第29話 マーガレット・アリエル・ジェンキンス侯爵夫人

 カモミールが侯爵邸を訪れたのは今回で2回目だ。だが、緊張は前回よりはるかにきつい。イヴォンヌの先導で広大な庭を歩いていると、いい感じの茂みを見つける度にそこに隠れたくなる。


 やがて見えてきたのは温室だった。邸内ではなく温室でお茶をするらしい。カモミールはほんの少しだけ緊張がほどけて小さく息をついた。


 温室の中は快適な温かさだった。春とはいえやはり暖かい場所に入るとほっとする。


「奥様、遅くなりまして申し訳ありません。カモミールを案内して参りました」

「ほ、本日はお招きいただき誠にありがとうございます。カモミール・タルボットです」


 貴族流の挨拶などわからないし自分はそもそも平民だ。カモミールはイヴォンヌの声掛けで振り返った女性相手に、極力丁寧に挨拶をした。


「まあ、カモミール! 久しぶりね。あら、今日は随分と可愛らしくして。ふふふふふっ、そうしていると20歳だなんて思えないわ」


 コロコロと鈴を転がすような可憐な声が明るく響く。カモミールは一度会っただけのジェンキンス侯爵夫人が自分の年齢を憶えていたことに驚き、そのまま温室の床に突っ伏したくなった。


「にじゅっ……あなた、20歳、なの?」

「………………はい。20歳なんです」


 イヴォンヌの驚愕した声が頭上から降り注ぐ。こちらも驚きすぎたのか声が強ばっていた。そして、イヴォンヌの用意してくれたこの可愛らしい服のために、出来れば年齢は隠したままでいようと思っていたのだが、第一歩で既に終わってしまった。


「さあ、こちらへお座りなさい。お化粧も良く見せて欲しいわ、可愛い服に合っていて素敵よ。今日はイヴォンヌの妹くらいの年齢に見えるわね」


 侯爵夫人の第一声で気力をボッキリと折られたカモミールは、蚊の鳴くような声で失礼しますと断って、夫人に示された椅子に座った。温室に設えられた丸いテーブルには真っ白なテーブルクロスがかかっていて、既に夫人はハーブティーを楽しんでいたようだ。ガラスポットの中にピンク色のバラの蕾が入っているのを見て、「ああ、やっぱり」と思う。これは夫人のお気に入りのブレンドなのだ。


「なるほど、アイラインを少し下まで引いているのね、それで垂れ目っぽく見えているんだわ。それに、目の大きさを強調するアイシャドウのつけ方なのね。睫毛もカールしているし、まるでお人形みたいに愛らしいわ。全体的にピンク系で、頬紅のピンクがいかにも若々しいわね。……つまり、この逆をすると、若く見られないお化粧になるってことかしら」


 見ただけで化粧の特徴を見抜く眼力が凄い。見るべきポイントを心得ているのだろう。夫人が指摘した通り、ヴァージルが気合いを入れたせいで今日のカモミールはとても可愛らしい。鏡を見て「可愛い」と思ってしまったのが自分でも心底悔しかった。


「おそらく、そういうことかと思います。普段童顔に見られないようにするためには多少つり目気味に見せるようにしていますので」

「面白いわ……お化粧は奥が深いわね。ところで、その服はどうしたの? あなたの趣味ではないだろうから、あなたの服ではないのよね? この感じはどちらかというとイヴォンヌの好みだわ」


 夫人の指摘にカモミールは顎が落ちそうな程驚いた。

 かつて一度会っただけでしかもほとんど話していない、平民の錬金術師のことをこれだけ憶えているものなのだろうか。その上服がカモミールの好みではないことまで見抜かれている。

 ちらりと横目で見れば、侯爵夫人の斜め後ろに控えているイヴォンヌも顔を強ばらせ、頬を引きつらせていた。


 マーガレット・アリエル・ジェンキンス侯爵夫人――それが目の前にいる高貴な女性の名前だ。――優しそうな笑顔でカップを傾けている彼女の事を、カモミールは怖いと思った。

