桐生の背中が温かく、微睡みかけていた音無は唐突に空腹を覚える。昨晩の夜から何も食べておらず、いい加減腹の虫が鳴り止まないでいた。
「桐生さん、そろそろ何か食べません…?」
「何か…って、何がいい?」
「うーん、この間買ってくれたレトルトごはんとか…?」
「あれ、食べてなかったのか?」
「ええ。なんだかんだ、この週末は桐生さんと一緒でしたからね。食べる暇なくて…」
にっこにっこと笑う音無の顔に少し恥ずかしそうに頷いて、確かに…と小さい声で肯定する。桐生も同じく昨晩から何も食べていないのだが、元々小食なためそこまで気にならないでいた。
「そうだ…折角の休みですし、ご飯とお酒なんてどうです?」
「いや…俺は遠慮しておく…」
「えー?残念だなぁ…桐生さん、酔うとどうなるのか知っておきたいのに」
「自分でもよく憶えていないからやめとけ。…作るのは得意だけどな」
「えっ⁉どういう事ですか」
「昔…少しバーテンダーの経験があった。カクテルとかオーソドックスなものは一通り作れるぞ」
「ひっ…めちゃくちゃカッコいい…」
音無は何を想像したのか、鼻の舌を伸ばしうへへとやや下品に笑っている。そんな彼の脇の下を背中越しにつつき、桐生はくすくすと笑った。ほんの数年の経験でしかないが、今思えばあの経験があったからこそ今の自分が生きていると言えた。紆余曲折あれど、バーテンダーの仕事自体は楽しかった。その記憶は未だに塗り替えられることはない。
「まぁ、その道を極めようとは思わなかったけど…常連からはそれなりに評判は良かった。来週末は、おれの家に来ればいい。…何か作ってやる」
「ほんとですか!あっ、でもおねこが…」
「猫用のトイレと簡易ケージ、ごはん皿なら用意してある。キャリーケースはあるだろうから、いつでもうちに連れてくるといい。いつか、おねこ様を預かる日が来るかもと準備しておいたから」
「用意周到ですね…!でもそれなら大丈夫か?おねこ」
「んにゃっ!」
どうやらおねこも
「よしっ!そうと決まればごはん食べましょう、ごはん!」
「ふふ、急に元気になったな」
「腹が減ってはアレコレできないって言うじゃないですか~」
ぴたりと桐生のおおきい背中に張り付き、思い切り彼の匂いを吸い込む。昨晩は看病につきっきりで風呂に入れなかったからなのか、普段と違う桐生の匂いが鼻孔を刺激する。
「…で、何を作ろうか?」
「デリバリーでもいいです…しばらく桐生さん吸ってたいから」
「っ…いくらでもそうしてろ…。そうだな、ここの近くなら牛丼、ラーメン、カレー、ピザが取れると思う…おれはなんでもいいが、音無は食べたいものがあるか?」
「はい!ピザが食べたいです!」
模範解答のような返事をした音無の声に笑いつつ、桐生がパソコンでインターネットブラウザを開き、最寄りの宅配ピザ屋を探す。見つけたのはCMなどでも馴染みの店で、期間限定メニューには秋の味覚ミックスとやらがあるようだ。きのこたっぷりホワイトソース、秋鮭と茄子の辛味噌田楽風、ジャガイモと南瓜のシシリアソース、サツマイモと栗の甘露煮と、おおよそピザの具材には思えないラインナップとなっていた。先日のファミレスといい、秋になると様々な旬の食材が豊富なメニューに変わるので、音無は一年の中でも特にこの時期が好きだった。
それぞれパソコン画面の前にいる桐生に読み上げられてから音無は涎を抑えつつ「それだ!」と即決し、ついでにコーラとアイスコーヒー、ポテトとナゲットセットも注文することにする。クレジット払いで発注が完了すると配達時間は四十分後とあり、その間何をしてようかぼんやり考えながら桐生の背中に顔を埋めた。
× × ×
音無が大好きな匂いを振り撒いて、目の前に繰り広げられたもの。焼きたてのピザとサイドメニュー、ドリンク…の筈であったのに。
テーブルの上ではなくベッドの上で、バスローブを羽織っているだけの桐生がこちらを見ていた。
『美味しいかはわからないが…沢山食べろよ』
上目遣いに音無を見上げる桐生の頬は、いささか紅潮し音無の下腹部に──
「うわぁ!!!桐生さん服着て!!!」
「わっ!」
腕を掴まれ、驚きのあまり背中を仰け反らせてしまった桐生の後頭部が音無の鼻を直撃した。音無はぶつけられた衝撃で目を覚まし、はぁはぁと荒い息をつく。今まで見ていた光景が夢だとわかり、悔しいような安心したような複雑な気持ちで顔を俯かせた。
「静かになったと思ったら寝てるし、寝たと思ったら悲鳴上げて…どうしたんだ?おれは露出狂か何か?」
「いえっ、ちが…ちょっと…ゆ、夢を、見ました……」
「…ふぅん。まぁ、いい。ちょうど今さっきピザ到着したぞ。身動き取れなかったから、おねこ様にカードキーを出していただき玄関に置き配してもらった…本当に賢いお方だな」
「げっ…すいません、もうそんな時間だったんですね…」
「そりゃあ、つい昨日まで熱出してぐったりしてたんだからな…無理もない。と言うか病み上がりにピザなんて大丈夫なのか?」
「俺、腹ペコなんで大丈夫ですよ。早く食べましょ…うまそうだなぁ」
何故だかシャツから出ている桐生の首筋が美味そうに見えて、堪らず首筋を甘噛みする。んひゃぁとひしゃげた悲鳴を上げ、桐生がまたもや背筋を仰け反らせた。
「音無!そんなにおれをイカレさせたいのか!」
「あっ…すいません、つい…」
慌てて桐生の背中から離れ、玄関にぽつんと置かれたままのピザとサイドメニューたちを回収し机の上に並べる。箱から出した瞬間、ほわんと漂う様々な匂いがふたりの空腹に止めを刺そうとしていた。
「よし!食べましょう!」
「ああ、いただきます」
賑やかな日曜日の昼下がりは、こうして過ぎて行くのであった。