古木の梢から葉が落ちて、風に揺られるまま宙をさまよう。
ゆらゆらと頼りなく漂うさまは、さながら大海を漂う小舟のようだった。木枯らしに吹かれれば、すぐに遠くへと追いやられる。そんな頼りない枯れ葉を何気なく眺め、私はゆっくりと荷台から上体を起こした。
「新聞記者の旦那! もうじき爆心地ですぜ!」
背後から掠れた男の声が聞こえてくる。ぐっと伸びをしつつ振り返れば、荷馬車の御者台に座る男の背中が見えた。御者はよろよろと進む年老いた馬の手綱を引きながら、道の先を指さして見せる。
「前、見えますかい? 道の向こうは崖になってるんですが、そこからは歩いてもらわにゃならんのです。戦前は川があって橋も架かってたんですけどねぇ。今は行き来する人間もほとんどいないもんで、この先の手入れは何もしてないんですわ」
「なるほど。大戦の傷跡がここにも、ってわけか。五年前……戦争終結前は、この先が前線基地だったんだろう? この道も結構にぎわってたんじゃないのかい?」
「ええ、えぇまあ。そうですねぇ……。兵隊さんも食ってかにゃならんので、近くの街からいろいろ物を運んだりしてましたしね。それに、『
御者は歯切れ悪く言葉を濁し、帽子のつばを下げた。どうやらこの男にとっても、大戦の記憶は思い出したくないものらしい。それはそうだろう。私だって記憶にある光景が見る影もなく破壊尽くされてしまったら、虚しさや怒りを感じてもおかしくはない。
「ま、取材と言っても半分は自分がやりたいだけなんだが。記者としては、広域破壊魔法兵器がもたらした悲劇……それを実際に一度見ておきたかったのさ」
「はあ、そうですか。都会の人が考えることはよくわからんですが」
不規則な音を立てながら、荷馬車は荒れた道を進む。少し前まで道の両脇を覆うほどだった木々はまばらになり、むき出しの地面が目立つようになる。
私は黙って、進む先に目を凝らした。崖がある、とのことだったが、土色の地面が途切れたところのことだろうか。そこまで行くと木はおろか草一本生えておらず、ただただ荒涼とした風が吹き抜けていくだけだった。
「……ここが、『
馬が脚を止める。荷馬車もその場に停止し、私は御者台の後ろから身を乗り出した。途端、土埃と鉄錆のような独特なにおいが顔に襲い掛かってくる。思わず顔をそむけたものの、視界の端に映り込んだ光景が再び前を向かせる。
大地に、巨大な穴が開いていた。真円に切り取られた地面は激しく隆起し、すり鉢のような形を形成している。明らかに何かによって削り取られたと思しき様相に、私は驚きながらも荷台から飛び降りた。
近づけば近づくほど、その異様さははっきりとしてくる。穴の真ん中に行くに従い、ざらざらとした土色の地面は灰色に変わり、ところどころで透明な結晶体がきらきらと輝いているのが見えた。かなりの熱量がここに存在していたのだろうか。よくよく観察すれば、周囲の土も奇妙に黒く変色していた。
破壊の痕は、未だにこの地に刻まれたままだ。えぐり取られた地面に緑は芽吹かず、雨が降ろうとも表層を流れ落ちていくだけ。そして何より、『爆心地』の名にふさわしき、中心に穿たれた巨大な空洞が、ここで起こったことを忘れてくれるなと告げているようだった。
「戦争を終わらすにしても、こんなにぶっ壊しちまうことはなかったと思うんですがねぇ。広域破壊魔法兵器……『雷霆』なんてとんでもないもん、まさか自分らのそばで使われるとは考えもしなかったんで。いまだにここ見ると、膝が震えてきちまいます」
御者の声は、そうとわかるほど震えている。当時を知らない私ですらうすら寒いものを感じるくらいだ。かつての光景を知っている男の恐怖は想像するに余りあった。
「ウルフガンド魔法大戦の勝敗が決した地……想像はしていたが、これほどとは」
――ウルフガンド魔法大戦とは。
『ヴァルザイン帝国』と『ミストリア王国』の小競り合いを発端に、ウルフガンド大陸全土を巻き込む戦争へと発展した、歴史上最大最悪の大戦のことである。
『魔法大戦』とも呼ばれるこの争いは、月龍暦483年10月29日に始まった。最初はミストリア北方の魔晶鉱山一帯を奪い合う争いであったが、徐々に戦端が拡大。翌年8月3日には、ミストリア王国を中心とした対ヴァルザイン三国同盟が発足し、9月14日にはヴァルザイン帝国が打倒ミストリアを掲げ、周辺小国の併呑を開始した。ここより戦火は大陸全土へと急速に広がり、十五年にも及ぶ泥沼の戦いへと発展していく。
大戦末期、各国の疲弊は明らかであった。大陸に厭戦ムードが広がる中、ヴァルザイン帝国が戦争終結に向けて、最強の魔法兵器を発明した。
それこそ、『雷霆』――。広域破壊魔法兵器とも称されるそれは、当時の最前線であったミストリア王国ディープヘイデンに配備され、月龍暦498年10月9日に実戦投入された。
結果、ディープヘイデン一帯は焦土と化し、前線に配備されていたミストリア王国兵およそ3万6千が犠牲となった。これにより、主力部隊を失ったミストリア王国軍はディープヘイデン以南に撤退。同月12日には、ヴァルザイン帝国に向けて停戦の使者を送った。
そして月龍暦498年11月14日、両国の間で停戦協定が締結され、敗戦国となったミストリア王国はヴァルザイン帝国の統治下に入り、長きにわたったウルフガンド魔法大戦は終結したのだった。
そして、五年の月日が流れる。
「ウルフガンド魔法大戦のあと、『雷霆』が投下されたディープヘイデン地域は空白地帯となっているんだったか。なあ、このあたりに住んでいる人はいたりするのかい」
歴史を軽く回想しながら、私は改めて周囲を見渡した。さすがにこれだけ荒れ果ててしまっていては、人も住めないのではないか。そう思いつつも、御者を振り返ると、彼は赤茶けた瞳に困惑の色を浮かべていた。