 今日の夫人はくすんだ金色の髪をルーズに結い上げて、所々後れ毛を散らしている様子がいかにも女性らしい柔らかさを醸し出している。春らしい新緑をイメージさせるシフォンの淡い緑色のリボンをあちこちにあしらった黄色いドレスは爽やかで、温室でのお茶会という場にふさわしいものに見えた。――これでこどもがふたりいるのだから、見た目と年齢は本当に一致しない。確か彼女は30歳を越えていたはずだが、見た目だけだと10代の令嬢に間違いそうになる。ある意味カモミールと同類の女性だった。


「あら、そんなにあからさまに緊張しなくていいのよ? もしかして、一度しか会っていないあなたのことに詳しかったりしたことに驚いたのかしら? ――ふふ、種明かしをするとね、社交のせいで人の顔を覚えたりするのは得意なの。それに、私の名前はマーガレット、あなたの名前はカモミールでしょう、前に会ったとき、花の名前で一緒だわと思っていたの。童顔で年下に間違えられるのを気にしていたのも私と一緒。そういう特徴があると、とても憶えやすいわ。それに、童顔を気にしていたあなたが自分で選んで幼い格好をするわけがないから、好みではないと言い切れたのよ」

「侯爵夫人のご慧眼に、恐れ入るばかりです……」


 言われてみればいろいろと納得出来る理由だった。それにしても、彼女の観察力に驚くしかないのだが。


「お菓子が来るまでに、どうしてあなたが不本意にも若く見える服装とお化粧をすることになったのか、聞かせてもらえないかしら?」

「はい……、昨日イヴォンヌ様がいらっしゃってから……」


 侯爵夫人の好奇心できらきらとしたまなざしに逆らえず、カモミールは順を追って説明を始めた。

 屋根裏部屋に置いていた服にその日摘んで陰干しのために広げていたドクダミの匂いが移ったこと。他に服がないので困っていたところイヴォンヌが貸してくれることになったこと――これが年齢問題にまつわる最大の齟齬だったのだが――そして、カモミールの年齢を勘違いしたイヴォンヌにより、20歳らしからぬ可愛い服を用意され、ヴァージルの化粧で更に服に似合うように顔を作られてしまったこと……。


「まあ! ドクダミの陰干しで匂いが移ったなんて。面白いわね、錬金術師ってやっぱりとても興味深いわ! ところで、イヴォンヌ。あなた、カモミールを何歳くらいだと思っていたの?」


 カモミールの話に夫人は終始楽しそうにし、時には声を上げて笑っていた。そして話を急に振られたイヴォンヌはあからさまに狼狽している。


「実は、15歳くらいだと思っておりました。……ミラヴィアが出来てから4年と聞いておりましたし、その少し前に弟子入りをしたと聞きましたので。10歳で弟子入りする話も多く聞くものですから、15歳と勘違いをしてしまって。ごめんなさいね、ミリー。失礼なことをしてしまいました」

「いえ、きちんと説明をしなかった私がいけなかったのです。イヴォンヌ様には大変助けていただきましたし、今日のこの事も、印象深い出来事として記憶に残ると思います。その……決して自分では選ばない可愛らしい服を着ることが出来て、それに合うお化粧をされて、正直自分でも可愛いと思ってしまって……普段童顔がコンプレックスなものですから、可愛い服を着て可愛いと言っていただけて、とても新鮮でした」


 正直に告げれば、夫人は更に楽しそうに笑い、イヴォンヌは今にも「可愛い! 謙虚で可愛い!」と抱きついてきそうな顔をしている。彼女がその衝動を必死に抑えているのがわかる程に。


 話が一段落した辺りで、ちょうど使用人が新しいティーセットと菓子を持ってきた。何種類もの焼き菓子や、クリームのかかったケーキにカモミールは思わず目を奪われる。


「このフロランタンが好きだったわね? 去年ロクサーヌと一緒に来たときにはほとんどしゃべらずにこればかり食べていたのを憶えてるわ」

「お、お恥ずかしながら、その通りです……」


 夫人の記憶力が怖い。その時は自分なんて目に入っていないだろうとひたすらお菓子を食べていたのだが、しっかり憶えられていた。


 カモミールは改めて目の前の優しげな女性に畏怖を抱いた。

 マーガレット・アリエル・ジェンキンス侯爵夫人は、ふわふわして優しそうに見えていても、この侯爵領を差配する人物のひとりなのだと改めて認識した。