に需要がある商品ですので構想を練って参りました。本日行いますのは、ある程度方向性を決めてきたブレンドを、実際に試して香りを決定することでございます」


 侯爵と執事が頷いている。以前練り香水を作って見せたこともあり、侯爵なら香水の作り方に興味を持って貰えると思ったのは正解だったようだ。


「当工房はジェンキンス侯爵家と縁が深い工房と自負しております。そして、この工房はかつてテオドール・フレーメが使った工房でもあります。

 錬金術師として誤った道に進まないよう、そしてこの地に住む民として誇りを忘れないよう、新しい香水のメインの香りとしてタイムを使わせていただきます」


 カモミールはタイムの精油を3枚の試香紙に垂らし、2枚を執事に渡した。彼はまず自分でその香りを確認し、安全を確認してから侯爵に渡した。

 カモミールもタイムの香りを聞きながらこの香りの特徴について説明する。


「この香りは侯爵様にも馴染み深いものと存じます。若干甘みを感じる爽やかな草の香りで、緊張を和らげたり元気を出す心への作用がございます。香水としては最初に香るトップノートという部分に該当しますので、この香りに深みを持たせ、香水として長い時間で香りの変化を楽しめるような他の香りと組み合わせて参ります」


 事前に選んでおいたいくつかの香りと、タイムの香りを合わせてみる。試香紙の下の方に精油の名前をメモし、上部に精油を垂らす。そしていくつかの試香紙を一緒に持って手で扇ぎ、香りを確かめた。


 最初はレモンを入れていたが、香りが軽くなりすぎる。量次第だが、タイムが負ける気がした。一番最後に香るラストノートとしてベチパーというイネ科の植物の精油を入れていたが、これは単独で嗅ぐと「土の匂い……」と思うのに、ブレンドに使うとどっしりとした深みを与えられるので重宝する。


 いくつかの組み合わせを侯爵と執事にも試してもらい、意見を貰いながら調節する。

 ヴィアローズと言えばバラだが、今回は差別化を図るためにも使わない。

 試行錯誤の末、小さなビーカーにカモミールはブレンドを完成させた。

 結局悩みに悩んで、王都で買ってきた松の精油なども使い、少しだけグレープフルーツを入れたりもした。レモンよりもほろ苦い香りがするので、爽やかさと力強さを出したいと思ったカモミールのイメージに合ったのだ。


 何をどれだけ入れたかは全てメモに残し、カモミールはアルコールで希釈してパルファムに仕上げるとそれを香水瓶に入れた。


「この地で戦った在りし日の勇敢な人々を讃えるために作りました。侯爵様、代々この地をお守りくださったご先祖を偲び、お受け取りくださいませ」


 タイムの香水は侯爵に相応しいだろう。カモミールが香水瓶を差し出すと、侯爵はそれを直接受け取りながら目を見開いた。


「なんという……。香水ひとつに、そのような想いを込めることができるとは。

 カモミール嬢、この香水は是非販売して欲しい。平和な時代を甘受する我々は、勇敢に戦った過去の人々を忘れてはいけないのだ。華やかさばかりに気を取られている今の貴族には、血なまぐさい過去があった事実を思い出して欲しいと常々思っていた。

 その辺の説教は程ほどに抑えて、過去の勇者を讃える文を私が書いて署名した物を印刷して香水につけることにしよう」


 元々販売するつもりで作った香水ではある。

 けれど侯爵のお墨付きとなると付加価値が違う。思わぬ支援にカモミールが目を瞬かせていると、侯爵は少し苦い表情になる。


「今この地で、過去の戦争に思いを馳せられるのは、我がジェンキンス侯爵家の者以外にはおそらくカモミール嬢だけなのではないかと思う。そして、君が殊更にその事実を胸に刻んでいるのは、この工房を使う錬金術師だからだろう」


 確かにそうかもしれない。けれどカモミールにとっては、それはテオのおかげだった。