第37話 つよつよ石けんおじいさん

「とは言っても……うちで作ってるのはマルセラ石けんです。現物はこれですね」


 カモミールは昨日風呂に持って行ったセットに入っている石けんをマシューに見せる。クリーム色の、ごく普通の石けんだ。


「いかん!!」


 マシューの怒声が工房をビリビリと揺るがした。何か逆鱗に触れてしまったらしい。


「うええー、なんだぁ?」


 蒸留水を作っていたテオが驚いて飛び上がっている。テオを紹介しようと思っていたが、今はそのタイミングではないようだ。


「な、何がいけないんでしょう?」


 恐る恐るカモミールが尋ねると、マシューは咳払いをした。


「どいつもこいつもマルセラ石けんマルセラ石けんと! 石けんは使う油脂の配合で無限の可能性がある素晴らしいものじゃぞ! だいたい、マルセラ石けんの何がいいんじゃ! あんな、泡も立たない使いにくい石けんの何がいいのか儂にはさっぱりわからん!」


 どうやらマルセラ石けんが地雷らしいな、ということはわかった。けれど、一般的に出回っているのはほとんどがマルセラ石けんだ。厳しい作成基準に高い知名度、購入者から見れば一番安心して使えるものではないだろうか。


「マシューさんのレシピを見せてもらえませんか? 今まで石けんの勉強はほとんどしてこなかったので、是非教えを請いたいです!」


 マルセラ石けんをダメと言うからには、マシューはもっと使い心地のいい石けんを知っているのだろう。カモミールが下手に出ると、マシューは数枚の紙をテーブルに並べ、その隣にハトロン紙に包まれた四角い物を置いた。おそらくそのレシピで作られた石けんなのだろう。


「うわー、こんなにいろんな種類の油脂を……それもこんなに細かい分量で。見たことない名前の油ばっかり! これ、どんな違いがあるんですか?」


 並べられた4枚の紙は、油脂はオリーブオイルだけというマルセラ石けんとは対照的に、最低4種類、最高7種類もの油脂が使われていた。しばらく見比べていると共通した油脂が入っているのはわかるが、こんなにもいろいろな油脂を使う理由がカモミールにはわからない。


「お嬢さん、マルセラ石けんを使っていて、泡立たないと思ったことはないかの?」


 質問に質問が返ってくる。カモミールは考え込んだが、そもそも石けんとはそういう物と思っていたので疑問も不満も持った覚えがなかった。


「ありません。そもそも、石けんが泡立つって考えたことがないですね」

「な、嘆かわしい……まあ、少しは予想していたがな……。この布を濡らして、マルセラ石けんをこすりつけて泡立ててみなさい」


 マシューに渡されたのは、麻でざっくりと織られた布だ。布と言うより荒い網と言った方が近い感じがする。

 言われたとおりに、石けんと布を濡らし、風呂で体を洗うときのように布を揉んでみる。濡れてとろりとした石けんが少しだけ泡立つが、それだけだ。


「では、比較のために持ってきたこれを同じように泡立ててみなされ」


 今度の石けんは凄かった。もこもこと泡が膨らみ、手のひら一杯に雲が載ったようになったのだ。さすがにカモミールもこれには興奮する。


「すっごい! 泡がこんなに! 楽しいですね!」

「これはココナツオイルで作った石けんじゃな。泡立ちの強さでは並ぶものがない。塩水でも泡立つ上に洗浄力も強い。南部の船乗りの間ではこれを船に乗せることもあるぞ。ただし、泡の持続力やきめ細かさに難がある上に、肌への刺激が強い。なので、これ単品ではほとんど石けんにはせんのじゃよ」

「あっ! 全部のレシピにココナツオイルが入っていた理由って、泡立ちのためなんですね。つまり、このレシピは全部できあがった石けんの到着点が違うんだ!」


 カモミールの打てば響くような反応に満足したのか、マシューが目を細めて鼻息荒く頷いた。


「化粧品を作るなら、肌には刺激が厳禁と教わっているじゃろう? 体を洗うときも同じじゃ。ごしごしとこすらずに、泡で優しく肌表面の汚れを洗い流す。いい石けんというのはな、気持ちよく体を洗い上げ、肌を整えることが出来るものじゃよ。ほれ、見てみい! 儂の肌を!」


 マシューが袖を捲って見せたので、カモミールは顔を近づけ、それから腕に触った。かさつきが全くなくて、腰は曲がっているのに皺が少ない。男性で特別な美容法などを使わずに石けんだけでこの状態を保っているのは凄いとしか言えなかった。