「そりゃ、こうなっちまったら、人っ子ひとりも……あぁいや、一人いたかな」
「ほう、誰かいるのかい」
「えぇまあ、一人って言うかなんてぇか。この爆心地のあたりをうろついているやつがいるんでさ。わしらは『墓守』って勝手に呼んでるんですけどね」
「へえ、『墓守』ね」
何ともこの場に似つかわしい呼び名ではあった。どんな人物なのだろう。興味をそそられて、私はさらに質問を重ねようと口を開いた。しかし、びくりと体を震わせた御者は、落ち着かなげに視線を周囲にさまよわせ始める。
「あ、も、目的地に着いたんで、わしはこれで失礼しても構わんですか」
「え。突然どうして。取材が終わるまで待っていてくれるんじゃなかったのかい」
「そうしたいのは山々なんですけどね……あ、あんた。まさか何も聞こえんのか」
「何もって何だい」
「何って……わ、わからんならいいです。と、とりあえずわしは帰りますんで」
「え、な。待ってくれよ!」
何やら泡を食ったような様子で、御者は馬に鞭をくれるとその場から去っていってしまった。残された私は呆然と遠ざかっていく荷馬車を眺めることしかできない。急にどうしたというのか。まるで亡霊にでも遭遇したような慌てようだったが。
「……ま、いいか。歩いて戻れない距離でもないし」
日暮れまでに戻れば問題ないだろう。そう独り呟き、改めて『雷霆』の投下された爆心地を見下ろしてみる。
見れば見るほど恐ろしい光景だが、言葉だけでは伝えきれそうもない。首から提げていた写真機を手に取り、思うままに何度かシャッターを切る。専門家ではないから、写真機の操作も手馴れているとはいかない。
それでもファインダー越しに適切なアングルを探していると、何やら黒いものが漂っているのが見えた。最初、それは単に光の加減だと思った。けれど何度移動しようと、黒いもの消えず、いい加減私も事の異常さに気づき始めていた。
「……何だ、一体」
ためらいながらもシャッターボタンを押す。しかし、写真機は反応せず、奇妙な動作音を繰り返すだけ。まさか壊れたのか? ぎょっとしてファインダーから目を離すと、真っ赤な『それ』と目が合った。
「……え」
我ながら間の抜けた声だった。目と鼻の先に浮かんでいた『モノ』は、ぐるりと回転してこちらを向いた。明確な意思を感じさせる動きに、私は口を半開きにする。
黒い霧の中を漂う『ソレ』は、真っ赤な瞳を持ったむき出し眼球だった。人間のものの十数倍もあろうかという単眼は、きょろきょろと周囲を見渡した後、再び私へと視線を戻してくる。
私はといえば、写真機を握りしめたままぼうっとしていた。状況が理解できなかったのもあるし、『モノ』に対する危機感が薄かったこともある。
だが、暢気にしていられたのもそれまでだった。眼球は激しく震えたあと、目の前にいる人間が誰か確認するかのように、勢い良く近づいてきた。
「う、わ……!」
眼球の威圧感に、たまらず腰を抜かした。人体の一部分だけが顔の前にあるというだけで十分気持ち悪いのに、それがどんどん近づいてくるのだ。こうなってはもう、地面を這うように逃げ惑うしかない。
「やめろ、来るな!」
混乱と恐怖と、そして生理的嫌悪感。それらがごっちゃになった悲鳴を上げ続け、私が最終的に追い詰められたのは、爆心地を見下ろす崖の際だった。
下から吹き上げてくる風に背筋が凍る。どう考えても、この眼球もどきに謀られたとしか思えなかった。見下ろしても暗い穴に果ては見えず、落ちれば怪我だけでは済まないだろう。あと一歩の距離にしがみついていると、そんな私をあざ笑うかのように眼球もどきが迫ってきた。
「ひっ……!」
情けない悲鳴。けれどもうどうしようもない。退路は断たれ、眼球もどきはすぐそばだ。目に浮かぶ血管さえ視認できるほどの距離に、私は震えながら両手で顔を覆った。
『にィ・サ……』
そんな時だった。身を固くした私の傍らで、小さな音が聞こえた。金属が擦れ合うような、あるいは小さな子供の拙い声のような――か細くて頼りない、ただの音とも声ともつかない何か。
『ニィ・さ……にィ……にい……』
「な、なんだ? 何言って……」
戸惑い、わずかだけ身を動かしたその瞬間だった。
『――兄さん』
確かに、一言。
そう、聞こえた。
「――え――」
伸ばしかけた手は、空を切る。刹那、音を立てて足場が崩れ、私の身体はそのまま宙へと投げ出される。見開いた目が映しだした空は清々しいほどに青く、何も掴めなかった手の先でどんどん遠ざかっていく。
落ちる。この高さでは助かるまい。わかりきった答えに自分でも嫌気がさした。何もかもが中途半端なまま、私は人生に幕を下ろすのだろう。理解が追い付いた時、忘れようとして結局ここまで連れてきてしまった記憶のふたが開いた。
「さようなら、兄さん。もう二度と、おれのために振り返らなくていいよ」
――すまない、『オーリ』。
私は結局、最後までお前の想いに報いることができなかった。
――――
――
月龍暦493年。ウルフガンド魔法大戦下のミストリア王国東部、辺境伯領ヘーデ。
私こと『グレイン・C・セレスティライト』は、魔法士育成を行う『魔導教官』の両親と三歳下の弟と共に暮らしていた。
戦時下であったものの、比較的ヘーデへの影響は少なく、人々は以前と変わらぬ穏やかな生活を続けていた。当時十四歳だった私も、戦争が起こっていることは理解していたが、それをまだ身近に感じられずにいた。
だが、同年7月――。
両親がミストリア王国軍から招聘されたことによって、私と『弟』の人生は静かに狂い始めた。
――――
――This happened 10 Years Ago.
