第72話 侯爵邸での特訓・10

 庭園から戻ったカモミールは、今度は侯爵夫人に呼ばれた。

 午前中の仕事の休憩のためのお茶を一緒に、とのことだった。


「マーガレット様、お招きくださりありがとうございます」

「いらっしゃい、ミリー。どうぞ座って楽にして。イヴォンヌ、いつものお茶と軽いお菓子をお願い」

「かしこまりました」


 イヴォンヌが一礼して部屋を出て行く。

 カモミールが今日招かれたのは応接室ではなく、侯爵夫人の執務室のような場所らしい。本棚があり、机があっていかにも仕事のための場所らしかった。その室内に、くつろぐために儲けられたスペースがあり、丸いテーブルと椅子が三脚置かれている。


「失礼します」


 慌てることなく腰掛けたカモミールに、自身も向かいの椅子に座りながら侯爵夫人が微笑みかけた。


「だいぶ緊張が抜けたようね。元々言葉はしっかりしていたから、後は嗜みとしての礼儀作法を憶えて緊張癖が抜ければなんとかなると思っていたのだけれど。

 もしかするともう1日必要かしらと昨日は心配したけど、問題ないようだわ」

「昨日授業を受けられなかったことでわたくしも心配いたしました。ですが、スミス先生が安静にと強く言ってくださったおかげで、身の回りで常に侍女が世話を焼いてくれる状況に慣れることができたのです。

 同年代のサマンサとドロシーも、わたくしにとっては大変素晴らしいお手本になってくれました。マーガレット様のお心遣いに感謝しております」


 最初から落ち着いて話すカモミールに、侯爵夫人は満足げに頷いた。


「あなたの成長は素晴らしいわ。家に戻って、元に戻ってしまわないかが少し不安ではあるけども。

 これからも私のお茶に時々付き合ってね。時にはクリスティンと三人で仕事の話になるけれど」


 イヴォンヌがワゴンを押して戻ってきた。今日は侯爵夫人お気に入りのハーブティーを淹れ、テーブルに焼き菓子を載せた皿を置く。


「お茶が入るまで、お菓子をいただきましょう。頭を使うと甘い物が欲しくなるのよね」

「それではいただきます。確かに、わたくしもそうです。以前持たせていただいたお菓子も、仕事の合間にすぐ食べてしまいました」

「ふふっ、今日もお土産にたくさんお菓子を持たせてあげるわ」

「ありがとうございます、何よりのお土産です」


 お土産にお菓子を持たせてくれると聞いて、カモミールは純粋に喜んでしまった。グリエルマが見ていたら額に手を当てて悩みそうな程素直に感情が出てしまっている。


 手を伸ばして食べたクッキーは、オレンジピールが入っていて爽やかな味わいだった。これもカモミールの好物だ。

 ちょうど良い頃合いを見計らってイヴォンヌが淹れてくれたハーブティーとクッキーを楽しむと、良い具合にリラックス出来る。


 図書室の本を借りても良いかと聞いたところ、どうぞ好きなだけお持ちなさいと許可を貰ったので、何冊か借りていくことにした。

 軽いおしゃべりをしながらお茶をしたのは20分ほどだったろうか。皿の上のクッキーとお茶がなくなったのを機に、夫人は仕事に戻ると告げカモミールもその場を辞した。

 部屋を戻る前に図書室へ再び立ち寄り、面白そうな本を3冊ほど借りる。錬金術に関係した本は図書室にはなかったので、流行した恋愛小説や旅行記だ。


 庭園が見える窓辺の椅子に座って、旅行記を開いてみる。いくつかある旅行記の中でこの本を選んだのは、クイーン・アナスタシアの産地と憶えていたサマール王国を題材とした本だったからだ。地理に興味を持たないできたカモミールは、サマール王国の名前を憶えていたのがやっとで、どこにあるのかなどは知らない。