「マシュー先生! 私にこのレシピを解説してください!」

「おお……先生か、いい響きじゃのう。これらの油脂にはそれぞれ特徴がある。マルセラ石けんに使われるオリーブオイルは、非常にいいオイルじゃ。汚れを落とす力が強く、肌への刺激も少ない。ただ、泡立ちは悪いしできあがった石けんは柔らかくて溶けやすい。

 そういった欠点を補うために、泡立ちの強いオイル、石けん自体を固くして持ちを良くするオイル、泡のきめを細かくし、型に入れるまでの時間を短縮することが出来るオイル、保湿力が強いオイルなどを組み合わせる。それも、泡立ちのためにココナツオイルを入れても肌刺激が強くなるほど入れては却って欠点になるから、入れる割合は泡立ちはいいが肌への刺激性は少ない程度に抑えたりする。――石けんのレシピがややこしくなる理由がわかったかの?」


 マシューの説明に、カモミールは途中から口を開けていた。オイル毎に特性が違うのも初めて知ったし、長所と短所があるオイルを作用を見極めてレシピに組み上げるなんて何年経ったら出来るのかわからない。


「待てよ……石けん、マシュー、石けん、マシュー……ああ! マシュー・キートンか! 老けたなあ、おまえ! ここに出入りしてた頃はピッチピチだったのに!」

「ん? 儂のことを知っておるのか? しかし派手な髪じゃなあ」

「オリヴァーの弟子だったよな! あの頃はガラス棒で石けんの攪拌をしてよく折ってたじゃねえか!」

「むむ? 何故その話を!?」

「テオ……あんた隠す気ないのね……」


 カモミールは思わず額を押さえた。

 この工房は30年間持ち主がいなかった。マシューがテオの言うとおり以前ここの持ち主だった錬金術師の弟子だったとしても、それは最低30年前のことだ。

 なんでおまえが知ってんの? と誰からも突っ込まれる話に違いない。


「あ、悪ぃ。つい懐かしくなってよ」


 当人は悪びれもせず、馴れ馴れしくマシューと肩を組んでいる。マシューはテオの顔をまじまじと見ていたが、突然ハッとして叫ぶ。


「毛先が赤い長い青髪、背が高くて男前で……お主、錬金釜の精霊じゃな!? 聞いたことがあるぞい!」

「えっ!?」

「えっ!?」


 今度はカモミールとテオが驚く番だった。テオはカモミールがこの工房に始めてきた日に人間の姿を取ることが出来たのだから、それ以前に容姿から知られていたのはおかしい。


「ふぉふぉふぉ、驚いておるのう。まあ、儂も伝え聞いていただけじゃ。この工房の錬金釜には古い精霊が宿っている。見た目は青くて長い髪に、男前の精霊じゃ、と。……まあ、この工房も古いからのう。昔は今よりも精霊が見える人間が多かった。数代前の持ち主から次の持ち主に代々伝えられてきた、ここの秘密じゃよ。――そうか、とうとう実体を持てるようになったんじゃなあ」

「そっか、確かに昔見える人がいたら、精霊がいることに気づいててもおかしくないのよね」

「気づかれてたのか……知らなかったぜ。それより、実体を持つ前からこの姿って事は、俺は思ってた以上にテオドールに影響されてんだな」

「テオドール・フレーメか。それは仕方ないじゃろうな。この工房の歴代の持ち主で最も有名で、優れた錬金術師だったのは間違いない。

 さて、石けんの効能を口で説明しても伝わりきるものではない。実際にこれを使って見なさい。そして、お嬢さんの作る石けんの方向性を改めて考えよう。まあ、今日はその為に来たようなもんじゃ」


 ハトロン紙に包まれていたのは、手のひらよりも少し小さい石けんだった。色も白いものから、茶色いものと様々ある。


「雇われている身でこういうことを言うのもおかしなもんじゃが、お嬢さんへの課題はその石けんを全て使って、まさに肌で石けんを学ぶ事じゃ。1週間もあればいいかの? その頃また来るとしよう」

「はい……わかりました」


 マシューにとって今日から作成に入らないのは予定通りなのだろう。むしろ息子夫婦から守り抜いた攪拌器を持ってくるのが一番の目的だったかもしれない。空になった荷車を引いて、まだ来てから1時間も経っていないのに彼は帰っていった。


 石けんの製作は半月ほどかかる。ここで1週間を取られるのは時間的に痛いが、この違いを知ってしまったからにはカモミールは「今まで通りマルセラ石けんで行きます」とは言えなかった。


「私だけじゃダメ。年齢毎に比較対象が要るわ。エノラさんは誘ってみるとして、もうひとり中年の女性が必要ね。タリアさん辺りがちょうどいいんだけど……ちょっと私工房に行って聞いてくる! テオ、留守番お願いね!」


 もう頭の中は石けんの未知の使い心地で一杯だ。カモミールは元気よく陶器工房へと駆け出していった。