――――
その日は朝から憂鬱な雨が降っていた。
本日、父さんと母さんは『魔導教官』として王都へと向かう。
僕たちは家の玄関で、別れの抱擁を交わす。二人ともあんまり強く抱きしめてくるもんだから、さすがにちょっと困惑する。どうせ長くて3か月の滞在の予定なのに、これじゃ何年も会えないみたいだ。
「じゃあ、グレイン。それと特にオーリ! 私たちが帰るまで、いい子にしているんだぞ」
「伯父さんたちの言うことをちゃんと聞いてね? グレイン、あまり遅くまで本を読んでいたら駄目よ? オーリも、喧嘩ばかりしないで。みんなと仲良くね?」
ひと時の別れにしては、大げさに心配しすぎる。目に涙すらためている父さんと母さんに、僕はげんなりとしてしまう。何歳になっても親にとって子供は子供。とはいえ、僕だってもう十四歳なんだ。弟のオーリはともかくとして、こっちまで子ども扱いされてはかなわない。
「二人とももういいだろう! 出発の時間、とっくに過ぎてるって。そんな永遠の別れでもないんだし、いい加減さっさと行けよ」
「さっすが兄さんは頼りがいがあるな。ま、家のことは兄さんに任せておけば大丈夫。二人とも安心して行っておいでよ」
「……なんか言葉にトゲがないか、オーリ……?」
言外どころかいろいろ漏れ出している言葉に、僕はオーリの肩を小突こうとする。だけど手はオーリには当たらず、勢いよく空を叩いた。避けられた。そう分かった直後、カウンターで脳天をぶっ叩かれる。
「いってぇっ!」
「隙あり、だねぇ。兄さん?」
「いつも反撃がえげつないんだよお前は! 謝れ!」
「いや、反撃されるのをわかっていて攻撃しているんだから、兄さんが悪いんでしょ」
素知らぬ顔で言い返されても、何一つ納得する要素がないのはどうしてなんだろう。思わず地団駄を踏みそうになったけれど、さすがにこれでは兄としての面目が立たなすぎる。
「困った子らだな。本当に行って大丈夫なのか?」
「だ、大丈夫だって! 本当にもう行けよ。いくら何でも軍のお偉いさんを待たせるのは良くないんだろう?」
父母の視線に、僕は慌てて手を振った。別れが惜しくないとは言えない。しかし、僕たちだってそこまで幼くはない。弟の緑色の瞳と視線を合わせると、互いにうなずき合う。
「いってらっしゃい、二人とも」
「おれたちのことは心配しないで。二人が帰ってくるのを待ってる」
僕たちが笑顔を向ければ、二人もやっと笑みを見せてくれた。大丈夫、これは本当にひと時の別れだ。最後にもう一度僕たちを抱きしめ、父さんと母さんは雨の中、旅立っていった。
「いってきます」
二人が残した言葉は、陽だまりのように温かかった。
けれど、それから3か月後。
「ただいま」
帰ってきた両親は、見た目は変わりないのに【何かが違って】いた。
それでも再び始まった家族の日常。
しかし、穏やかな日々の裏側に【地獄】が潜んでいたことを、僕だけが気付けなかった。
オーリの身に起きていた異変。そして、心が綻び狂っていた両親が犯した罪。
それらの事実を僕が知ったのは、すべてが終わり、何もかもが手遅れになってしまった後のことだった。
――
――――
「オーリ」
目を開くと、はるか上に白い真円が見えた。無意識の伸ばしていた手は、真ん丸な月を掴むように握りしめられている。
ぼんやりとした視界の中で、私はぎくしゃくと体を起こす。どういうわけか全身が鈍く痛む。まるで激しい運動をした翌朝みたいに、関節やら筋肉がきしんでいる。どこかで全力疾走でもしたっけなぁ。のんびりと考えてしまったあと、はっと我に返って自分の額を叩いた。
そうだ、私は崖から落ちたのだ。あんな底が見通せない穴に向かって落ちたのに、筋肉痛程度の痛みだなんておかしすぎる。
慌てて立ち上がり、自分の身体を順番に確かめていく。脚や腕も折れてはいない。強いて言うなら、背中が他よりも痛む気はするが、それだって無視できてしまう程度だ。頭を入念に触ってみても、大きなけがはなさそうだった。
「……奇跡か?」
実際、冗談ではなく奇跡としか言いようがない。常識的に考えて、下が見えないほどの深みに落ちるということは致命的だ。都合の良い奇跡など信じない性質だが、それ以外に自分が生きている事実をどう解釈すればいいかわからなかった。
奇跡、奇跡だ。しかし、嬉しさよりも戸惑いが先立つ。生きているということが奇跡だとしても、このあと無事に戻れるかは別問題だ。頭をかきながら周囲を見渡せば、高くそびえたつ岩壁に空いた無数の横穴が目に入った。
「……これ、適当に進むと遭難するやつだよな。よくある物語的には」
落ちてきた穴は手が届かないほどの高みにある。つまり、ここから出るためには横穴を通るしかないわけだ。しかし、当然のことながら、こんなところに案内板や地図などあるはずもない。自分の手持ちに役立つものはあっただろうか……。投げやりに自分の懐を探ったが、出てきたものは使いかけのマッチくらい。メモとペンを鞄に入れたのは間違いだったな。そういえば、首から提げていたはずの写真機はどこに行ったのだろう……?