 見知らぬ異国を頭の中に描きながら読書をしていると、昼食の時間になった。切りが良かったので本を置き、サマンサの案内で食堂へ向かう。

 無難に昼食を終えた後は、最後にして最難関の山場、グリエルマの授業だ。今日もアナベルと手を繋いでレッスン室へ向かい、カモミールがドアをノックした。


「どうぞ」


 初日と同じ、素っ気なくも聞こえるグリエルマのおうえがある。

 あの時のカモミールは、未知に対する恐れに飲み込まれ掛けていた。けれども、今日は違う。レッスンは未知のものではなく、グリエルマのひととなりについても知っている。

 そこに、恐れはない。


 ドアを丁寧に開け、ゆったりとした動作で室内に入る。

 アナベルと並び、カモミールは部屋の中央で待つグリエルマに向かって礼をした。


「ごきげんよう、グリエルマせんせい」

「ごきげんよう、グリエルマ先生」


 アナベルはぐらつくカーテシーを、カモミールは肘を美しい角度で曲げて頭を下げる。どちらも口元に笑みを湛えていて、優雅な淑女の礼に見える。


「ごきげんよう、アナベル様、カモミール嬢。とてもいい笑顔ですね。今日の挨拶は80点というところかしら」


 100点でなかったのが少し悔しい。アナベルはカーテシーの上体が傾いているし、カモミールはまだ完全に美しい礼がとれていないのだろう。今日はまた背中が痛くなる特訓が待っている。


「どうぞ、おふたりともお掛けなさい。カモミール嬢、礼儀作法の心得について暗唱はできるかしら?」

「はい。ひとつ、相手が話をしているときには、きちんと耳を傾けること。

 ふたつ、相手の話に途中で口を挟まないこと――」


 元々憶えるのが苦痛なほどの量ではない。カモミールは一言一言噛みしめながら、ゆっくりと心得を暗唱してみせた。同じことをグリエルマはアナベルにも繰り返させ、ふたりがきちんとそれを憶えていることを確認して僅かに口元を綻ばせた。


「よく出来ています。おふたりとも、その言葉をただの呪文だとは思わず、胸に刻み込むように。それでは、前回のおさらいです」


 お茶を飲む際の作法、お菓子をいただく際の作法、初対面の人との挨拶と講義は続いていく。カモミールは何度か「背筋を伸ばす」と叱られた。やはり付け焼き刃でどうにかなるものではないようだ。

 一昨日と同じくアナベルの授業は途中で終わり、カモミールがひとり残ってグリエルマから所作についての指導を受け続ける。


 背中が痛くなってきて笑顔が消えるとすぐさま指摘され、「これよ、これ。やっぱり厳しいわ」とグリエルマの厳しさに内心愚痴がこぼれた。


「カモミール嬢、ここまでにしましょう。よく頑張りましたね」


 そうグリエルマの口から終わりの宣言が出たときには、カモミールは心底ほっとしていた。


「だから、気持ちをすぐ表情に出すのはおやめなさいと何度も言っているでしょう。今日のところはここまでです。理由はあなたが礼儀作法について合格点に達したからではなく、時間がなくなってしまったからです。頑張っていたのは間違いないから、それについてねぎらったまでのこと。

 あと1週間は私はジェンキンス家に逗留します。午後が授業の時間と決まっているから、せめてあと2回は来るように。仕事の合間にですよ、これもあなたの仕事の一環なのですから」


 ツンとして見えるし厳しいことを言っているが、グリエルマはカモミールのためを思っているのだ。合格点が貰えなかったのは、たった二回の授業では仕方のないことと素直に思えた。


「はい、グリエルマ先生。今日までのご指導、心より感謝いたします。1週間の間に必ず時間を作って参りますので、よろしくお願いいたします」

「本当に、本当に仮ですけれど、ひとまずあなたは卒業と言うことで――ハグをしても良いかしら?」


 カモミールが頷くと、グリエルマは昨日カモミールを見舞ったときのように優しくカモミールの体に腕を回してくれた。その温かさに、カモミールもグリエルマに失礼にならない程度に抱きつく。


「平民に授業をしたのは初めてのことだったけれども、あなたは本当によく頑張ったわ。礼儀作法を必要なものと心得て、慣れないことにでも果敢に立ち向かっていく姿勢を好ましく思います。本当に、一部の令嬢にも見習って欲しいくらいだわ。

 あなたがこれから進む道、多くの女性に幸せを運ぼうとする道を心から応援します。あなたを指導出来たことは、そう遠くないうちに私の自慢になるでしょう」

「こちらこそ、他の誰でもなくグリエルマ先生に指導していただいたことは幸せなことでした。昨日お見舞いをしてくださったこと、わたくしの手を取って心配してくださったこと……失礼ながら故郷の母を思い出しました。至らぬ生徒ではありますが、先生の教えを胸に刻んで、背筋を伸ばして生きてまいります」


 互いに一歩離れ、見つめ合って微笑み交わし、礼をする。


「それでは、カモミール嬢、ごきげんよう。またお会いしましょう」

「ごきげんよう、グリエルマ先生。次にお会いする日を楽しみにしております」