参ったな。頭上から月が遠ざかり始めているせいか、この空洞の中も暗くなり始めている。移動するか、それとも救助を待つべきか。消極的だがリスクも少ないのは後者。けれど、救助と言っても、あの御者が戻らない私のことを真剣に考えてくれるかは未知数だ。
だとしたら前者か。私は仕方なくのろのろと歩き始めた。天然の洞窟なんて、迷宮の中でも一番たちが悪いだろうに。中途半端な奇跡を若干恨みながらも、手近な横穴を覗き込んでみる。すると、何の前触れもなく暗がりの奥から白い手が伸びてきた。
「……は?」
まさか人がいる? しかし安堵は即座に裏切られた。白い腕は奇妙に揺れる。一本、二本。三本、四本、五本と――。
私は声にならない悲鳴を上げ、後ろへと飛び退いた。何だ。これは一体何なんだ。うごめく腕たちは助けを求めるように、私に手を伸ばす。あまりのおぞましさに鳥肌が立ち、よろめきながらさらに後ろへと下がった。その時だった。
「――大丈夫、ですか」
ざらついた低い声が耳元で響く。肩に冷たい手が置かれ、今度こそ私は絶叫した。全身を振り回し、何者かから逃れようともがく。
「落ち着いて。何もしませんから」
困ったような声が聞こえたが、それどころではない。逃げようとした私は岩に足をとられ、その場でひっくり返った。頭を地面に打ち付ける――と思いきや、寸前で何者かに受け止められる。
「……大丈夫ですか?」
無事を確認する声に、呆れが含まれていたのは言うまでもない。さすがに私も頭が冷えて、やっと相手の顔を見上げることができた。
月の光を背に受け、黒い外套が浮かび上がる。その姿はさながら死神のような不吉さで、私は一瞬身を固くした。しかし、フードの下から覗いていた紫水晶にも似た澄んだ瞳と、聖像のような静謐さを含んだ表情を目にした途端、心を占めていた混乱と恐怖は音もなく溶けて消えていった。
「誰、なんだい。君は……」
お前は誰だ。と、剣呑に応じる気にはどうしてもなれなかった。不審な相手であることは疑いようもないが、少なくとも敵意はなさそうだ。
それに、横穴でうごめいていた白い手を目にしたあとでは、生きた人間に安心感を覚えても致し方ない。自分に言い訳しつつも、相手を油断なく観察していると、紫色の瞳は穏やかにこちらを見返してきた。
「自分は……そう……。皆からは『墓守」と呼ばれている」
「……『墓守』? ええと、もしかして、爆心地付近をうろついているという……?」
「おそらく自分のことです。戦場荒らしでもないのに、この辺りを『うろついている』のは自分だけでしょうし」
ひょっとしなくても、失礼な物言いだったかもしれない。苦笑いとともに返された言葉からは、少し困ったような雰囲気が感じられた。
いや、そうは言っても、こんなところに誰かいる方がおかしいじゃないか……? 言い訳を重ねながらも、私は相手に礼を言って立ち上がる。意識的に背後からは目をそらす。見ない、何も見ない。あんなのをもう一度見たら、今度こそ理性が吹っ飛んでしまう。
「それで、あなたはどなたですか? 見たところ、近隣の村民ではないようですが」
「ああ……私の名はグレイン。グレイン・C・セレスティライトだ。王都の新聞社で記者をしている」
相手の正体は謎のままでも、一応助けられたことには違いない。自らの名前と所属を明かすと、『墓守』は私の顔をまじまじと見つめてきた。
「グレイン……さん……? 新聞記者さんなんですか?」
「グレインでいいよ。そう、一応だけど新聞記者をしている。今回、この『雷霆』の爆心地には取材のために来たんだ」
別に嘘は何もついていない。私の語る内容に違和感など何もないはずだが、『墓守』はなぜか不審そうに眉を寄せた。透き通るばかりだった紫の瞳がわずかに険を帯び、別人のように鋭い視線を向けてくる。
「……なぜ、そんな嘘をつく必要があるんだ。『おれ』にはどうにもおかしな話に聞こえる」
「わたしが嘘をついているっていうのかい。どうして? そんなことをして何の意味があるって言うんだ?」
「どうして、だって? は、他でもない『あんた』が何も知らないふりをするのは滑稽じゃないか」
断言口調でなじられて、私は唇を強く噛んだ。先ほど出会ったばかりの人間が、内心を見透かすような言葉を吐く。それが実に不愉快で……というよりも、『墓守』が何かを知っている可能性に思い至り、わずかな時間、私は自分で作り上げたはずの殻を捨てた。
「……お前、何者だ。何を知っている。いや……『誰のこと』を知っていたんだ」
「真意を隠したまんまの人間に話すことなんてないね。それに、今更何をしたって、誰を探したって無意味だ」
それだけを言い捨て、『墓守』は背を向け歩き出す。やはり、こいつは明らかに何かを知っている。爆心地をうろついていることといい、もしかしなくても【この場所】にゆかりのある人間なのだろう。
「待て、話は終わってないぞ」
引き留めたところで、どうせ『墓守』が振り返ることはない。だが、私の考えとは裏腹に、粗末な靴を履いた足はゆっくりと止まった。
「……あなたが求めている答えは、今更取り返しがつかないものだと、そうは思わないのですか」
『墓守』はこちらに向き直った。先ほどまでの険はどこにもなく、凪いだ水面のような穏やかさだけがある。諭すような声さえも別人のようで――だがそれでも、私を見据えるまなざしの強さだけは変わりがなかった。
「何を知っても、何を理解しても……あなたは何も取り戻せないと理解しているんでしょう」
『墓守』がどういう人間なのかは、これっぽっちも理解できない。黒い外套の姿にまとわりつく奇妙な歪さが、どういう意味を持つかなど想像もつかない。しかし私に向けられた視線の真摯さ、切実さだけは信用に値すると……そう思ってしまう私は、甘いだろうか。
「お前の言う通り、たぶん……いや、もう絶対に手遅れなのはわかっている。だからこれは私の自己満足で、単なる未練を断ち切るための行為なんだ」
暗いだけの奈落に今一度だけ、月明かりが差し込む。空を見上げたところで、過ぎ去っていく月影には追い付けない。わかっている。本当はここを訪れることに何の意味もないのだ。これはただ、わかりきった答えを思い知りたいだけのわがままだった。
「私はここに『弟』を探しに来た」
短く告げる。捉えどころのない紫の瞳が何度か瞬いて、『墓守』はやっと納得したかのように小さくうなずく。
「弟の名は『オーリ』。オーリ・S・セレスティライト。大戦末期……正確には月龍暦498年の『雷霆』投下直前、ディープヘイデン前線基地に配属された魔法兵だった。……お前は、弟を知っているのか?」
「その問いに対する答えは、『はい』寄りの『いいえ』です。……『自分』は彼を語る言葉を持ちませんが、あなたが結末を知りたいというなら、その手伝いくらいはできます」
『墓守』の言葉はどこまでもまっすぐだった。嘘ばかり重ねてきた私にとって、眩しすぎるほどの誠実さ。初めて会った人間にそこまでして手を差し伸べる理由はわからなかったが、どんな真意があるにせよ、私にとってはありがたかった。
「ありがとう。是非に頼む」
私の返答に、『墓守』は一度だけうなずいた。
「こちらこそ」
※ ※ ※
それからしばしのちのこと。
私は『墓守』に導かれ、暗い洞窟を進んでいた。『墓守』が手にしたランプの頼りない光に、私たちの影が浮かび上がる。むき出しの岩壁に揺れる人影は、まるで追いかけてくる幽霊か何かのようだった。
不気味な静けさと、周囲を包む深い闇。このランプの光を失ってしまったら、私たちは自分の姿形すら確かめられなくなる。想像するだけで耐えられないというのに、光の外から不意打ちのように伸びてくる白い手が、私に残されたなけなしの理性を静かに削り取っていく。
「やはり気になりますか? 彼らのこと」
先を行く『墓守』が、気遣わしげな声を投げかけてくる。私はといえば、悲鳴を上げることも忘れ、ただびくりと肩を震わせることしかできなくなっていた。そんな弱り切った様子を面白がっているのか、白い手が躊躇なく髪を引っ張ったり、服の袖を掴んだりしてくる。
「気になるというか。こんなにわらわら出てくるものを無視するのは難しいな……。実際のところ、こいつらは一体何なんだ? 彼ら、と呼称するくらいだから、何かしらの意志を持った存在なんだろうが……幽霊とかではないんだろう?」
言うまでもなく、白い手たちは幽霊などという具体性のない存在ではありえない。だが、それでは一体何なのかと聞かれても、私の中で答えを探すのは難しそうだった。まあ、限りなく無責任な言い方をするとしたら、こいつらは実体のある幽霊っぽい何か、だろうか?
「仰る通り、彼らは幽霊などではありません。ただ、生き物として分類きるような存在でもないんです。わかりやすく言うなら、『雷霆』のもたらす破壊を食い止めるため、この地に集ったミストリア王国兵たちの残滓……。もっと言えば、前線基地にいた人間すべてを鍋に詰め込み、高濃度の魔法力で抽出して出来た生命のスープの中身が彼ら、としか」
伸びてくる白い手は人間の成れの果て。そう考えると、私に縋ってくるのは助けを求めているからなのだろうか。真実を知ると憐れだが、闇に引きずり込もうとしてくるあたり、純化された悪意の化身でしかないのかもしれない。
こんなものを作るなんて、やはりミストリア王国は腐っている。以前からの疑いを裏打ちされて、自然と顔が歪む。
「あまり深く理解できないが、相当にやばい話だってことだけはよくわかったよ。しかし何だ、生命のスープって? まさかミストリアは魔法で人体改造でもしようとしていたんじゃなかろうな?」
「当たらずも遠からず、ですね。事実、大戦中期から末期にかけ、ミストリア王国軍は多くの魔法士を用いて人体実験を行っていました。すべては、自国を勝利に導くため。『神なるもの』を地上へと引きずり降ろし、人間の肉体に封じ込めることによって、生きた魔法兵器として利用する……。その魔法兵器の名を【光冠】といい、実験の完成体はディープヘイデン前線基地にて実戦投入されるはずでした」
『墓守』はよどみない口調で、極秘事項と思しき内容を述べていく。平淡な言葉からは深刻な雰囲気は伝わってこない。だが、それがすべて事実なのだとしたら、なかなかに狂った実験が繰り返されていたのではないか。
「その【光冠】とやらはどうなったんだ? これだけ『雷霆』に破壊されてしまっていては、すべて消し飛んでいそうだが」
「……【光冠】本体は自壊しました。しかし、その意志は今もこの地に縛りつけられています。あなたにまとわりついている『彼ら』も、【光冠】の一部でなんですよ。あの強い光はこの地を守る代わりに、ありとあらゆる命を取り込んで同化してしまった」
つまり、私の知っていたオーリはもうどこにもいないのだ。万に一つも生きているとは思っていなかったが、ランプの光が浮かび上がらせるこの闇に、弟の意識は溶けてしまったのか――。
「……『彼ら』は、『オーリ』でもあるんだな」
私の呟きに、『墓守』は無言で首肯した。伸ばされる白い手、暗がりからこちらを見つめる赤い瞳たち。これらすべてが弟の一部であり、もう二度とオーリが戻らない証でもある。『オーリ』は確かに死んだ。それでも弟のかけらは、この地の底で未だ五年前の悪夢に取り残されているのだろう。
「教えてくれ。オーリはどうやって最期を迎えたんだ」
私は『墓守』の背に手を伸ばした。結局、今の私にできるのは、オーリが本当に死んだという事実を確かめることだけなのだ。たとえ、弟が闇の向こうから私を呼んでいたとしても、彼を救うすべはない。何もかもが手遅れで、すべてが虚しくて。それでも私は、オーリの結末を知らずにはいらなれない。
「……オーリ・S・セレスティライト。彼は、今もあなたのそばにいる」
漆黒の外套に手が触れる。刹那、振り返った『墓守』が私の手首を強くつかんだ。骨ばった手にぬくもりはなく、空っぽな冷たさだけがそこにあった。生きている存在であるはずなのに、目の前に立つ青年からは命の気配が感じられない。それはさながら、生きながらに死に逝くがごとく。がらんどうな器に宿るだけの何者かは、私を見つめたまま、祈るような声で呟いた。
「……許さなくていい。許されなくてもいいから……どうかもう振り返らないでくれ。真実に価値はない。理由に意味なんてない。理不尽に奪ったことは永遠に罪で、代償を支払ったところで壊れてしまったものは二度と戻らない。だからもう、ここで終わりでいい。そうだろう皆? 『おれ』はもう」
「お前は……まさか」
「お願いだ、【オリオール】。もう一度だけ導いてくれ。誰も救えなかったこの命に、本当の終わりを与えてくれ」
願いのように、呪いのように。奇跡を求めて紡がれた言葉は、闇を切り裂く光となって、私たちを飲みこんでいった――。
――――
――
――都合の良い奇跡は起こらない。
人の身に過ぎた願いは叶わない。
けれど、私の額に触れた『神なるもの』は、微笑みながら語る。
『たとえ『神なるもの』の奇跡は起こらずとも、誰かを救うことはできる。誰かを助けたい、許したいと……そう願う人間の意志だけが、闇の底で足掻く誰かの光になれるのです。人を信じなさい。誰かを愛しなさい。あなたの抱く心ひとつで誰かが救われるのだとしたら、それは紛うことなき奇跡と呼ぶにふさわしい』
真白の光は悲しいほどに透き通り、嘘偽りなど簡単に暴いてしまうだろう。白い花のごとき【光冠】を戴く『神なるもの』は、紫の瞳を静かに閉ざすと、立ち尽くしたままの私の背を押した。
『いきなさい。あなたを待つ時間の果てへと。結末は変えられなくとも、まだ答えは何も決まっていないのですから』
光は、あらゆるものを白日の下にさらしだす。罪も、罰も。そして、刻み付けられた私の後悔さえも。
白い輝きが扉を形作り、私はためらうことなくそれを開け放つ。踏み出した一歩先が闇だったとしても、私はオーリにもう一度会いたい。
――――
――The Last Day 10 Years Ago.
――――
――扉を開くと、綺麗に着飾った男女の人形が座っている。
真っ赤な絨毯の上で両手両足を投げだし、不格好に傾いた顔がこちらを見つめていた。窓から差し込む夕日が、空虚なまなざしを赤々と染める。目にしたものを受け止められず、『僕』の呼吸は数秒の間、はっきりと止まった。こんな現実、あってはならない。
あれはただの人形。そうでなければおかしい。だって、二人が、父と母があんな最期を迎えるなんて『救いがなさすぎる』。いつだったか、救いのない人形劇を見た父さんだって言っていたじゃないか。『バッドエンドにしても、もう少し捻りがなきゃあな』――言うだけなら容易いだろうに、と僕は笑ったのだったっけ。
湿った床を踏みしめるたび、錆びた鉄のにおいが立ち上った。一体、彼らの身に何が起こったというのだろう。今朝別れた時には、少なくとも死の影などかけらも感じなかった。
唐突に訪れた日常の終焉。温かだった陽だまりは血だまりに沈み、むせかえるような異臭に包まれていた。何も変わらないと思っていた、ありふれた日々の終わりがこんなものだなんて、あんまりだ。悲しみや怒りより先に虚しさが胸を満たして、鼻の奥がつんとする。しかし、涙は一滴もこぼれず、僕は黙って唇を噛みしめた。
母が好んだ白い小花を散らした可愛らしい壁紙や、父が買い集めた陶磁器の天使たちはすべて、真白だった表面にどす黒い穢れを纏っている。乾ききった血の跡を見れば、『犯人』が両親をこんな風にしてからかなりの時間がたったのは間違いがなかった。
――そう、『犯人』。こんな異様な惨劇を引き起こした『犯人』は、必ずいる。
僕は、ゆっくりと背後を振り返った。何かの気配を感じたとか、そんな曖昧な理由じゃない。ただ、確かに『そこ』にいると理解した上で、鋭く言葉を放った。
「こんなことをしでかしたのは、お前なのか」
相手を真正面に捉えた瞬間、背後から首筋に冷たい刃があてがわれた。ひりっとする感覚と同時に痛みが襲い、僕は短い悲鳴を上げる。そうか、僕も殺されるのか。何もわからないままに、命を刈り取られて――。
「兄さんは殺すな」
冷めきった声が聞こえ、首筋に触れていた刃の気配が離れる。反射的に振り返っても、そこには両親の亡骸があるだけだった。今、背中越しにいた【モノ】は一体何だったのか。幻か、それとも……。だが、少なくとも首筋を伝う血の温度は現実だった。
「……『オーリ』……。父さんと母さんをこんな風にしたのは、お前なのか」
『オーリ』。名を呼びかけると、弟は猫のように目を細めた。見た目はいつもと変わりないのに、緑の目に光は宿らない。黄昏よりも暗いまなざしに、僕は思わず身震いする。知りたくなかった真実が、何も知らなかったという事実が、心を冷たく突き刺そうとする。
「そうだよ。おれがやった。二人は、おれが殺した」
「……どうして……!」
「どうして、だって? 本当に何も知らないんだね。こいつらが何をしていたか、気づいてもいなかったのか」
呆れたように首を振って、オーリは低い笑い声を立てた。笑みをかたどっただけの、暗い表情と声音。絶望的なまでに理解を拒絶する横顔は、確かに弟のものなのに、かつてのオーリとは似ても似つかない。心のない笑みは、谷底を削る水のように僕の感情を削り取っていく。
「こいつらは、父さんと母さんじゃない。二人の皮を被った【化け物】だ」
オーリは右手を横に薙ぐ。刹那、夕闇色をした光刃が虚空に現れ、高い音とともに僕の頬をかすめていった。まさか、これは【魔法】――? 身をすくめた僕の背後で肉を断つ鈍い音が響き、同時に何か重いものが床に落ちる。
「見ろ。あれが人間に見えるのか」
命令を受けた人形のように、僕はのろのろと振り返る。果たして、オーリが放った光の刃は両親であったモノを引き裂いていた。首から肩にかけてを切り裂かれた二人は、傷口からどす黒い何かを滴らせ、小刻みに震えながら地面へと倒れる。ぐしゃりとしか形容できない音が聞こえた瞬間、亡骸は醜く膨張し、真っ黒い奇怪な塊へと姿を変えてしまった。
「父さんと母さんは、とっくにいなくなってたんだ。見た目は同じでも、中身は人ではないものに入れ替わってた。こいつらはずっと……おれたちをだましてきたんだよ」
ぐずぐずに崩れた肉塊は、何かを求めるようにうごめき続けている。醜悪すぎる光景に、僕は口元を押さえることしかできなかった。父と母は、いつからこんなものに成り変わられていたのだろう。おぞましさで視界が狭まり、何も考えられなくなる。
「何も知らなかったのは兄さんだけだよ。こいつらは……おれたちを食うために二人のふりをしてたんだ」
「食う……だって……? なんのために?」
「さあね、化け物の考えることはわからない。理由なんて、知ったところでわかるわけないだろ?」
オーリは歪んた笑みを浮かべる。化け物だから、理解できるわけがないから、両親のふりをしていたから。だから、無抵抗な相手を殺したのか。
「二人は、抵抗しなかったんだろう? もしかすると、父さんと母さんの心は残っていたのかもしれない」
「何が言いたいんだ、兄さん」
「もし……もしだ。二人に心が残っていたなら……。お前が殺したのは、化け物じゃない。父さんと母さんだ……」
「だから?」
オーリの口調は風のない夜のように静かだった。僕の言葉が理解できないわけもないだろうに、どうしてそんな風に無関心な顔ができるのか。どうしてもその心が理解できない。
「だから何? だったら兄さんは、こいつらに食われても良かったって言うのか? 父さんたちを奪った化け物と、仲良く暮らせばよかったって?」
「違う。違うんだ、オーリ」
「何が違うんだよ。兄さんは都合のいい夢を見てるだけだ。こいつらに人の心なんてあるわけないだろ……! そうでなかったら、あんな」
オーリのまなざしに敵意が混じる。けれど、たとえオーリの言うことが事実だったとしても、父と母を殺していいわけがない。もしかしたら元に戻す方法があったかもしれないのに――。
「どうして、何も相談してくれなかったんだ……? 僕たちの両親のことだろう? なぜ、ひとりで決めてしまったんだ」
「どうせ兄さんにはわからない。きれいごとばかり言って、俺だけを責めるの? いい子ぶるのもいい加減にしてよ。おれはあんたを守ってやったのに!」
「僕は『父さんと母さんを殺してくれ』なんて頼んでない!」
僕たちの思いは決定的にすれ違う。心は互いを見ていたはずなのに、発した思いは相手に届かない。僕が思わず叩きつけた言葉は、オーリの顔色を変えるに十分だった。もともと青白かった顔からは完全に血の気が引き、瞳の奥の暗闇が一層深く大きくなる。
「なら、もういい」
拒絶の言葉を吐き、オーリは背を向ける。もう何も信じないと語る背中は、遠ざかった心の分だけ、僕から離れて行こうとしていた。
「オーリ」
行くな、と。たった一言が、どうしても言えなかった。差し伸べられなかった手の向こうで、オーリの姿がにじみ消えていく。引き留めなければ二度と会えない。頭のどこかで理解していても、僕はたぶん、オーリを許し切ることができなかったから。
「さよなら」
永遠に分かれるための挨拶なんて、あまりにも虚しい。夕日とともに消えた弟の姿を、僕は一生忘れられないだろう。
「さようなら、兄さん。もう二度と、おれのために振り返らなくていいよ」
――結末は、変えられない。
しかし、答えはまだ何も決まっていない――。
――
――――
「オーリ」
闇の中で呼びかけると、小さな光の粒が降り注いだ。降り積もる雪よりもなお白い輝きは、下に落ちることなく周囲を漂う。まるで待っていたとでもいうかのように、私が伸ばした手の向こうで静かに舞い散っていく。
これが『神なるもの』の力の一端だというのなら、この輝きの中にオーリは溶けているのだろう。かつて、私を拒絶し去っていた弟は、私の声を聞き届けてくれるだろうか。こんな形であっても再会したいと願うこと自体、私のエゴなのだとわかってはいたけれども。
「オーリ。やっと、お前を迎えに来ることができたよ。十年もの時間が過ぎてしまったが、ようやくお前の足跡に追いついたんだ。どうか、一度だけでいい。姿を見せてくれ。……私に……『僕』に……少しでも思いを残してくれているなら」
呼ぶ声は虚空に溶け、暗闇には静寂だけが残された。返らない言葉に唇を噛みしめても、その程度の痛みでは感情を上書きできない。やはりオーリは、引き留めることさえしなかった私を見限っているのだろう。何も知らなかった『僕』の言葉が、幼かったオーリにどんな失望を与えたか……。想像すれぼするほど、私の罪深さを思い知ることになる。
「私はずっと、思い違いをしていたんだ。あの時……お前がなぜ、両親の形をしたモノを壊したのか。あれはすべて、本当に何も知らずにいた『僕』を守るためだったんだな」
何もかもあとで知らされたことだが、あの異形たちは『僕』の知らぬうちに、人間を使って実験を繰り返していたらしい。家族と暮らしていたあの家の、使われていなかった離れ。そこにあった血や実験の痕跡を目にして、『僕』はやっと、オーリの身に何が降りかかっていたのかを理解した。
十年前のあの日以前から、オーリは両親がすでに別のモノに成り変わられていることに気づいていた。そして、やつらはそんなオーリを実験の材料として……。本来ならば『僕』も実験材料とされていたはずだと、当時事件を調査していた記者から聞いた時、オーリは本当の意味で『僕』を守ってくれたのだとわかってしまった。
心を蹂躙されるほどの苦痛から『僕』を遠ざけるために、オーリは両親であったモノを壊した。
なのに『僕』は、そんなオーリを信じず――結局、たった独りで逝かせてしまった。
「私を許さなくてもいい。理解を望んだり、想いを押し付けたりしない。だから、頼む……教えてくれ。お前はどんな気持ちで最期を迎えたんだ? 少しでも、自分で納得できる道にたどり着けたのか……?」
これはエゴ。取り戻せない時間を埋め合わせることなど、誰にもできはしない。その証拠として、オーリからの返答はない。ただ音もなく光が舞い散り、遠くへと離れて行くだけだ。
――ああ、本当に私は愚かで、どうしようもないほど許しがたい。
光の群れが消えてしまう。輝きはまた一つ、ひとつと闇へと溶けて行く。とどめようと伸ばした手のひらの中には、かけらの一つも残らない。飛び去っていく光たちを追いかけても、私の元には何も戻らなかった。
「……オーリ、ごめんな。振り返ったとしても、お前は二度と、『僕』の方を見ないだろうけど」
最後に、たった一粒の光だけが残された。周囲を照らす力もない、そばを漂うだけの頼りない輝き。強い光の中では白さに紛れ、闇の内にあっては存在に気づかれることもない。そんなささやかな光だけが、私の傍らに寄り添っている。
「……オーリ?」
指先を伸ばせば、光はゆっくりと近づいてくる。そばにいることを確かめるように舞った輝きは、触れようとすると静かに遠ざかってしまう。しかしそれだけだ。逃げ去ることもなく、何も語ることなく、ただ、そばにいる。
「そうか、お前はとっくの昔に」
――私を探し出して、戻ってきていたんだな。
――
――――
おれは、許されないことをしました。
父と母を殺し、兄を深く傷つけ……たった独り責任を負うことすらせず、すべてを投げ出して逃げ出したのです。
この記録が兄に届くことはないでしょう。だからこれは、おれのエゴ。誰にも届かない遺言として、【光冠】に刻んでおきます。
父と母をあんな風にした元凶は、これから起動させる【光冠】でした。
『神なるもの』を降ろすことで力を得るこの装置によって、父母には実験的に神にあらざるモノが付与されていました。それらは人に強力な魔力を与える代わりに、自らのしもべとして二人を変異させてしまったのです。その事実を知ったのは、おれがミストリア王国軍の魔法実験に参加した時でした。
ミストリア王国軍に魔法士として潜り込んだおれが、復讐のために【光冠】を使おうとしていると、これを読んだ人は思うかもしれない。
だけど、それは半分正解で半分間違いです。おれの最終目的は【光冠】の破壊ですが、ミストリアに復讐したいわけでありません。ただ、【光冠】に宿る『神なるもの』と約束したんです。あなたを兵器として利用させることはしない。正しい在り方に戻すと――。
もう、おれにはあまり時間が残されていないようです。【光冠】に接続された以上、どちらにせよここから動くこともできないのですが。
ヴァルザインの『雷霆』が投下されれば、このあたり一帯だけでなくミストリア全体が焦土と化すでしょう。【光冠】となったおれにできるのは、魔力によって威力を減衰させることだけです。それによって周囲は吹き飛ぶかもしれませんが、すべてを失うよりはいくらかましな結果になると思います。
……そろそろ、時間のようです。これよりおれの意識は『神なるもの』と一体となり、完全なる【光冠】となる。
願わくば、おれの命が跡形もなく燃え尽きんことを。
今まで奪ってきたものに対してそれで帳尻が合うとは思わないけれど、それくらいしか支払える対価がないんだ。
だからどうか、【オリオール】。おれの記憶も心もすべて、どこかへ消し去ってくれ。二度と目覚めない暗闇の底に溶けさせて、永遠に明けない夜の内へと閉じ込めてほしい。何もかも本当に終わらせられるなら、おれはもう、誰にも振り返られなくていいから。
少し、疲れたな……。そろそろ、眠ってもいいか……。
きっと夢は見ないだろうけど、最期に思い出せる記憶が故郷のものであればいい。緑の梢に芽吹いた、白い花のつぼみ。優しく降る雨の下で手を振る父さんや母さんの姿――。
……ああ、そうか。おれはただ、戻りたかったのか。
自分で壊した世界がこれほど大切だったなんて。今になって気付くなんて。兄さん、ごめん。
全部おれのせいだ……ごめんな、さい……。
「いいんだよ、オーリ。もう、苦しまなくていい。全部、わかったから」
光は震え、輝きを失おうとする。本当なら肩を抱いて「よく頑張ったな」と言ってやりたかった。だが、その程度のことも叶わない。
どうして、生きているうちに探し出してやれなかったんだろう。後悔しても取り戻すことのできない苦しみに胸が引き裂かれそうだ。オーリは背負わなくてもいい過酷な運命の元で、必死に耐え続けていたというのに。
「見つけてやれなくて、すまなかった。あの時、せめてお前を信じてやれれば良かったのに」
光を追っても、指先すらも触れられない。薄れていく。遠ざかっていく。永遠の向こう側へと、手の届かない穏やかな闇の奥へと。
「オーリ……! 行くな。いかないでくれ! 私はまだ、お前に何も返すことができていない! お前が私にしてくれたことの百分の一も、報いることができていないのに……」
……いいんだ、兄さん。
ここに来てくれただけでおれは十分だ。だけど、おれのことは忘れていい。苦しみや悲しみは、おれが一緒に貰っていく。
「だめだ……お前はまた、そんな風に一人で背負い込むつもりなのか……!」
違う、違うんだ。おれがここにいる限り、他の人たちもどこにも行けない。
【光冠】に取り込まれた命を解放するためには、どちらにせよ、おれが消えなくてはならない。それが実験の完成体として【光冠】に接続されたおれが、しなきゃならないことなんだ。だから兄さん、最期にお願いをしてもいいかな。
「最期だなんて……そんな風に言うなよ」
お願いだ。おれのかけらは消えてしまう。でも、降ろされた『神なるもの』はまだここに残り続けている。
兄さん、頼む。【オリオール】のそばにいてやってくれ。せめてあいつが、自らの足でこの場から立ち去れるまで。
光は薄れ、形も捉えられない。薄れゆく暗闇とともに、気配は消えていく。そばにあったはずの温度はもともと何もなかったかのように、冷たい手触りの闇と同じになる。きっと、オーリは二度と戻っては来ない。これが本当の意味での終わりで、替えのきかない最後の別れなのだ。
時間だ。もう行かないと。
何も残せなかった人生だけど、最期に兄さんが振り返ってくれて嬉しかったよ。
また、どこかで。さようなら……兄さん。
「ああ、またどこかで会えるまで、お前の願いは『僕』が叶えてやる! 次会う時は覚悟しろ! 利子たっぷり取り立ててやる!」
小さな輝きは驚いたように一度だけ強く輝き、優しい光で私を照らし出す。私はそこに向かって声を張り上げ、精いっぱいの笑顔で手を振った。
「オーリ、ありがとう……! お前が弟で本当に嬉しかったよ」
――……。
こちらこそ。
そして、私は独り温かな暗闇に取り残される。
何者にも妨げられない眠りに似た静けさの中、私は何も言わず、両手で顔を覆った。
※ ※ ※
どうやら、夜が明けたらしい。
今更ながらに気づいたのは、命からがら地下から這い出した少し後のことだった。
「まったくもってひどい目に合った……。まさか、外に続く地下道が水で沈んでいるとは……」
私は顔をしかめながら近くの岩に腰を下ろした。周りに視線を向ければ、少し離れたところに御者と別れた崖が見えた。どうやらそこまで大冒険だったわけでもないらしい。そう考えるとなんとなく納得がいかなくて、眉間にしわが寄ってくるのを感じる。
「結局、写真機も見つからなかったしな……。あれ、高かったんだぞ。私の給料の半年分! どこに行った!」
「いや、自分にそう言われましても」
自暴自棄になって両手を振り上げる私に、困惑した視線が注がれている。おかしなことをしているのは言われなくてもわかっているんだ。だが、自腹で買った給料半年分の写真機が消えた事実に、私の心はねじが外れてしまったようだった。